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 中国絵画史ノート 清時代4 揚州八怪、山水画から花卉画へ

揚州の繁栄
清中期乾隆年間1736-95 の安定社会 揚州は安徽・山西の塩商を中心に繁栄の絶頂
塩商馬曰琯、馬曰璐兄弟の小玲瓏山館のサロン、邗江吟社
文人袁枚1716-97 1781年羅聘《袁枚像》 京都国立博物館

揚州八怪
八怪は誰かについての様々な説(薛永年編『揚州八怪攷弁集』のを整理)

汪鋆『揚州画苑録』       李鱓                   李葂
凌霞『天隠堂集』     高風翰 李鱓   金農 黄慎   鄭燮 李方膺     辺寿民 楊法
李玉棻『甌鉢羅室書画過目考』       李鱓 汪士慎 金農 黄慎 高翔 鄭燮 李方膺   羅聘    
葛嗣浵『愛日吟廬書画補録』 華嵒       金農     鄭燮          
黄質(賓虹)『古画微』       李鱓 汪士慎     高翔 鄭燮 李方膺   羅聘 辺寿民 陳撰
陳衡恪『中国絵画史』       李鱓 汪士慎 金農 黄慎   鄭燮 李方膺 閔貞 羅聘    

身分:潤筆料をとり売画で生活
布衣(無官)の文人職業画家:金農高翔汪士慎
   元官僚の文人職業画家:李鱓鄭燮李方膺高鳳翰
    文人化した職業画家:黄慎羅聘華嵒
              辺寿民閔貞陳撰
         [指画派]高其佩
     (全くの職業画家:沈銓 ※八怪には含まれない)
画の特徴:
1.花卉画 “金臉(肖像),銀花卉,要討飯(乞食),画山水”『揚州画苑録』
2.写意水墨 沈周→徐渭→石濤→揚州八怪→近代呉昌碩、斉白石の系譜
3.詩書画篆刻一体 画冊など小画面に顕著

華嵒 1682-1756
華嵒自画像 [生涯]
字秋岳、号新羅山人、白沙道人 福建臨汀県(新羅は古名)人
1703年22歳杭州に住む 以降しばしば揚州に滞在
1751年70歳杭州に帰り没
[作品]
詩:詩集『離垢集』
画:人物、山水、花鳥、草虫に清奇な風格
1727年46歳《自画像》 北京故宮博物院
1732年51歳《金谷園図》 上海博物館 西晋の石崇と緑珠の物語
1730-38年49-57歳頃《鵬挙図》 泉屋博古館 『荘子』逍遥篇の大鵬を描く
1738年57歳《溪山楼観図》屏風 金箋紙墨画 12幅 各227.6×55.2cm
 サンフランシスコアジア美術館
《倣米青緑山水図》 上海博物館 青緑の米点
1755年74歳春《天山積雪図》 北京故宮博物院 晩年の代表作
1755年74歳《秋声賦意図》 大阪市立美術館 欧陽脩『秋声賦』の詩意
1755年74歳冬《陶淵明図》 日本個人旧蔵 

高鳳翰 1683-1749
高鳳翰自画像 [生涯]
字西園、号南村、南阜老人、尚左生 山東省膠県人
1702年20歳秀才となる
地方官を歴任後、揚州に流寓
1737年55歳右手麻痺のためこれ以降左手を使う 怪!
 同年12月沈南蘋のために徐璋《沈銓像》に題を書く→詳細は沈銓の項
[作品]
詩:詩集『南阜山人詩集』 没後、族弟高研邨(原名元真、字鶴汀)編
書:隷書を善くしたが、左手以降は独特に歪み老成した風趣が人気をよぶ
 『硯史』自刻硯を編集(二玄社復刊)
画:はじめ細筆による精緻な作、揚州客遊さらに左手以降、粗放さを増す
1719年37歳《書画帖》 泉屋博古館 長男高汝延-1731のため
1727年45歳《自画像》 北京故宮博物院
1734年52歳《指画図冊》 大阪市立美術館 
弘済江天図1734年52歳《山水書画冊》12開 紙本水墨設色 山東省博物館
1736年54歳《山水詩画冊》 ベルリン東アジア美術館
  参考 山東省の楊州八怪 高鳳翰 高鳳翰、高汝延の作品

