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沈興順 楽器としての古琴(七弦琴)の歴史

  澳門芸術博物館編『海天秋月—中國古琴文化展』図録掲載 2004年刊


古琴は、もともと「琴」と呼ばれ、中国に現存する最も古い撥弦楽器であり、約三千年以上の歴史を有すると考えられています。先秦から漢代にかけての文献には多くの記述があり、『礼記』には「昔、舜が南風を歌うために五弦の琴を作った」とあり、『詩経』には「琴瑟を打ち、鼓を奏して田祖を慰める」、「優美な淑女は琴瑟を友とする」、「椅の桐梓を漆で塗り、琴瑟を作る」と記されています。また、『風俗通義』には「七弦は七星を模し、大弦は君、小弦は臣である。文王と武王は二弦を加え、君臣の恩愛を表す」とあり、先秦の時代にすでに琴の音楽は盛んで、多くの人に重んじられ愛されたことがわかります。桐と梓を材料とした琴の製作も長い歴史があり、現在でも唐、宋、元、明、清の各時代の古琴が伝わっており、たとえ破損していても修繕されれば演奏可能です。

琴の起源については諸説あり、古籍によると伏羲氏、神農氏、黄帝、堯帝、舜帝などが創始者として挙げられています。しかし、時代が遠く原始的な実物が現存しないため、これらの説は琴の歴史の長さを示すにとどまり、誰がいつ発明したかは明らかになっていません。

現在の標準的な琴の長さは120~125センチメートル、最も幅の広い部分(肩や琴首)は約20センチメートルです。面板と底板が合わさり、その外側には漆や灰が塗られており、内部は空洞の細長い共鳴体になっています。面は丸みを帯び、底は平らで、下部に二つの音孔が開いています。岳山(がくざん)や龍齦(りゅうきん)は弦を支え、面に十三の徽(き)という音位標がはめ込まれています。底には二つの雁足(がんそく)が埋め込まれ、七本の弦を固定します。琴軫(きんしん)は底板の軫池(しんち)上に露出しており、調弦を容易にしています。現在伝わるこの形態の琴は唐代のものが最古で、唐代から現代に至るまで各時代でさまざまな様式や制作技術の変遷があるものの、基本構造に大きな変更はありません。


早期の琴の様相

唐代以前の琴器の姿については、現存する真品はなく、近代の考古学的発掘や現存する古画の断片からのみ、その一端をうかがい知ることができる。例えば、四川省綿陽で出土した東漢時代の琴を弾く俑(図1)は、琴の弾き方を示している。また、宋代の模写本である東晋の顧愷之が描いた「斲琴図」には、当時の琴の内外の形状や漆塗りの制作過程が描かれている。さらに、南京・西善橋南朝墓の壁画(図2)には、特徴的な琴の形状とともに琴徽(音位標)の最初の図像が描かれている。

過去二十年に発掘された重要な琴の実物としては、以下の四つが挙げられる。

一、湖北省随県の戦国時代曾侯乙墓から出土した十弦琴(図3)
全長67センチメートルで、1978年に発見された。

二、湖南省長沙の五里牌戦国墓から出土した九弦琴(仮称)
全長79.5センチメートルで、1980年に出土したが、発見時には岳山、弦、軫は失われていた。龍齦上の弦の圧痕から推定すると、弦の数は九本かそれ以下と考えられる。


唐代

古代琴器、特に現行琴制の作りや変遷を研究するにあたり、唐代はまさに承前啓後の時期にあたる。琴の起源や変革を考察する場合、唐代以前にも古い文献は存在するものの、十分で確実な実物資料がないため、現時点では明確に判別することが難しい。しかし唐代は異なり、盛唐・中唐・晚唐に制作された琴器が現存し、その一部には年款(制作年の記載)もあるため、文献と照合して各時期の標準器を研究し確定できる。

琴器の制作水準に関しては、唐代は琴制作史上の頂点といえる。現行の琴制は唐代以前に大まかに形成されていたが、唐代に入ってさらに完備され、ほぼ完成の域に達した。したがって、唐代の制作様式は後世まで伝えられ、千年以上経った現代でも大きな変更は見られない。これは当時の優れた技術と品質が評価されたことの表れであり、唐代以来の琴作りは後代にわたり模倣され続けている。

唐代には著名な制琴家が多く輩出され、とりわけ西蜀の雷氏一族が最も名高い。盛唐期の雷威がその中で最も著名であり、他に雷霄、雷文、雷珏、雷迅などがいる。『陳拙琴書』によれば、かつて明皇(唐の皇帝)が蜀に帰還した際、雷儼が「翰林斲琴待詔」(皇帝に仕える制琴官)に任じられたことが記されている。雷氏一族の琴制作の伝統は代々伝わり、唐末までおよそ百年以上続いた。

雷氏一族以外の唐代の名工としては、張越、沈鐐、郭諒、李勉、馮昭などが知られるが、残念ながら雷氏以外の作品は現存していない。

現存する唐代の標準琴器としては、盛唐の雷威制作「春雷」琴、「九霄環佩」琴(図5)、中唐の至徳丙申年款の「大聖遺音」琴、「玉玲瓏」琴、そして晚唐の太和丁未年款「独幽」琴、「飛泉」琴(図6)などがある。

これらの琴は、宮廷用の「大聖遺音」のようなものから一般の制作者による「飛泉」のようなものまでさまざまだが、制作技術や様式には共通する当時の特徴がある。これらの特徴は概ね以下の数点にまとめられる。

一、材の選択

琴の材料には古来より桐や梓が用いられてきたが、現存する唐代の琴の中には、松や杉を用いて面板や底板を作ったものもある。たとえば、「九霄環佩」や「玉玲瓏」は桐の面板に杉の底板を用い、「飛泉」は面板・底板ともに杉材である。

『女郎環記』によると、雷威の琴作りは必ずしもすべて桐材にこだわらず、しばしば大風や雷雨、雪の降る中に峨眉山へ赴き、良質の松や杉を選び伐採して琴を作ったとされる。彼は桐よりも優れた松杉の材を使うことがあったということから、唐代の人々が琴の材選びにおいて、必ずしも古来の定法に固執していなかったことがうかがえる。

また、北宋時代の『斲匠秘訣』には雷氏の言葉として「良材を選び、意を尽くすこと五百年、正しい音を得る」という記述があり、材の選定に対する重視が窺える。

二、形状・形制

古人は「唐は丸く、宋は扁(平たく)」と言った。宋・元・明の琴と比べると、唐代の琴の形は確かに丸みを帯びている。例えば盛唐の琴は、面板が広く丸みを帯びてふっくらとしており、また琴の「項(ネック)」「腰」などの内側が狭まる部分では上下の角を丸く処理し、あるいは薄く削っている。琴の額(前端)部分は下方向から外側へ徐々に斜めに広がっており、琴体のこの3か所の厚みを軽減し、膨らみの感覚を抑えている。中唐から晩唐にかけては面の丸みがやや控えめになるが、丸み自体は依然として保たれている。また琴底の「額下」「項」「腰」の3か所の薄く丸める造り方は盛唐と変わらない。

唐琴の岳山(岳)は十分な高さがあり、龍齦(竜の顎のような装飾)も適切な高さを持っている。この高さのことを「前が指一本分、後が紙一枚分」と表現する。また「低頭(琴の前端が少し低くなっている)」も適切であり、低頭は多くの場合、四徽(弦を支える4つの琴柱の位置)から始まり、段々と水平面より下がっていき、岳山の内側まで達している。こうすることで、弾く時に手が琴面に触れにくく、左手の指で弦を押さえる際にも力が要らない。このことが古人の言う「岳は指が入らないほど高いが、弦は低く、弦は低いが琴面に当たらない。弾くと指の下に弦が無いかのようだが、響きは豊かである」という趣旨にかなっている。
(「其岳不容指,而弦不㪇」
—— 岳山(琴の隆起部分)は指が入らないほど高いが、弦は触れたり擦れたりしない。
「岳虽高而弦低,弦虽低而不拍面,按若指下无弦,吟振之则有余韵」
—— 岳山は高いが弦は低く張られており、弦は低いが琴面には当たらない。指で押さえると、まるで指の下に弦が無いかのようだが、弾くと豊かな余韻が響く。
つまり、「岳山の高さと弦の高さのバランスが絶妙で、演奏時に弦が琴面に触れず、指で弦を押さえる感覚も軽やかでありながら、豊かな響きが生まれる」という意味合いです。)

現存する唐琴の形には、伏羲式、神農式、鳳勢式、連珠式、師曠式、鳳嗉式、そして唐末に登場した仲尼式などがあり、その長さはおおよそ120cmから125cmの範囲にある。

三、琴腹(琴の裏面)

現存の各時代の唐琴のうち、面板が桐材または杉材であるものにかかわらず、一部の琴では琴の腹(裏側)の内側の面板、龍池や鳳沼の部分(あるいはそのどちらか一方)に、桐の木片をはめ込んで「仮衲音(かりのうおん)」という音響効果を作り出しているものがある。さらに盛唐や中唐の琴では、その仮衲音の中央に円形の溝を掘るものがあり、これは宋代の人々が雷氏琴の特徴として称賛したものである。

琴の腹の底板は「琴底全体がくぼみ、微かに瓦を伏せたようになっている」、「龍池や鳳沼の弦の部分には唇のような膨らみがあり、それ以外の部分は全てくぼんでいる……これにより音に閉塞感が出る」と宋代の記録にあり、これらは雷氏・張氏の琴の特徴であるとされる。その結果、琴の腹内部の音は「音が外に出ようとするが狭く閉じ込められ、徘徊して去らず、余韻が生じる」という効果をもたらす。

