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松風の音を聴きながら、右手の漫山閣から左手ふもとの聖寿寺を見る |
晋祠の門の前で乗った車は、いったん西に向ってから山にわけ入り、簡単な入山の登記をした後、尾根つたいを快調に飛ばします。車の前を茶色の雉が驚いて飛びあがります。晋祠のある平地では熱かった気温が、たちまち爽やかになっていきます。いくつかの峰をつたい、一つの小高い頂きの切符売場につきます。ここが天龍山の山頂です。
車をおり南へ山道を下ると、あたりは松林に取り囲まれ、風に鳴る松の音と香ばしい空気に包まれます。
そもそも天龍山は、東魏の大丞であり北斉皇帝高祥の父、高歓(こうかん)が、避暑宮にしたところ。今でも旧趾を訪ねることができるそうです。東西2つの峰の間に古人が掘った2丈ほどの洞があり、水底から天然の鉱泉水が湧きで干ばつの時も涸れないといいます。松林浴といい天然水といいなるほど昔、高歓がこの辺りを避暑宮にしたわけでます。
ほどなく石窟が広がる天龍山中腹の崖、漫山閣近くにでます。
天龍山は、またの名を方山といい、山西省太原市の西南36キロにあります。海抜1700m、呂梁山脈の支脈です。天龍山は東西2つの峰があり、大小高低の異なる石窟24が東峰8窟、西峰13窟、山北3窟と1キロにわたり分布しています。石窟の規模は小さいですが、1500余りの仏尊、1144幅の浮雕、藻井(そうせい)、壁画があります。
石窟の開鑿(かいさく)は、北魏の雲崗石窟の後をうけ、東魏(534-550)の高歓の時に始まり、北斉・隋・唐・五代のほぼ5世紀にわたる造窟をへています。北斉の皇帝高祥は晋祠東北の晋陽を別都として、引続き石窟を開窟し、隋の煬帝も晋王として開鑿を続け、晋陽から大唐帝国を起した唐の高祖・太宗の李淵父子も石窟を保護し、天龍山の石窟のピークをつくりました。この興盛は晋陽が北宋によって壊され、太原に城を移すまで続きました。天龍山石窟は代々の宗室が関わっていた重要な石窟であることがわかります。
東魏の窟は第2、3号窟。北斉は1、10、16号窟。隋代は第8窟。晩唐から五代には天龍山最大の第9窟。その他は全て唐時代です。とりわけ盛唐以降の彫刻を見るうえで欠くことができません。
天龍山石窟は今世紀前半、外国の侵略者の破壊にあい、ほとんどの仏頭、藻井、飛天が国外、特に日本や欧美緒国に散出してしまいました。
第9窟・漫山閣は、仏頭までのこるわずかな例として天龍山石窟を代表しています。
第9窟・漫山閣 |
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下層の中央には十一面観音が立ち、左右には文殊・普賢菩薩がおのおの青獅子、白象にのります(当初は彩色されていたと思われます)。唐時代の盛唐以降の雕刻の水準を伝え、造型は爛熟しています。頭部は最近の後補ですがおおきな違和感はありません。 |
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西窟 | |
第16・17窟の外観 |
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左図のくつろいで座る菩薩像(東京国立博物館蔵 蔵品への直接のリンク:天龍山石窟西窟第14窟西壁菩薩)は、盛唐後半の彫刻をイメージする時の基準として、日本の東博でいつも見慣れていたものです。豊かにふくらんだ胸は、特殊な呼吸法をしている姿だともいわれ、身体の軸線を傾かせながら、崩れる手前で止め微妙なバランスを保っています。 |
東窟 |
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聖寿寺 |
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聖寿寺は、石窟から下った、山のふもと近くにあります。もとは天龍寺といい、創建は北斉の皇建元年です。寺内には天王殿、薬師殿、大雄宝殿、九蓮洞、鐘楼、禅堂院などがあり、広大な規模です。 |
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天龍山石窟の遠望 |
7月14日(金) 北京 大同
15日(土) 大同 雲崗石窟
16日(日) 大同 華厳寺 懸空寺 木塔 岩山寺 五台山
17日(月) 五台山台内の諸寺
18日(火) 五台山台外の諸寺
19日(水) 五台山 太原
20日(木) 太原 休息
21日(金) 太原 山西省博物館
22日(土) 太原 平遥古城
23日(日) 平遥 双林寺 鎮国寺 喬家大院 太原
24日(月) 太原 晋祠 天龍山石窟
25日(火) 太原 北京