李鱓 1686-1761(1760?)
[生涯]
江蘇興化人
1711年挙人になる
1713年9月康煕帝南巡の際、献詩口外、康煕帝の賞識があり南書房行走に入る
1714年蒋廷錫の下、内廷に供奉。詩画により公卿に知られる
1718年9月前“乞帰,給假帰裡”,宮廷を離開
1725年鄭板橋、李鱓、黄慎と揚州天寧寺に同寓
1730年再び宮廷に召され、高其佩より溌墨・指墨の法を得る 題画“梵王家異帝王家”
1734年再び宮廷を離開,臨行題句に宮廷画派と決裂の態度
1737年3月後山東臨淄県令を任
1740年滕県県令を罷免される 県志“為政清簡,士民懐之”
1741年歴下に先後一年余り住む
1742年歴下,滕県などを転々とする
1744年末、興化に帰る
1745年揚州で売画、小東門内の西雷壇に住む。この後数年、揚州と興化を往来
1755年揚州の竹西僧舎に定居、浮漚館を建て詩画に耽る
[作品]
書:小字の行草に情緒、大字は俗
画:混色を生かした花鳥に長じ、清末の海上派に大きな影響を与える
雍正年間1723-35頃《五松図》 絹本 160.2×89.0cm 東京国立博物館
自題「五松図詩」:“有客要余畫五松,五松五様都不同。
 一株勁直古臣工,晉笏垂紳立辟雍。頽如名將老龍鍾,卓筋露骨心膽雄。
 森森羽戟奮軍容,側者臥者生蛟龍。電旗雷鼓鞭雨風,爪鱗變化有無中。
 鸞鳳長嘯冷在空,傍有蒲團一老翁。是仙是佛誰與從,白雲一片青針縫。
 吁嗟!空山萬古多遺蹤,哀猿野鶴枯僧逢。不有百岳藏心胸,安能屈曲蟠蒼穹?
 兔毫九折彫癡蟲,墨汁一斗邀群公,五松五老儘呼嵩。懸之君家桂堂東,俯視百卉兒女叢。

《五松図》10本以上の異本:
  1735年雍正十三年《五松図》 南京博物院
  1747年乾隆十二年《五松図》 クリーブランド美術館
  1751年乾隆十六年《五松図》 294×137cm 2010年嘉コ春期拍売
  1755年乾隆二十年《五松図》 広州市美術館
  《五松図》 ケーヒル旧蔵 カリフォルニア大学美術館
  《五松図》 吉林省博物館 など
1734年雍正十二年十月《芭蕉竹石図》 195.8×104.7cm 北京故宮博物院
 鄭燮題:“君家焦竹浙江東,此畫還添柱石功。最草謳カ清貴客,宮袍南院四時紅。” 鄭燮との交友、仕官の志を共有
1736年51歳《花卉図冊》34開 京都国立博物館 李方膺、彭家屏等題
1740年乾隆六年十二月(1741)《芍薬図》 東京国立博物館
自題:“點罷熟支認不眞,人皆說是広陵春。春歸不醒烟花夢,十里笙歌聽殺人。
 禪智寺前春色賒,四枝開出爛如霞。巧逢名士簪回去,遂喚人間作相花。