唐琴の音の特徴は多くが宋代の記録に残されている。例えば『琴苑要録』には「唐代の賢人たちが重んじたのは、雷氏と張氏の琴であり、雷氏の琴は重厚で実感があり、音は広がり力強く雅であり、張氏の琴は堅く清らかで、音は澄み渡り美しい」とある。また『陳氏楽書』には「斲琴の妙技は、蜀では雷霄や郭諒が知られ、呉では沈鏢や張越が知られる。雷霄や郭諒の琴は清く雄大で深みがあり、沈鏢や張越の琴は虚ろで響きが良い」と記される。

仮衲音をはめ込む技法は唐代以降、二宋から明初にかけても時折用いられていた。

史料によれば、唐代の名琴師・李勉は小さな桐の木片を接着して「響泉」や「韻磬」といった名琴を作ったとされるが、残念ながら現存していない。しかしこのような「百衲琴」の製作法は宋・明以降も続けられた。

四、漆・灰・断紋(塗り・灰胎・ひびの模様)

唐琴の表面の漆の色は、黒色と栗殻色の二種類があり、朱赤色は後代に加えられたものである。表面の漆の下にある灰胎は、必ず純粋な鹿角灰で作られている。灰胎の下には麻布を用いて、下から上へと琴の背面と両側を包み、面板のところで止めている。これは面板と底板の接着線を保護し、割れにくくするためである。この製法は宋代の琴にも引き継がれている。

唐琴の断紋(ひびの模様)は主に「蛇腹断(へびの腹のようなひび)」が中心であるが、「氷紋断(氷のひび割れ模様)」「流水断(水が流れるような模様)」および「蛇腹断」の間に混ざる「牛毛断(牛の毛のような細い割れ目)」も存在する。

以上の点は唐琴の重要な特徴の一部にすぎず、唐代の琴制作の全体的な偉業を網羅するものではない。ただし、唐代は琴制作史において、過去を受け継ぎながら新たな発展を成し遂げた重要な時代であることを示している。


五代

唐の後の五代はわずか53年の短い時期で、その間に呉越の銭忠懿王が天台寺の良質な桐材を探し出させ、「洗凡」「清絶」という二つの名琴を制作したという逸話がある。これにより、琴が当時も依然として世に重んじられていたことがわかる。しかし、南宋以降に制作されたこれら二つの琴はすでに失われており、現在見られるのは後世に制作された同名の琴だけである。五代時代の真品で年款が付されたものは、いまだ発見されていない。しかし五代は期間が短く、北宋初期も唐の時代から遠くないため、この時期に制作された琴器は唐代の遺風を色濃く残していると考えられる。

その顕著な例として、1937年に刊行された『今虞琴刊』に掲載された、故・蘇州の琴家・呉蘭蓀が所蔵していた宋の太祖が制作した「虞廷清韻」という琴(図7)がある。この琴は伏羲式で、形状や寸法が唐代のものと非常に似ている。琴面は修復の際に断紋(割れ目模様)が完全に失われているが、琴の背面を見ると、丸みを帯びた形状はまるで瓦を伏せたようで、そこには剣の刃先のような流水断(流水模様の割れ目)が広がっている。腹面には「開宝戊辰」の4文字の年款が刻まれており、これがなければ唐代の制作と間違われるほどである。これにより、五代から北宋前期の琴器制作は、なおも唐代の影響を強く受けていたことがうかがえる。


宋代

宋代は、唐代に続く琴の製作史上、もう一つの重要な時代である。唐代の優れた琴製作の伝統を受け継ぎつつ、皇帝や高官の重視、また文人や学者たちの愛好によって、やがて非常に特徴的な時代様式が形成された。明代初期の曹昭の『格古要論』には「宋の時代には官営の製琴局が設けられ、琴にはすべて定まった規格があり、長さや大きさが統一されていた。これを官琴と称した。様式に合わないものはすべて野斲(私製)であるが、偽作も多いため、慎重に見分ける必要がある」と記されている。すなわち、官によって専門の製作機関が設けられ、多くの琴が製作されたのである。後の明代における潞王琴の規格統一も、これに端を発する。

とりわけ注目すべきは、前宋の太宗が九弦琴を創案したこと、また徽宗が南北の名琴を宣和殿の「百琴堂」に収蔵したことである。これらは、宋王朝が琴をどれほど重視していたかを示している。

宋代の琴人たちは演奏に励むだけでなく、多くの琴学に関する著作を残しており、後世における唐宋時代の琴器研究の重要な参考文献となっている。たとえば、北宋の欧陽修の『三琴記』、蘇東坡の『雑書琴事』、沈括の『夢渓筆談』には、唐琴の材質や製作の特徴が記録されている。また、『琴苑要録』には北宋の製琴法が収録されている。宋末の周密による『雲煙過眼録』では、唐宋時代の名工や名琴の伝来について詳述されている。明代に編集刊行された宋人の著作『太古遺音』には、奏法のみならず、琴の構造、製作法、歴代の琴様式などが図文入りで収められている。

南宋の趙希鹄による『洞天清録』の内容は非常に広範で、琴の様式の変遷、材料の選定、材質の種類、製作および漆灰法、琴腹の構造、断紋の分類と偽作の見分け方、付属器具など、あらゆる事項が詳述されている。その論述は大半が鋭く的確で、『太古遺音』とともに明清期の譜にもたびたび引用・転載されている。

宋代の琴器の展示概要について、以下に分けて述べる。

一、琴製作の名匠たち
宋代には琴を製作する名匠が非常に多く、『雲煙過眼録』には以下のような人物たちが記録されている:

【北宋】
慶暦年間の職人たち
蔡睿又(さい えいゆう)
僧智仁(そう ちにん)
衛中正(えい ちゅうせい)

崇寧年間の職人たち
朱仁済(しゅ じんさい)
馬希亮(ば きりょう)
馬希仁(ば きじん)

【南宋】
金淵(きん えん):汴(べん、開封)出身で、紹興年間の名匠
金公路(きん こうろ):金道と称され、紹興初年の人物
陳亨道(ちん こうどう):高宗の治世に活躍

南宋後期:
厳樽(げん そん)
馬大夫(ば たいふ)
梅四官人(ばいし かんじん)
龔老応奉(きょうろう おうほう)
林杲東卿(りん こう とうけい)など。

二、琴の様式

現存する唐代の琴の様式はわずか七種類であるが、明代初期の寧王・朱権が宋代の田芝翁による『太古遺音』をもとに編集した『太音大全』には、歴代の琴様式が三十八種類も収録されている(図8参照)。これにより、唐代から両宋にかけて琴の様式が次第に増加していったことがわかる。

なかでも「仲尼式」は最も広く知られた様式である。現存する実物資料から推測すると、仲尼式は晩唐の時期に登場したと考えられ、宋代に儒教思想が尊崇されたことから、特に広く流行するようになった。その結果、まるで唯一の規範様式であるかのような地位を築き、今日に至るまで衰えることがない。

たとえば、1937年に出版された『今虞琴刊』において、歴代の古琴約二百張を統計したところ、そのうちの八割が仲尼式であったことが記録されており、この様式が千年以上にわたっていかに広く用いられてきたかがうかがえる。

三、琴の材料

古代の人々は琴の製作において良材を何よりも重視していた。伝説によれば、漢代の蔡邕は焼け残った桐材を用いて「焦尾」と名づけられた名琴を作ったという。また『広博物志』には、「列子が泰山を遊歴した際、雷に打たれて傷んだ柱を見つけ、これを使って琴を作ったところ、非常に大きな音がした」と記されている。唐代の雷威が峨眉山の松を選んで琴を作ったり、五代の呉越王が寺の柱に使われていた良質の桐を手に入れて「洗凡」「清絶」という二張の琴を作らせた話もあり、いずれも優れた材の選別が重要であることを示している。

しかし、宋代の人々は単に良材を重視するだけでなく、「古材」や「古くて良質な材」をより重んじた。たとえば『洞天清録』には「古材は非常に得がたく、精金美玉以上の価値がある。これを得たならば、優れた職人に命じてすぐに琴を作らせるのがよい」とあり、また「今の人は、琴の池沼に『雷文』『張越』の銘を見れば至宝と信じるが、雷や張は開元・天宝年間の人々であり、今からそれほど遠い時代ではない。もし古材を得て、法に則り心を込めて琴を作れば、雷や張の作をも凌ぐかもしれない」と述べている。

そのため、宋代の名工による優れた琴は、その音色が唐琴に匹敵するほどであり、古くて良い材を選んで琴を作ることは、今に至るまで良音を得るための重要な手法とされてきた。たとえば、明代の益藩が作った琴には、製作年とともに「古良材を得た」と腹内に記されているものがある。また、香港のある琴家が所蔵する明・崇禎年間の仲尼式琴の腹内には、「大唐明福寺の鐘の梁に使われた古桐」「泰岳寺の殿堂の棟木に使われた古梓」などと記されている。さらには、現代の揚州の琴製作者が、出土した棺材を琴材として利用することもあり、その思想はまさに古人の伝統を受け継いだものである。

宋代には、表裏ともに桐材で作る「純陽琴」も創出された。南宋の趙希鹄が『洞天清録』に「表裏ともに桐を用いるものを純陽琴といい、古代にはなかった製法であるが、近世に生まれた。夜間や雨天においても音が沈まないことを狙ったものである」と記している。趙希鹄は南宋後期の皇族の末裔で、古器物に詳しい博識の人物であり、この記述から純陽琴は北宋末から南宋にかけての約二百年間に流行した製法であったと推測される。

なお、北宋前期の琴器は依然として古代の様式を踏襲しており、主に表面に桐材、底に梓(きささげ)材、あるいは松や杉を用いるのが一般的であった。

四、形制の変遷

現存する宋代の斲琴は、数量こそ唐琴より多いものの、製作年が明記されたものは依然として少ない。従来よく言われる「唐は丸く、宋は扁平」という説は外観――すなわちアーチの強弱や厚み――の変化だけを論じ、寸法(長さ・幅)の推移には触れていない。宋・明代の文献と典型的な現存品を照合してこそ、両宋期における形制の特色とその変遷の概要を探ることができる。

宋初の琴――たとえば太祖開宝款「虞廷清韻」など――は唐琴をほぼ踏襲している。しかしその後、丸味のある胴から次第に扁平へと移行し、「宋扁」と呼ばれる様式を形成した。アーチ形状だけでなく、寸法も唐代とは異なる方向へ変化してゆく。

現存唐琴の統計では、全長は概ね120〜125 cm、肩幅19〜21 cm、尾幅13〜15.5 cmである。一方『琴苑要録』(北宋中葉成立)には「近世に古制を模したものはやや短く、音が促して細い」「また古を顧みず長さと幅を増し、高鳴りを狙ってかえって琴音を失った」とある。ここでいう「古」は唐を指し、当時すでに唐琴を模す試みはあったが、寸法には各工の思惑に応じた改変が加えられていたことがわかる。以下、いくつかの実例で説明する。

 1.吉林省博物館蔵 仲尼式宋琴「松風清節」
全長116.8 cm、肩(三徽位置)幅18.6 cm、尾幅13 cm。表裏に蛇腹間の氷裂断紋を呈し、音色は枯淡で澄む。丸みのある胴に偽の唐款を刻むが、唐琴よりやや短い寸法は「古制の微短」例に当たり、宋琴の主流とは言えない。

 2.香港・硯琴斎蔵 仲尼式宋琴「鶴唳清宵」
全長127 cm、肩幅21.5 cm、尾幅15.5 cm。全面に蛇腹断が走り、音は蒼古雄渾。広く扁平な面は唐琴より大きく、『琴苑要録』が指摘する「長さと幅を加えた」作例であり、北宋琴の主要スタイルの一つ。

 3.中国国家博物館蔵 北宋 劉安世作 伶官式「混沌材」琴(図9)
全長123.5 cm、肩幅19.2 cm、尾幅14 cm。全体に氷裂断紋を帯び、発音は清澄かつ実直。
   また揚州胡氏蔵 北宋崇寧年間 馬希仁作 仲尼式琴(『今虞琴刊』所載)も黒漆に小蛇腹断を示し、音は透徹。いずれも中庸な寸法で、項・腰の稜角はまだ唐風の丸みを保つが、扁平・薄型・軽量化の度合いは「鶴唳清宵」を超え、宋琴――とくに北宋後期――の特徴を際立たせている。

宋室(宋王朝)が南へ遷都して以降、御府の名琴は各地に散り、制琴の風尚もそれに伴って変化した。その発展は南宋末期に至り、北宋の琴とはかなり異なる特徴を持つようになった。周密の『雲煙過眼録』には、「金公路、すなわち金道と呼ばれる者は、琴が薄く澄んでいて、紹興初期の人物である」「陳亨道は高宗の朝の人物で、琴は厚くて古風である」と記されている。紹興は宋高宗の年号であることから、南宋初期の琴には二つの大きなタイプが存在したことがわかる。すなわち、陳亨道のように厚みがあり古風で唐琴を模倣した作風と、金公路のように薄く澄んだ作風という、より典型的な南宋風格がそれぞれあったのである。

陳亨道の遺された琴は残念ながら未発見だが、金公路作とされる仲尼式「玉壺氷」琴(図10)は現在北京故宮博物院に所蔵されている。全長119.1センチ、肩は三徽の位置にあって幅19.3センチ、尾幅は13.3センチ。断紋は蛇腹断と流水断が混在し、演奏すると音色は澄んでかつ松のように清らかに響く。形状は薄く軽く、面の弧も比較的平らであり、まさに「薄く澄んだ(軽い)」特徴を備えている。これは後の南宋琴の制作における主要な方向性を示すものである。

南宋中期から後期にかけての琴の様式、特に南北宋の仲尼式琴の変遷については、『洞天清録』にこう記されている。「古琴はただ二種類、夫子(仲尼)と列子の形がある……しかし夫子・列子の形も肩が垂れて広いものであり、今のように肩が聳え狭いものではない」。具体例として、北京故宮博物院所蔵の南宋仲尼式琴「海月清輝」(図11)が挙げられる。全長117.5センチ、肩は一徽と二徽の間に位置し幅18センチ、肩は聳えて狭く、尾幅は12.5センチ。断紋は水波形で、面はやや平らで金属音のような響きを持つ。

これらの琴の実例と宋代文献を照合すると、宋琴の変遷の概要が理解できる。要点をまとめると、北宋の琴は唐琴を模した丸型から扁円、さらには扁平な形に変化し、とくに仲尼式は肩が垂れて広く、肩の幅は三徽の位置にありおおむね19センチ以上とやや大きめで、全体的に寸法は適中からやや大きいものが多かった。対して南宋の琴は、古作を模したものを除き、胴体が次第に扁平で狭小になり、中後期には肩が聳えて狭いものが多く、とくに仲尼式で顕著であった。肩幅は約18センチで、一徽半から三徽の間に位置し、大きいものは少なかった。

五、琴腹(琴の内部構造)

琴の槽腹(内部のくぼみ)については、唐代にすでに完成の域に達していた。宋代の人々は唐琴の槽腹の特徴を記すだけでなく、琴の内外の構造や寸法制度についても体系的に論じている。たとえば『太古遺音』には琴面・底面・槽腹の図解が添えられている(図12)。現存の実物と宋代の記述を照合すると、琴腹について特に注目すべき点は以下の三つである。

納音(のうおん)
 宋琴の中には唐琴を模して、桐の大きな木片を使った偽の納音を作る例がある。たとえば香港の歴風堂の「大雅」、硯琴斎の「雪涛」などである。これらは唐琴とは異なり、内部に隆起や丸い溝がなく、内面の板と同じ弧度である。「雪涛」に至っては特殊な構造で、偽納音が竹の釘で宙に浮かせるように繋がれており、板同士が密着せず隙間ができている。納音の両端には天地柱が支えとなっていて、その柱にも竹釘が貫通して面板や底板と連結している。このため音柱の数は通常の琴より多く、龍池部分の板は一尺以上の長さがあり、残響が途切れずに響くよう二重構造の面板と称されることもある。

音柱(おんちゅう)
 『太古遺音』では、天柱(上部の音柱)は丸形、地柱(下部の音柱)は四角形とされており、後世の標準的な解釈となった。しかし現存する伝世琴には、天柱が丸で地柱が四角、天地ともに四角、天地ともに丸など様々な形状が見られる。宋代の斲琴には音柱が矩形(長方形)であるものもあり、香港硯琴斎や開封丁氏所蔵の無銘仲尼式宋琴が該当し、宋代特有の製法の一種と考えられる。

声池・韵沼(せいち・いんしょう)
 槽腹の両端に掘られた半月形のくぼみである。北宋の『斲匠秘訣』にて「韵池」「尾池」と呼ばれ、『太古遺音』では図解とともに名称が交換されている。ただし、宋琴でこれらの声池や韵沼が実際にあるかは、内部を切断して調べた実物例がないため不明である。明清時代の破損した琴には、宋代の制琴法の影響を受けてこれらを彫った例がわずかに存在する。

六、灰漆断紋

両宋時代の琴制作では、主に鹿角灰(ろっかくはい)を下地に用いた。まれに鹿角灰の下に葛布(くずぬの)を施す例もあるが、多くはない。「八宝灰」の使用は北宋後期頃から始まったとされ、これは金箔や真珠、瑪瑙(めのう)、珊瑚、玉石などを細かく砕いて鹿角灰に混ぜたものである。しかし、伝世する琴でこの「八宝灰」を使用したものは少数である。

宋琴に見られる断紋(ひび割れ模様)は、蛇腹(じゃふく)、氷裂(ひょうれつ)、流水(りゅうすい)などが主で、牛毛断(ぎゅうもうだん)を持つものは稀である。

総じて宋代の琴器は、それ以前の時代に比べて更に発展を遂げており、琴の製作技術はより完成度を高めた。この時代の琴は唐代の名器と肩を並べ、後世の模範とされるに足るものである。


元代

元代はわずか百年にも満たず、そのため発展期とは言い難く、宋明の間の過渡期に過ぎないとされる。たとえば上博が所蔵する元代至正年款の伏羲式「月明滄海」は、全長117.3センチ、肩幅18.3センチ、尾幅12.5センチで、流水断紋を発し音は清実である。南宋後期の肩が高く狭い形状、面の弧が比較的平らな特徴を色濃く残している。一方、北京故宮博物院が所蔵する元代の嚴恭遠製仲尼式「清籁」(図13)は、全長121.2センチ、肩幅18.2センチ、尾幅13.0センチ、牛毛氷裂断紋を持ち、音は清亮である。狭く平らな面は共通しているものの肩は高くなく、その後の明代の琴の造形はこのような形が多い。

元代の制琴名家には、嚴古清、施溪云、施谷云、施牧州(または施木舟)、朱致遠などがいる。なかでも朱致遠の作品が最も著名で多く見られる。彼の琴には「赤城朱致遠制」「赤城朱遠」「赤城慎庵朱致遠」などの内款があり、陰刻や朱書の両方が見られるが、年款を持つものは少ない。1937年の『今虞琴刊・古琴征訪録』では、朱致遠款の琴を14点掲載しており、ほとんどが仲尼式である。湖北省白体乾所蔵の一品に「洪武三年赤城朱致遠」と記されたものがあり、真品ならば朱致遠は元末から明初にかけての人物と考えられる。