汪士慎 1686-1759(一説に1762)
[生涯]
安徽休寧人。字近人、号巣林、溪東外史、晩春老人など
1686年安徽省于皖歙県黄山ふもとの富溪村に生
1733年馬氏兄弟の小玲瓏山館で《竹石図》を作、この頃邗江吟社で金農、高翔などと唱和、また呉、越に遊ぶ
1736年《粉梅図》
1739年54歳浙江から帰り左目を失明。しばしば彈琴で自慰
1744年揚州城辺に茅屋を買い《移居図》を作る、金農などの詩の祝賀
1752年67歳全盲。狂草を作り金農に告げ、「心観」印を刻す
[作品]
詩:1752年以後『巣林集』馬曰 が刻板
書:拙いが品格と静謐さのある書、隷書、篆刻を好む
画:梅花、水仙を好み、清爽な趣
 金农評“千花万蕊,管領冷香,厳然灞橋風雪中”
1725年隷書《観縄伎七古詩》 118.2×34.8cm 北京故宮博物院
1730年《墨花蘭石図》 138.4×44.4cm 北京故宮博物院
1735年《墨梅図》 93.4×52.9cm 北京故宮博物院
1739年《墨梅図》 85×32cm 北京故宮博物院
1740年《春風香国図》 紙本着彩 95×60.2cm 北京故宮博物院
《春風三友図》 77.5×37.9cm 北京故宮博物院
1741年《墨梅図巻》 18×604cm 北京故宮博物院 「左盲生」白文印
1747年《墨梅図》 142.7×75.5cm クリーブランド美術館
1750年行書《十三銀鑿落七古歌巻》 14.8×115.3cm 揚州市博物館

金農 1687-1763
金農自画像 [生涯]
原名“金司農”、字“寿田”
字寿門、号冬心、仁和(浙江省銭塘県)人
1706年蕭山に毛西河を拜見、冬に丁敬と交わる
1707年蘇州に行き何[火卓]を師として読書二年
1714年厲鶚と交わる
1720年揚州に行き陳撰、厲鶚と相聚、程夢星の 園に出入りする
1723年山東蓬 に行く
更名期:
1725年雍正三年39歳元月、名を金農に変える
“司農 " (九卿大官)の夢の破滅、“農"夫の隱逸思想へ
 暮春揚州を離れ、4年にわたる北游の開始 先ず北京へ
1726年南下し娘子関、太原、臨汾を過ぎ,山西沢州午亭山村の陳幼安の家に3年滞在
1733年『冬心先生集』『冬心斎硯銘』を広陵般若庵で開雕
1735年江西より揚州に帰る、浙江帰安知県裘魯青荐、博学鴻詞の試に応じる
成熟期:
1736年北京で応試、不合格のため帰る途中、曲阜に逗留、年末揚州、杭州に
売書画を開始
1746年杭州で60寿辰、冬揚州に住む
1748年杭州城南の妹婿の“何氏書屋”に種竹百竿
1750年再び揚州に行き謝司空宅(天寧寺)に客
1755年金農など盧雅雨の紅橋修禊に加わり詩を唱和
1756年揚州西方寺に住む
 友人に篆刻の丁敬、製硯の朱龍善、琴の荘潤郎、歌の蘇春解など
[作品]
詩:『冬心先生集』
書:金石書法の先駆 50代以降の漆書 怪!
 (天発神讖碑の篆意を交え横画が太く縱画が細いゴシック文字のような隷楷書)
前期:右肩下がりの行草書の成熟
 “金司農"落款“金司農印"“壽田"印
 “江湖聽雨翁"、“布衣三老 "、“與林處士同色"、“紙裘老生"印等
更名期:50歳以前“金司農印 "
 隸書成熟期、“隸楷"“寫經本楷書"の出現(木板の氣)
成熟期:50歳以後《西岳華山廟碑》から“漆書"の創造(金石の氣)
画:梅竹、馬、雑画、晩年には仏画に長じた “奇古の気”(『桐陰論画』評)
1736年50歳《墨梅図》4幅 各97×52cm 在宣武門外寓楼中画
1754年68歳《墨戯冊》12開 ニューヨーク・翁万戈 古拙
1761年75歳《自画像》 北京故宮博物院
1761年75歳《月下図》 北京故宮博物院