『今虞』に掲載された朱致遠款琴や近年国内外で確認されたものを合わせると、その総数は30点に迫ると見られ、特に小ぶりな仲尼式が多い。この種の朱致遠款琴には以下の4つの特徴がある。
(一)額(琴の上端)が短く尾が狭い、(二)肩は三徽に位置する、(三)面の弧は比較的丸い、(四)音色は清亮である。
例として湖北省博物館の「玉泉」、香港硯琴斎の「戛玉」などが挙げられる。体の幅が広いものは少なく、北京俪松居蔵の「金声玉振」、香港音音室蔵の「九霄環佩」はやや幅広で宋代の趣を残し、音は深く落ち着いており、朱致遠の初期作品と思われる。朱致遠款の「百衲」琴は現存が非常に少なく、虞山の呉氏蔵の一品のみ知られている。

なお、朱致遠の琴の模倣品は頻繁に見られ、腹内款に「朱智遠」「朱制遠」など誤刻されたものもあるが、これらは偽物の明確な証拠とはならない。


明代

明代における琴の制作は非常に盛んであった。歴代皇帝や親王、さらには宦官の間でも琴を愛好する者が多く、様々な形式の琴が制作された。皇室に愛好者がいることで、民間でも琴作りが普及し、結果として明代の琴は大量に流通し、現在の古琴のコレクションでも比較的よく見られる時代の一つとなっている。

明憲宗(成化)や明思宗(崇禎)は特に琴を愛好した。過去に阜西氏や香港の薇斎が所蔵する成化帝御製琴は、どれも造形が豪華で音色も豊かである。思宗は琴に強い執着があり、『大還閣琴譜・陸等序』には「上(崇禎)は鼓琴を雅好し、得意な曲は三十曲に及び……夜遅くまで琴を弾き続けた」と記されている。また、楊時百が『呉梅村詩注』から引用するところによれば、「崇禎戊寅の年(1628年)、内局(宮廷内の製作機関)で琴五百床(台)を製造し、内監の張姓の者が琴務を主管していた」とのことで、彼の琴への愛着がうかがえる。

明代には琴制作に精通した宦官も多く、著名な人物に明中期の戴義、明末の張元徳(上述の内監張姓の者)がいる。現在北京故宮博物院には、戴義が弘治帝の御旨を受けて監製し、名工惠祥が制作した仲尼式琴が一張残っており、制作は精巧で金石のような響きを持つ。

また、『琴学叢書・藏琴录』には楊時百が所蔵する伏羲式「飛龍」の記録があり、『今虞琴刊』には黄則均が所蔵する仲尼式「龍吟」が記されている。これら二つの琴の腹内款によれば、どちらも崇禎戊寅年(1628年)に張元徳の監督で製造されたものであり、内局で製作された五百張の琴の中に現存するものと推測されている。


明代宗室の琴制作は非常に盛んで、空前の規模であった。
特に、『琴学叢書』には「明の寧、衡、益、潞の四王は皆琴を弾き、潞王の琴が最も多く、益王が次に多く、寧王と衡王は最も少ない」と記されている。
他の藩にも琴制作はあったが、流通量は四王に及ばなかった。

①寧藩(朱権)款の琴は現在までに四張が確認されている。
南京博物院所蔵の「龍吟」
香港沈氏所蔵の「懸崖飛瀑」
湖南の顧氏所蔵「飛瀑連珠」
『琴学叢書』に記録された丁叔雅所蔵の「蒼海龍吟」
これらは様式やサイズは異なるが、音色は概ね松古の風を感じさせる。

②衡王の琴は非常に稀少である。
民国初期の楊時百旧蔵の宣和式「太古遺音」
涂東辰旧蔵の師曠式無銘琴
鄭穎孫旧蔵の伏羲式「龍吟秋水」
これら三琴は嘉靖乙卯(嘉靖14年、1535年)に制作された。

③益藩は嘉靖、隆慶から万暦年間にかけて数代にわたり大量かつ精巧な琴を制作した。
腹内には「潢南道人」「益国潢南道人」などの款があり、仲尼式を主に作った。
香港硯琴斋所蔵の「幽谷流泉」
天津博物館所蔵の「玉韵」
これらは背に「益藩雅制」「存诚养德」の二印がある。
また落霞式の琴も制作されており、
広州の楊新倫所蔵「龍吟」
北京春雲居所蔵「巨壑秋」
いずれも嘉靖年間に作られ、制作と音色は上品である。

④四王の中でも潞藩は後に始まったが、琴制作量は最多である。
崇禎癸酉(1623年)から始まり、四百から五百張に及んだ。
式様や寸法はほぼ統一されており、制作年が腹内に順に記されている。
背には「中和」という琴名と、敬一主人の詩「月印長江水」が刻まれ、
「潞国世伝」の大印が押されている。
丸池・方沼・八宝灰・面に金徽をはめるなどの製法で、断は流水と牛毛を組み合わせ、音色は金石の韻を帯びている。
崇禎甲戌年(1624年)刊行の『古音正宗』によると、「中和琴は皇明潞王敬一道人式」とされ、数百年来広く流通している。
しかし贋作も多く、鑑別は必須である。


宮廷や宗室以外にも、明代には多くの優れた制琴名手がいた。
高濂の『遵生八笺』には「我が朝(明朝)には高騰、朱致遠、惠桐岡、祝公望らの造琴家がいる……祝海鶴の琴は、材料の選定、斲り方、漆の使い方、音の調整に至るまで、どれも優れている」とある。
また、『文会常琴譜』には「明の成化年間には豊城の万隆(他の譜では方隆とある)、弘治年間には銭塘の惠祥がおり、彼らの琴は名高く、当代の人々に珍重された」と記されている。惠祥の琴は前述の通りである。

これらの制琴家以外にも、万暦から崇禎にかけては、江西の涂(と)氏、例えば涂明河、涂嘉賓、涂嘉彦がおり、『今虞琴刊』には涂氏の仲尼式琴が載っていて、その音は洪亮で透き通っているとされる。

また、銭塘の汪(おう)氏――汪舜卿、汪舜臣の琴は、形状が厚く素朴で整い、音は清く明るい。

さらに、著名な古呉(江蘇呉地方)の張(ちょう)氏――張敬修、張季修、張順修、張睿修、張敏修らも知られる。
張岱の『陶庵琴憶』には、張敬修の琴斲りは呉中の絶技の一つで、「百年にわたり敵なし」と称されている。
明末の虞山琴宗の名手、嚴澄は『楷琴記』で、友人の陸九來が張敬修に楷材で琴を斲らせた優雅な話を書いている。

張季修の遺作には、琴家成公亮が所蔵する仲尼式の「忘憂琴」があり、全体に蛇腹断(模様)があり、厚みがあり、音は壮健である。
張順修と張睿修の仲尼式琴は似通っており、寸法は適中、黒漆に牛毛断が多く、音色は清く響きやすい。
張敏修の仲尼式琴はやや狭く小さく軽量で、灰胎はやや薄く脆いが流水と牛毛の断紋をよく発し、面底は丸く弧を描き、音は沈みつつも重厚である。

このほか、明代の優れた制琴手や各地に散在する名琴はまだ多くあり、ここではすべて挙げきれない。


明代の制琴における最大の特徴は、式様の新創にあった。例えば憲宗(明憲宗)の「洛象」(図14)や寧藩の「飛瀑連珠」は、いずれも独特な造形で、以前には見られなかったものである。宋代の『太古遗音』には歴代の琴式が38図収録されていたが、明代末の『文会堂琴谱』や『古音正宗』では44種に増え、清初の琴譜である『德音堂』や『五知斋』では51式にまで達している。これらのほか、現存する琴器の中には、明代の譜本に収録されていない様式も多く見られる。

たとえば『古音正宗』で新たに追加された7式は、「漢綺」「正合」「梁鸞」「清英」「雷威万壑松」「月瞿仙連珠」「劉伯温蕉葉」などである。このうち「正合」「清英」の2式は、『太古遗音』でも別様の形式が挙げられており、これは明代の制琴家が古い名称を踏襲しつつ自ら形態を創り出した証拠といえる。たとえば「落霞式龍吟」も同様の例である。

明代において最も名高い新創式は、祝公望(通称:海鶴)が製作した「蕉葉琴」である。高濂の『遵生八笺』には次のように記されている。

「祝海鶴の琴は、材料の選択、斲りの技法、漆の塗り方、音の調整に至るまで、一つとして劣るところがなく、とりわけ漆の色が黒く艶やかで、遠く及ぶ者はいない。その蕉葉を取った形は祝が始めたものであり、私も一本を手に入れて大切にしているが、今や値も高い。真品は近年ますます入手困難である。」

現存の祝公望作の蕉叶琴は、軽巧で音が清明にして灵妙であるが、多くに年款が欠けているため、生没年が不詳である。かつて広陵の琴家である劉少椿や張子謙が所持した蕉葉琴にも祝の款はあるが年月は記されていない。

ただし、器形が大きく年款のあるものが一例見られ、それは全面に黒漆が塗られ流水断紋があり、音は古雅で静かに透る。作りや音色は蕉葉琴の頂点に位置し、高濂の記述に符合するため、祝公望の真作であることは疑いない。琴には名は刻まれておらず、腹内の墨書に
「大明嘉靖丁未(嘉靖26年)秋 龍遊海鶴道人祝公望制」
とあることから、その製作年代は弘治から嘉靖の間の人物であると推定される。


唐宋以来、琴器の灰胎は主に「鹿角灰」が用いられてきた。北宋末期には「八宝灰」が加えられたものの、その使用頻度は鹿角灰ほど広くはなかった。明代の琴では、灰胎に鹿角灰や八宝灰のほかに「瓦灰」や、その他「無名異」(漢方薬の一種)などの材料を用いた雑種灰も使われるようになった。瓦灰の使用開始時期は不明だが、伝世の標準的な琴器に見る限り、遅くとも明の洪武年間(14世紀末)までには用いられていたと考えられる。ただし、堅牢さや信頼性では鹿角灰に及ばない。

明代の琴の灰胎の材質選択が多様化する一方で、その厚みは唐宋時代に比べて徐々に薄くなった。そのため、灰胎に現れる断紋(ひび割れ模様)の種類は先代を超え、「蛇腹」「流水」「冰紋」「牛毛」以外に、「龍鱗」や「亀紋」といった断紋も見られる。特に明代末期の琴の灰胎は薄いものが多く、その断紋は「牛毛」「細冰裂」「小流水」「小蛇腹」などが最も一般的である。

明代の琴師は多く、前期に製作され年款(制作年の銘)がある琴は稀であったが、成化年間以降は署名や款記が増え、明代琴の年代判定に役立っている。概括すれば、明代の琴制は唐宋を継承しつつ、古材を選んで琴を作ることも少なくなかったが、琴器の構造においては大きな改革はなかった。明代の漆器や木工技術は世に高く評価されており、製琴においても形状は整い雅致を失わず、精巧な作りの琴が多い。古式を模倣するもののほか、独創的な造形の琴も時折現れ、これが明代琴の大きな特徴となっている。こうした琴は長く操缦者や鑑賞家に珍重されてきた。


清代

古くから、帝王や公卿はもちろん、一般の隠士に至るまで、琴を愛好する者は多く、古琴の収集や制作に熱心であった。清代も例外ではない。清の宮廷コレクションは豊富かつ精緻であり、その評価は天下に知られていた。例えば宗室の定府は、多くの優れた琴を所蔵していることで名高く、琴を数十面所持する琴家も珍しくなかった。

しかしながら、親貴(皇族・高官)で大量に制作して伝世した例は少なく、わかっているのは清末の名臣である張之洞ただ一人である。琴家の王生香が光緒庚寅年(1890年)に「無競居士」款の『山水清音琴』に記したところによれば、「無競居士」とは南皮の張之洞の別号であり、伝えられるところによれば琴を百面ほど制作し世に流布させたという。この琴は制作に非常に手がかけられており、音色は清らかで美しい。他の顕官の間に大量に制作した記録は聞かれない。

清代には多くの制琴者がいたが、名工や巨匠はいなかった。雷、馬、朱、張など古代の名匠とは比べられない。制琴技術が停滞した背景には、朝廷や王室が制琴に無関心だったことが影響している可能性がある。制琴の伝統は主に民間の琴家によって継承された。

清代の琴の演奏は非常に盛んで、琴譜の刊行も多く、前代を凌ぐほどであった。琴家は旧作の琴を収集し、修理するだけでなく、新たに制作して伝世することも怠らなかった。自ら制作する者もいれば、職人に依頼する者もいた。清代の琴は現代に近いため伝世数も多く、清琴もまた旧作琴の中でよく見られる一類である。

清初
清初の琴器は、依然として明末の遺風を色濃く残し、規格や様式を失っていなかった。康熙年間に涂居運が制作した仲尼式琴が確認されており、その造型や断紋(断裂模様)は明代の制作に非常に近いものである。例えば、劉少椿の旧蔵品である涂氏製の無名仲尼式琴は、音色が繊細で清透している。この琴の腹内には「康熙乙酉(1665年)制作、四十八張の三十二号」と記されている。
また、『琴学丛书』には楊時百所有の「仙籁」も康熙乙酉年に涂氏が制作したものであると記されている。楊時百は「弾くと純然たる金属音が出る」と述べており、この琴には「銅琴二張第二号」と刻まれている。
清中期
康熙末から乾隆年間には唐凱という人物がおり、多くの琴を収蔵し、自ら琴式を創作し、それを基に旧器を改作した。彼の所蔵品には「猿啸青蘿」、「松篁戛玉」、「石上清泉」、「海天秋月」、「一池波」、「鳴岡」、「洞簘」などがあり、現在も遺存している。
乾隆の盛世には、琴の制作は依然として規整であった。例えば硯琴斎が所蔵する乾隆庚戌(1760年)に楊璜が制作した仲尼式琴は、外形や制作が明代のものを忠実に模している。

清後期
しかし乾隆以降、制作水準は低下し、特に清末の琴器には精巧で整った作品も少なくはないものの、粗雑で古式を逸脱したものが多く、名のある制琴家も稀であった。
ただし浦城の琴家祝桐君は『与古斎琴谱』(図15)を著し、音律や指法の論述だけでなく、制作や修理法を詳細に記し、さらに制作修理に必要な道具の図解も載せている。この書は咸豊年間に刊行され、百年以上にわたり後学の琴制作・修理者にとって重要な手引きとなっている。

清末
清末の琴家による制作も多く、現存するものには蜀の葉介福制作の「清夜钟」、祝桐君の弟子である上海の張鹤が斲った膝琴「帰風」、湘の龔庸礼が雷撃木で作った無名琴などがある。いずれも仲尼式で、音には古韻が漂う。
広東の譚嗣同も「連珠式砂礫」や「落霞式残雷」(図16)などを制作した。
また光緒六年(1880年)に劉熙甫が作った竹節式琴は造工精緻で、音は宏亮である。龔庸礼の仲尼式無名琴や張之洞の仲尼式「山水清音」も清末琴器の代表例と言える。

清朝が退位した後も、各地で大量の琴制作が盛んに行われた。例えば、呉浸陽は明代の屋材を得て、易経の卦を記して上海で多くの仲尼式琴を斲った。これらはやや幅広で平たい造形で、数も多く、音はすべて宏透である。
また、賓玉瓚は湖南省長公署の旧桐材を得て、約140張の様々な琴を監修し、数十名の職人を雇い、楊時百らの協力を得てこれを行った。
さらに山東の王心葵、山西の孫净塵も各々200張以上の琴を監修制作している。これらは皆、清代の琴家が制作と伝世を志した成果の一端である。





沈兴顺 历代琴器概说

  澳门艺术博物馆编「海天秋月—中國古琴文化展」图录 2004年刊

古琴,原名琴,堪称中国现存最古老之拨弦乐器,可信有三千年以上历史,先秦以至两汉典籍中,颇不乏有关之记载,如《礼记》:“昔者舜作五弦之琴,以歌南风”,《诗经》:“琴瑟击鼓,以御田祖”、“窈窕淑女,琴瑟友之”、“椅桐梓漆,爰伐琴瑟”、《风俗能》:“七弦者,法七星也,大弦为君,小弦为臣,文王、武王加二弦,以合君臣之恩”,可知先秦之世,琴乐已然盛行,为众所重视喜爱,以桐梓制琴亦具悠久历史,迄今尚有唐、宋、元、明、清各代古斫流传,即有破损,经修缮后仍可供弹奏使用。

琴之起源,自古即众说纷纭;据古籍所载,琴之创始者有伏羲氏、神农氏、黄帝、帝尧、帝舜……等诸般说法,因年代久远兼无原始实物传世,上述诸说仅足显示古琴历史之悠久,惜未能穷究其为何时何人所创。

现时能行琴器长度多在120至125公分间,最宽处(肩部或琴首)约廿公分,即以最长宽之面、底板合成并外加灰漆,整体腹腔中空之狭长共鸣体,面圆拱而底平,下开两出音孔;除用于承弦之岳山、龙龈外,面镶十三徽以标示音位,底嵌两雁足以分系七弦,琴轸则外露于底板之轸池上,以便随时调音;现存此种已定型琴器以唐琴为最古。自唐至今,历朝所制之琴虽各显不同时代风格与制作特色,惟基本结构尚无重大改变。

早期琴貌

唐代以前之琴器面貌如何,目前督无传世真品可见,仅自近代考古所得及现存古画中略窥其一二。诸如四川绵阳出土之东汉弹琴俑(图1),显示抚琴态手法;宋摹本东晋顾恺之斫琴图中,具见当时琴式内外及制琴施漆过程;南京西善桥南朝墓内砖壁画(图2),不独描绘富特色之琴型,更首现琴徽图像……。近二十年出土之重要类琴实物则有下列四器:

一、湖北随县战国曾侯乙墓之十弦琴(图3),全长67公分,1978年出土。

二、湖南长沙五里牌战国墓之九弦琴(暂称),全长79.5公分,惜发现时已无岳山、弦、轸、据龙龈上九条弦压痕推断,其弦数似为九弦或更少,1980年出土。

三、湖北荆门市郭店村战国墓之七弦琴(图4)--湖北省荆门市博物馆藏,全长82.1公分,1993年出土。

四、湖南长沙马王堆西汉墓之七弦琴,全长82.4公分,1973年出土。

荆门郭店战国琴乃现见中国七弦乐器最早实物,其大小与琴体构造略同于先前出土之马王堆西汉琴;上列四器弦数,尺寸虽不一,若与唐代以来——即现仍通行之琴制比较,其同者;出土四琴俱有类似乎今之岳山、龙龈、琴轸等部件,琴体外髹漆,系弦法亦相似;异处则如下:

一、出土四琴均短小,最长之马王堆琴亦仅及今琴三分之二长。(有论者以汉代每尺23.1公分,符合蔡邕《琴操》所云:“琴长三尺六寸六分”之说,待考。)

二、无琴徽,未悉有否弹奏“泛音”,琴面非完全平直,除“散音”外,或可于局部弹“按音”;曾侯乙墓十弦琴之面板尤为起伏不平,较难按弹。

三、体形道宽尾狭,底板短于现板,底只及面长三分之二左右;面板后段为实木,前段方挖成T型槽腹,与活动式之底板合为共鸣箱;今琴则面、底等长并整体挖空,面底板胶合后,非破腹——即破开接合处,不能在再启音箱。

四、琴轸藏于腹内,须手打开底板始能调音;今琴之轸则置于琴体外,可随时调音。

五、只具一雁足,所有弦均系于一足上,不若今琴之七弦分系两足;亦无今琴之龙池、凤沼等出音孔。

四器中,马王堆七弦琴及曾侯乙墓十弦琴出土较早,故考界,音乐界论之者众,不少学者认同为今琴前身,即琴之早期实物;亦有琴家持异议,以为此两器音乐功能不足,与古籍所载之“琴”不符,其与今珍仅属同宗异族而非前后关系。因学术界对此等出土弦乐器未有公论,现暂称之为类琴乐器或琴属乐器。由此观之,欲真正认识早期琴器面貌,仍须待日后更多古材料及出土实物面世,方可进一步加以研究论证。

唐代

研究古代琴器——尤其现行琴制之作演变,唐代实属承先启后时期。考琴之起源变革,唐以前虽有古籍可稽,惜无足够而确切之实物佐证,故暂难辨清;唐则不然,尚有盛、中、晚期制作传世,部分更具年款,可配合文献记载以研究并订出各期标准器。若言琴器制作水平,唐代乃制琴史上高峰;盖现行琴制远于唐以前已大致形成,发展至唐,显然更为完备,几达完美之境,故其制相沿至今,历千多年仍无重大改变,既为时贤年重,亦备受后世推崇,自唐至今,历代俱有仿唐制作。有唐一代,制琴名家辈出,尤以西蜀雷氏家族为最著,族中最负盛名者则莫过盛唐时期之雷威,其余有雷霄、雷文、雷珏、雷迅……等多人,据《陈拙琴书》所载,昔明皇返蜀,曾诏雷俨充“翰林斫琴待诏”,雷氏制琴为时人所重,于此可见;其族制琴传统世代相传,延至唐末,达百余年之久。雷氏一族外,唐代制琴名家尚有张越、沈镣、郭谅、李勉、冯昭……等,惜乎雷氏琴以外,上述各名家无作品流传至今。现存唐琴标准器中,著名者如盛唐雷威制“春雷”琴、“九霄环佩”琴(图5),中唐至德丙申款“大圣遗音”琴、“玉玲珑”琴,晚唐太和丁未款“独幽”琴、“飞泉”琴(图6)等。然不论宫琴如“大圣遗音”,或野斫如“飞泉”,制作上均有共同之时代特点,概括言之,有如下数点:

一、选材

琴以桐梓为材,自古已然,惟传世唐琴中,亦有用松杉作面底者。若“九霄环佩”、“玉玲珑”为桐面杉底,飞泉则面底俱杉。据《女郎环记》所述,雷威制琴不必皆桐,每于大风雷雪中独往峨眉,择松杉之优者伐而斫琴,妙过于桐,可知唐人选材不拘泥于古人成法;北宋《斫匠秘诀》曾引雷氏语:“选良材,用意深,五百年,有正音”,亦见其对选材之重视。

二、形制

古人云:“唐圆宋扁”。较之宋元明琴,唐琴造形确属浑圆,如盛唐琴之面板漫圆而肥,又常于项、腰等内收部位将上下楞角作圆处理,或称减薄,琴额下亦向外渐斜出,以减少琴体此较厚三处之肥厚感;中唐以至晚唐之面浑圆渐逊,圆则依然,惟琴底“额下”、“项”、“腰”三处之减薄造圆方式仍与盛唐琴无异。

唐琴之岳山、龙龈均有合理高度,所谓“前一指,后一纸”是也;亦具适当之“低头”程度,其“低头”多自四徽始,渐次低于水平迄岳山内际,若如是则抚琴时既不易触及琴面,左手按弦亦不费力,此即古人所云:“其岳不容指,而弦不㪇”、“岳虽高而弦低,弦虽低而不拍面,按若指下无弦,吟振之则有余韵”之意。现存唐琴式样有伏羲、神农、鳯势、连珠、师旷、鳯嗉及唐末始出现之仲尼式等,通长则在120至125公分间。

三、琴腹

现存各时期之唐琴中,不论琴面为桐或杉,部份于腹内面板正对龙池、凤沼处(或其中一处)以桐木块镶贴成假衲音,更有盛唐、中唐之器于假衲音正中开挖圆沟,此宋人所称之雷氏琴特点;腹内底板则“琴底悉洼,微令如仰瓦”、“于龙池凤沼之弦,微令有唇,余处悉洼之……令声有关闭”,据宋人记载,此皆雷、张琴之特点,达致腹内琴音“声欲出而隘,徘徊不去,乃有余韵”效果。唐琴声音特点多见于宋人记载,如《琴苑要录》:“唐贤所重,惟雷、张之琴,雷琴重实,声漫劲而雅;张琴坚清,声清越而润”,又《陈氏乐书》:“然斫制之妙,蜀称雷霄、郭谅,吴称沈镣、张越;霄、谅清雄沉细,镣越虚鸣而响亮”。镶贴假衲音之法,唐以后历两宋至明初,期间仍偶有制琴家采用。

史载唐代制琴家李勉曾以小桐块胶缀之制成“响泉”,韵磬”等名琴,惜已失传,惟此种百衲琴宋明以来仍续有制造。

四、漆灰断纹

唐琴之表漆色有黑及栗壳两种,几朱红色皆后人所加,表漆下之灰胎必为纯鹿角灰;灰胎下则用麻布自下往上包裹琴背及两侧,达面之际而止,以保护面底胶合线使不易开裂;其后宋代琴亦有沿袭此类制法者。

唐琴断蚊以“蛇腹断”为主,亦有“冰纹断”、“流水断”、及“蛇腹断”间所夹杂之“牛毛断”等。

上述各项为唐琴之较重要特点,自不足以全面概括其整体成就,仅可说明唐代乃制琴史上继往开来之重要一页。

五代

唐以后为五代,维时仅五十三年,期间有吴越钱忠懿王遣使觅得天台寺柱良桐,制为“洗凡”、“清绝”两旷代名琴典故,足见琴之为世所重依旧,惜南宋后二琴皆已失传,现只见后世所制同名器,具五代年款之真品,迄今尚未发现。然五代历时既短,即北宋初年亦去唐未远,该时期所制琴器,应犹存唐代遗风。显著例证莫如1937年《今虞琴刊》所载——已故苏州琴家吴兰荪旧藏之宋太祖制“虞廷清韵”琴(图7);琴为伏羲式,造型尺寸酷肖唐物,期面经重修致断纹全损,观琴背则圆如仰瓦,且满布隐起如剑锋状之流水断,若无“开宝戊辰”四字腹款,几误以为唐制。可见五代以至北宋前期之琴器制作,仍深受唐代风格影响。

宋代

宋代乃唐以后制琴史上另一重要时代,上承唐代优良斫琴传统,加以帝王公卿之重视、文人学者之喜爱,渐而形成极具代表性之时代风格。明初曹昭《格古要论》“宋时置官局制琴,其琴俱有定式,长短大如一,故曰官琴,但有不如式者俱是野斫,然伪斫者多,宜细辨之”,由官家设局专司制琴,所造当不在少,尔后明代潞王琴之式样尺寸划一,此其滥觞;尤著者:前宋太宗之创九弦琴,后有徽宗之蓄南北名琴于宣和殿百琴堂,足见宋王室朝廷对琴之重视程度。宋代琴家操缦之余,尚遗不少琴学著作,为后世研究唐宋琴器发展之重要参考文献。如北宋欧阳修《三琴记》、苏东坡《杂书琴事》、沈括《梦溪笔谈》均记唐琴用材及制作特点;《琴苑要录》内收北宋人斫琴法;宋末人周密著《云烟过眼录》详叙唐宋制琴名手及名琴流传情况;明代辑刊之宋人著《太古遗音》,指法之外,尚收琴制、造琴法、历代琴式等,图文并茂;南宋赵希鹄之《洞天清录》内容甚广,举凡琴式演变、选材、琴材品种、制琴及漆灰法、琴腹构造、断纹类别及辨伪、琴用器物配件等莫不具载,立论大多精辟,其与《太古遗音》之内容屡为明清谱所转载引用。宋代琴器展概况现分述如下:

一、制琴名家
宋代斫琴名手甚多,如《烟云过眼录》即载有下列诸家:
北宋——蔡睿又、僧智仁、卫中正、庆历中人。
朱仁济、马希亮、马希仁、崇宁中人。
南宋——金渊、汴人,绍兴妙手。
金公路,所谓金道者,绍兴初人。
陈亨道,高宗朝。
南宋后期尚有严樽、马大夫、梅四官人、龚老应奉。林杲东卿等多人。

二、琴式

现存唐琴之式样仅七种,明初宁潘朱权据宋田芝翁《太古遗音》辑刊之《太音大全》集中,收历代琴式达三十八样(图8),可见唐至两宋琴式渐增,其中尤以仲尼式最这人熟悉。据现存实物资料推断,仲尼式出现于晚唐,更因宋代尊崇儒道,自此大为流行,几成一尊之局,迄今不衰,1937年《今虞琴刊》所载二百余张历代古琴统计,仲尼式十占其八,可知该式千余年来之流行程度。

三、琴材

古人制琴,向重良材,相传汉蔡邕取焚余之桐制成“焦尾”名琴,又《广博物志》所记:“列子尝游泰山,见霹雳伤柱,因以制琴,有大声”,或如唐雷威选伐峨嵋松为琴材、五代吴越王得寺柱良桐斫为“洗凡”、“清绝”二琴,比皆言良材之识别,惟宋人不独强调良材,亦重视古材、古良材。如《洞天清录》:“古材最难得,过于精金美玉,得古材者命良工旋制之,斯可矣”、“今人见琴池沼中有雷文、张越字便以为至宝,殊不知雷张皆开元天宝时人,去今能有几何?若得古材依法留心斫之,雷张未必过也。”毋怪乎宋斫之佳者,音韵可匹唐琴,而觅选古良材制琴冀得妙音之法,为历代制琴家所重视,至今依然,已成加快提高琴音水平之重要手段,如明代益藩所制琴,常有某年“获古良材”腹款;香港某琴家藏一明崇祯款仲尼式琴,腹内书有“大唐明福寺钟梁古桐,泰岳寺殿栋古梓”等语;以至现今扬州斫琴手采用出土棺椁木作琴材,其理均同。

宋人尚创面底皆桐之“纯阳”琴。据赵希鹄《洞天清录》:“底面俱用桐谓之纯阳琴,古无此制,近世为之,取其暮夜阴雨之际声不沉……”。赵氏为南宋晚期宗室后裔,好古博闻,可知纯阳琴应属北宋末至南宋两百年间某种流行制法,而北宋前期琴器一仍古制,以桐面梓底或松杉面底为主要琴材。

四、形制演变

传世宋斫虽较唐琴为多,具年款者仍少。前人唐圆宋扁之说仅言外形(弧度、厚度)演进,而未及尺寸(长短、宽窄)变化,须以宋明人记载配合典型器相印证,始可窥两宋间形制特色与演变概况。

宋初琴器,若前述之太祖开宝款“虞廷清韵”,制作特色仿佛唐琴,嗣后始自圆而扁,渐成“宋扁”风格;弧度以外,琴形尺寸亦生变化,与唐不一。以现存唐琴统计,其均在120——125公分间,肩宽不离19——21公分,尾宽则为13——15.5公分;据《琴苑要录》:“近代所效古制微短,其音促而声细”、“近代之人不稽于古,加其长阔,矫欲高鸣,失其琴音”,考《琴苑要录》约成书于北宋中叶,所谓“古”即言唐,可知当时虽有仿唐制作,尺寸则未必尽效,每随已意更改盼求迥异于唐琴之音韵。可举数例以说明:

1、吉林省博物馆藏仲尼式宋琴“松风清节”,通长116.8公分,肩当三徽、宽18.6,尾宽13公分,发蛇腹间冰纹断,音韵松古清脆,面底圆拱而内刻伪唐款,与上述唐琴尺寸比较,恰好是古制微短,然此仅为该时期仿唐而稍易尺寸例证,自非宋琴风格主流。

2、香港砚琴斋藏仲尼式宋琴“鹤唳清宵”,通长127公分,肩当三徽而宽21.5公分,尾宽15.5公分,面底皆蛇腹断,音色苍古沉雄,琴面呈宽扁状,其尺寸大于传世唐琴,正属“不稽于古,加其长阔”之作,亦为北宋琴主要风格之一。

3、中国国家博物馆藏北宋刘安世造伶官式“混沌材”琴(图9),通长123.5公分,肩宽19.2公分,尾宽14公分,通体冰纹断,发音清实;又《今虞琴刊》载扬州胡氏藏北宋崇宁马希仁制仲尼式琴,黑漆小蛇腹断,肩当三徽,其音灵透;此两者尺寸适中,同于常琴,项、腰之上或下楞角虽仍作仿唐之圆之理,论扁、薄、轻程度则逾“鹤唳清宵”,更显宋琴——尤其北宋晚期琴器特色。

自宋室南渡,御府名琴流散,制琴风尚随之又变,其发展至南宋末年,颇有与北宋琴相异处。周密《云烟过眼录》记:“金公路,所谓金道者,琴薄而清,绍兴初人”、“陈亨道,高宗朝,琴厚而古”,绍兴亦宋高宗年号,据此可知南宋初期琴器存两大类型:既不乏陈亨道琴厚而古之仿唐制作,亦有金公路琴薄而清一路较典型南宋风格。陈亨道遗器惜未之见,金公路所斫如仲尼式“玉壶冰”琴(图10),现存北京故宫博物院,通长119.1公分,肩当三徽而宽19.3公分,尾宽13.3公分,断纹兼蛇腹流水,按弹则松脆响亮,体溥且面弧较平,正具薄而清(轻)特点,此亦为尔后南宋琴器制作主要路向。南宋中晚期琴式特点——尤其南北宋仲尼式琴这演变,载于《洞天清录》:“古琴唯夫子(仲尼)、列子二样……而夫子、列子样亦皆肩垂而阔,非若今耸而狭也。”其实例可举北京故宫博物院藏南宋仲尼式“海月清辉”琴(图11),能长117.5公分,肩在一二徽之间,宽18公分,具耸而狭之状;尾宽12.5公分,发水波形断纹,面较平而具金石声。

以上述各器相较并证诸宋人记述,可知宋琴演变概略。要言之,北宋琴自仿唐之圆变为扁圆、扁,外形——尤其仲尼式常肩垂而阔,肩约当三徽而宽多不小十九公分,尺寸普遍适中,部份稍宽长;南宋琴除仿古之作外,体形渐趋扁平狭小,至中晚期之琴多呈肩耸而狭,尤以仲尼式为然,肩宽约十八公分而位于一徽半至三徽间,宽大者较少。

五、琴腹

槽腹制作,至唐已有大成,宋人不独记载唐琴槽腹特点,于琴器内外构造、制度尺寸亦具完整论法则。如《太古遗音》中,无论琴面、底、槽腹均有图文加以解说(图12),若以传世实物印证宋人所述,琴腹之可言处有三:

1、纳音——偶有宋琴仿唐制以桐木块作假纳音,如香港历风堂之“大雅”、砚琴斋之“雪涛”,内皆大块桐木板所制假纳音,与唐琴异处,中不隆起,亦无圆沟;弧度则与腹内面板同。“雪涛”尤属异制,其假纳音俱以竹钉悬空连接而板,不相紧贴而生空隙,两假纳音之首尾两端皆有天地柱支撑,各柱中尚有竹钉贯穿并连接面底板,故其音柱数目倍于常琴,当龙池一块长竟尺余,欲使余音关而不散,因亦称之为双层面板。

2、音柱——《太古遗音》以天柱为圆、地柱为方,后世多奉为标准,所睹传世历代琴器,则天圆地方、天地皆方、天地俱圆皆有;惟宋斫中亦见音柱作矩形(长方形)者,若香港砚琴斋、开封丁氏所藏无名仲尼式宋琴各一,其音柱均呈矩形,或属宋代特殊制法一种。

3、声池、韵沼——即槽腹首尾两端所挖之半月凹池,北宋《斫匠秘诀》首称之为韵池,尾池,《太古遗音》附图并易其名。然宋琴是否具此,未见剖开之实物暂不可知,所观已破腹之明清琴中,確有少数剜备声池、韵沼、当受宋人制琴法之影响。

六、灰漆断纹

两宋制琴仍以鹿角灰胎为主,偶有于灰胎下施葛布底者,然不多见。“八宝灰”之应用约始于北宋晚期,乃以金屑、珍珠、玛瑙珊瑚、玉石等碾碎混入鹿角灰而成,传世琴用此种灰胎者较少。

宋琴断纹有蛇腹、冰裂、流水等,具牛毛断者则鲜。

综观宋代琴器,较诸前代仍有所发展,琴制至此更趋完善,足与唐代先后辉映,同为后世楷模。


元代

元代历时未及百载,自不足以言发展,仅为宋明间之过渡期而已。如上博藏元至正款伏羲式“月明沧海”,通长117.3公分,肩阔18.3公分,尾阔12.5公分,发流水断而音清实,仍存南宋晚期肩耸而狭、面弧较平之遗风;若北京故宫所藏元严恭远制仲尼式“清籁”琴(图13)则稍异,通长121.2公分,肩宽18.2公分,尾宽13.0公分,发牛毛冰纹断,其音清亮,虽仍狭小而面弧较平,然无耸肩状,其后明琴之造型每多类此。

元代制琴名家有严古清、施溪云、施谷云、施牧州(亦作施木舟)、朱致远等,以朱致远所制最著名亦最多见,其琴内款字不一,多署“赤城朱致远制”、“赤城朱远”、“赤城慎庵朱致远”等,阴刻、朱书皆有,然少具年款者,1937年《今虞琴刊・古琴征访录》曾载朱致远款琴达十四张,以仲尼式居多,唯白体乾所藏一张有“洪武三年赤城朱致远”款字,倘属真品,则朱氏应为元末明初人。以《今虞》所载,合近年海内外所闻见之朱致远款琴,其总数当不下三十,又以较小巧之一种仲尼式为最常见,此类朱氏款琴多具四特点:
(一)额短尾狭、(二)肩当三徽,(三)面弧较圆、(四)音多清亮;
如湖北省博物馆之“玉泉”、香港砚琴斋之“戛玉”俱是。体宽大者较少,若北京俪松居藏“金声玉振”、香港音音室藏“九霄环佩”,均稍宽大而略存宋意,发音苍松,或属其早年制作。朱氏款“百衲”琴,现仅见虞山吴氏藏一张。朱致远琴仿品屡见不鲜,有误刻腹款如“朱智远”、“朱制远”者,亦不擅作伪之明证。

明代

明代造琴之风甚盛,历朝皇帝,亲王以至宦官中,雅好操缦者众,所制各式琴器亦多;上既有好者,则民间普遍造琴自不待言,是以明琴大量流传于世,属现在旧珍中常见一类。

明宪宗(成化)、思宗(崇祯)等俱好琴。昔查阜西先生、香港薇斋均藏有成化御制琴,皆造型富丽、发音宏亮;思宗嗜琴成癖,据《大还阁琴谱・陆等序》:“上(崇祯)雅好鼓琴,所善可三十曲……上鼓琴多至丙夜不辄休……”,杨时百曾引《吴梅村诗注》:“崇祯戊寅,内局造琴五百床,内监张姓者主琴务”,可知其爱琴如此。明代擅琴太监特多,著名者如明中叶戴义,明末张元德——即上述内监张姓者,今北京故宫尚存戴义奉弘治御旨监制、名手惠祥所斫仲尼式琴一张,制作精美具金石声;《琴学丛书・藏琴录》记杨时百藏伏羲式“飞龙”,又《今虞琴刊》载黄则均藏仲尼式“龙吟”,据两琴腹款,俱崇祯戊寅张元德奉旨督造,似即内局造琴五百床之犹存者。

明代宗室造琴之多,可称空前,其尤者如《琴学丛书》所言:“明宁、衡、益、潞四王皆能琴,潞琴最多,益次之,宁、衡最少”,它藩虽有制琴,流传则逊于四王;
宁藩朱权款琴暂见有四:南京博物院之“龙吟”,香港沈氏之“悬崖飞瀑”、湖南顾氏之“飞瀑连珠”、《琴学丛书》载丁叔雅藏之“苍海龙吟”,式样尺寸不一而音多松古。衡王琴传世甚稀,所知者如民初杨时百旧藏宣和式“太古遗音”、涂东辰旧藏师旷式无名琴、郑颖孙旧藏伏羲式“龙吟秋水”等,三琴造型虽异,皆制于嘉靖乙卯岁。
益藩自嘉靖、隆庆至万历间,数代造琴,量多且精,腹款署“潢南道人”、“益国潢南道人”等,式以仲尼为主,如香港砚琴斋之“幽谷流泉”,天津市博物馆之“玉韵”,背俱刻“益藩雅制”、“存诚养德”二印;亦斫有落霞式如广州杨新伦藏“龙吟”、北京春云居藏“巨壑秋”等,均造于嘉靖年间;所见益藩遗琴,制作声音多属上品。
四王中潞藩虽为后起,造琴则最多,制作始于崇祯癸酉,达四、五百张,式样尺寸如一,并按年份次序编号于腹内,背皆刻“中和”琴名、敬一主人“月印长江水”诗一首,“潞国世传”大印一,圆池方沼,八宝为灰,面镶金徽而圆拱,断发流水兼牛毛,音饶金石韵,据崇祯甲戌潞藩刊行之《古音正宗》,称其中和琴为“皇明潞王敬一道人式”,数百年来潞琴流布天下,至今犹存,然伪者亦多不可不辨。


宫廷宗室以外,明代制琴名手亦复不少,高濂《遵生八笺》:“如我朝明高腾、朱致远、惠桐冈、祝公望诸家造琴……若祝海鹤之琴,取材斫法,用漆审音,无一不善……”又《文会常琴谱》:“我朝成化间则有丰城万隆(它谱作方隆),弘治间则有钱塘惠祥,其琴擅名,当代人多珍之”,惠祥所制已见前述;上列诸家以外,万历至崇祯间,尚有江西涂氏——如涂明河、涂嘉宾、涂嘉彦,《今虞琴刊》曾载涂氏造仲尼式琴,其音洪透;又如钱塘汪氏——汪舜卿、舜臣,琴形俱厚朴方整,发音清亮;更有著名之古吴张氏——张敬修、季修、顺修、睿修、敏修等,张岱《陶庵琴忆》称张敬修斫琴为吴中绝技之一,“可上下百年,保无敌手”,明末虞山琴宗,严澄曾作《楷琴记》,述其友陆九来延张敬修以楷木斫琴雅事;张季修遗制如琴家成公亮藏仲尼式忘忧琴,通体蛇腹断纹,外形厚实,发音苍雄;张顺修、睿修所制仲尼式颇相类,尺度均适中,多具黑漆牛毛断,且音色清越可听;敏修制仲尼式琴偏狭小体轻,灰胎略脆薄常发流水牛毛断,面底圆拱而音转沉浑;此外,明代斫琴能手及散存各地之名器仍多,于此不克尽录。

明代主要居就在于式样增创,如宪宗之“洛象”(图14),宁藩之“飞瀑连珠”,造型独特,俱前所未睹者。宋人《太古遗音》收历代琴式止三十八图,明末《文会堂琴谱》、《古音正宗》等增至四十四种,清初琴谱如《德音堂》、《五知斋》则达五十一式,此外,见于传世器而明肖谱本所未收录者尚多。若《古音正宗》新增七式:汉绮、正合、梁鸾、清英、雷威万壑松、月瞿仙连珠、刘伯温蕉叶等,就中“正合”、“清英”两式于《太古遗音》中犹列有说不样类,此明人擅于循古名以创其形之证也。又如落霞式龙吟,即为其例。明代新创之最负盛名者,莫过祝公望(海鹤)所制蕉叶琴;《遵生八笺》记:“若祝海鹤之琴,取材斫法,用漆审音,无一不善,更是漆色黑莹,远不可及,其取蕉叶为式,制自祝始,余得其一,宝惜不置……,且价今重矣,真者近亦难得”,对之推崇备至。传世海鹤蕉叶,体偏轻巧而音清灵,然多缺年款,致其生卒难考,昔广陵琴家刘少椿、张子谦所蓄蕉叶琴,皆有祝氏制款而乏年月;器宽大兼具年款者曾见其一,通体黑漆流水断,发音苍古静透,制作声音均所见蕉叶之冠,其特点合乎高濂所记,信为祝公真鼎无疑,琴未刻名,腹内墨书“大明嘉靖丁未(嘉靖二十六年)秋龙游海鹤道人祝公望制,其属弘治至嘉靖间人似可断矣。”

唐宋以来,琴器灰胎以“鹿角灰”为主,北宋晚期增有“八宝灰”,然其应用远不如鹿角灰之广。明琴不仅灰以鹿角、八宝,亦用“瓦灰”,或以它种材料如“无名异”(中药一种)等制成的杂类灰。瓦灰之为用不知何时始,自传世标准器所见,当不晚于明洪武年间,若论坚牢可靠,它灰俱不如鹿角灰。明琴灰质之选择既增,灰胎厚度反渐逊唐宋,所生断纹种类遂逾前代,“蛇腹”、“流水”、“冰纹”,“牛毛”以外,尚见“龙鳞”、“龟纹”等断;尤其明季器之灰胎,薄者为多,其断纹又以“牛毛”、“细冰裂”、“小流水”、“小蛇腹”等最常见。

明人造琴不少,前期所制而具年款者亦稀,成化以还,斫者渐多署款,此有助于后人鉴定明琴之年代。概括而论,明代琴制沿袭唐宋,亦不乏选古材以斫琴之举,其于琴器构造则无重大改革。惟明人素工漆木器作,世所称誉,斫成者多不失规整雅致,更屡见精良制作,仿古式样以外,时有别出心裁之器形创作,此明琴一大特色,历为操缦家,鉴琴家所珍视。

清代

自古以来,不论帝王公卿、布衣隐逸,凡嗜琴者多有搜求古斫雅好,清代亦然;若清宫之收藏既富且精,甲于天下,宗室如定府即以多蓄佳器而闻名,琴家拥琴数十者比比皆是,惟亲贵中大量斫造以传世者则少,所知仅清末名臣张之洞一人,据琴家王生香题光绪庚寅无竞居士款山水清音琴:“无竞居士者,南皮张之洞别号也,相传造琴百张,流布人间,此其一也”,该琴制作考究,发音清越,此外,未闻显宦中尚有大批造琴者;清代斫手虽多,惜无名工巨匠,难与古之雷、马、朱、张等名家相提并论,究其制琴技术不前,则朝廷王室之忽视斫制,或有关连,造琴传统之继承,实以民间琴家为主。

清人弹琴风气甚盛,刊行琴谱之多,过于前代,琴家每有收藏旧制雅兴,修整之余,亦不忘斫造传世——或躬亲挥斧,或延工绳墨,所制之琴不少,且清代距今较近,清传自多,故清琴亦属常见一类旧斫。

清初琴器,仍具明末遗风,不失规距,曾见康熙年间涂居运制仲尼式琴,造型断纹逼肖明斫,如刘少椿旧藏涂氏制无名仲尼式琴,发音细腻清透,据其腹款乃康熙乙酉造琴四十八张之三十二号;《琴学丛书》载杨时百之“仙籁”,亦康熙乙酉涂氏所制,杨氏云:“弹之纯作金声”,内刻“铜琴二张第二号”。康熙末至乾隆间有唐凯其人,藏琴甚多,喜自创琴式并据之改斫旧器,所藏如“猿啸青萝”,“松篁戛玉”、“石上清泉”、“海天秋月”、“一池波”、“鸣冈”、“洞箫”等,至今犹存。乾隆盛世,造琴尚称规整,若砚琴斋藏乾隆庚戌杨璜斫仲尼式琴,外形制作仿如明物。乾隆以后,制作水平下降,尤其清季琴器,虽不乏精巧工整之作,惜粗拙乖古者仍多,斫琴名手亦鲜,独浦城琴家祝桐君著有《与古斋琴谱》(图15),论述音律指法外,详列制琴及修琴法,且有图文介绍制修所需工具,是书刊行于咸丰年间,百余年来已成后学斫修者之津梁。清末琴家造琴不少,现存者可举蜀人叶介福制“清夜钟”、祝桐君之徒沪人张鹤斫膝琴“归凤”、湘人龚庸礼以雷击木制成之无名琴等,式皆仲尼且音具古韵;粤人谭嗣同则斫有连珠式“砂砾”、落霞式“残雷”(图16)等;又如光绪六年刘熙甫制竹节式琴,造工精致,发音宏亮,其与龚庸礼斫仲尼式无名琴,张之洞制仲尼式山水清音等均足为清末琴器代表。

清室逊位后,各地复有大量造琴盛举,如吴浸阳获明代屋材,以易卦为记斫琴于沪上,多为仲尼工而略宽扁,其数不少,音皆宏透;宾玉瓒得湘省长公署旧桐,监制各式琴一百四十张于湖南,鸠工数十,倩杨时百家匠秦华主其事;又山东王心葵、山西孙净尘均曾大批监斫,各制诸式琴二百床以上,此皆清代琴家志于斫造传世之余绪。



参考書目

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21.『文会堂琴譜』1『琴曲統合』第6冊中国芸術研究院音楽研究所蔵明刊本、中華書局1987年版。
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  沈兴顺 历代琴器概说    2015.11.20写 

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