黄慎 1687-1768?(1770?)
[生涯]
字恭寿、号癭瓢、福建寧化人
1687年端午に福建省寧化の蛟湖に生
1700年父湖南に客死
1702年母の住む家を出、仏寺に入り書画を学ぶ
1712年張氏と結婚
1719年建寧、贛州、南昌、広東、南京などで売画
1724年揚州で売画、画名を得る
1725年鄭板橋、李鱓、黄慎と揚州天寧寺に同寓
 黄慎は平山下の李氏三山の草廬に移る
1727年寧化に回り母、弟を揚州によび養う、途中、瑞金で上官周に会う
1729年邵伯艾陵湖に遊び辺寿民、李鱓などと画を合作
1730年再び金陵に游ぶ
1735年母を伴い寧化に帰る
1736年福建を転々とし売画
1745年母世を去る
1751年再び揚州に行き、楊倬雲の刻竹斎、楊開鼎(星[山婁])の双松堂に住む
1755年如皋に游ぶ
1770年頃寧化の家中にて卒、2年後寧化の北郊の茶園の背に葬られる
[作品]
詩:『蛟湖詩鈔』
書:飄逸な趣の草書(転角で筆を停滞) 清に草書を善くする人は少い 怪!
画:草書の法による人物、山水に本領、時に福建地方の「閔習」 花鳥も独自に洗練
1726年40歳《花卉巻行書詩題図冊》12開 上海博物館
1729年43歳《邗水寄情冊》巻装 リートベルク美術館 双松堂にて
1735年49歳《秋柳詩意図巻》 東京国立博物館 山水の風景化
1738年52歳《山水墨妙冊》12開 泉屋博古館 自題「坐雲看起」秦淮の景

高翔 1688-1753
[生涯]
字鳳岡、号西唐、江蘇甘泉(揚州)人 詩画篆刻に巧み
1688年揚州府甘泉県に生
1707年20歳以前晩年の石涛のために印を刻す →石涛の項《贈高翔刻印》
1737年50初度,馬氏兄弟、汪士慎などと詩賀
1742年小玲瓏山館にて懐人詩120首を読む
1743年汪士慎、高翔合作《梅花帳》巨制
1744年《弾指閣》図
1748年留雲館にて焦五斗画梅
1753年揚州の五岳草堂に卒,享年66歳
[作品]
詩:『西唐詩鈔』散逸
書:八分を巧みにし、晩年右手を廃し左手で書し、奇古と評された
画:山水は初め弘仁、後に石濤の奔放な筆に学ぶ 簡略な筆の詩画小品に長
1722年《「無声之詩作有声之画」山水図》 79.7×41 北京故宮博物院 
《揚州即景図冊》8景 北京故宮博物院 明府王晴江が平山堂で催した席にて
《山水図冊》12開 23×55.4 上海博物館 毎頁に金農題詩

鄭燮 1693-1765
[生涯]
字克柔、号板橋、江蘇興化人
貧困青年期:
1693年康煕三二10月25日興化東門外古板橋に生
1706年14歳継母[赤邑]氏卒
1715年23歳徐氏と結婚
1716年24歳秀才に受かる
1718年26歳真州の江村に塾を設け教える
1722年30歳父立庵先生卒
揚州売画期:30代
1723年雍正元31歳 この頃揚州で売書画
1724年32歳 江西などに行く
1725年33歳李鱓、黄慎と揚州天寧寺に同寓、第2次北京行、慎郡王允禧(?-1758康煕帝第21子)を識る、揚州に帰り『道情十首』原型を書く
1727年35歳通州に行く
1728年36歳8月李鱓、黄慎と揚州天寧寺に同寓
1729年37歳『道情十首』初稿完成
1731年39歳妻徐氏病歿
科挙受験期:40代
1732年40歳南京郷試、挙人になる
1735年43歳饒氏を識る。鎮江の焦山にて読書、杭州へ
1736年乾隆元年44歳 北京に行き進士
1737年45歳揚州に帰り饒氏と結婚
1741年49歳入京、允禧親王などと交わる
山東県令期:50代
1742年50歳山東范県県令(知事)に赴任
1746年54歳濰県県令に、この年山東大飢饉、農民の困苦を救い善政をしく
1747年55歳済南の試院に参加し郷試の評選にあたる
1748年56歳乾隆帝の東巡にあたり書画史を任命され、泰山頂に40余日住む
揚州晩年期:60代
1753年61歳春、上役にさからい官を罷免される
1754年62歳春、杭州、湖州、会稽に游ぶ
 揚州に行き売書画の生活
1759年67歳潤例(揮毫料)を掲げる 資本主義前夜のユーモア、怪!
 大幅六両、中幅四両、小幅二両、書状・対聯壱両、扇子・斗方五銭
 凡そ礼物や食物を送っていただくのは、総べて白銀の妙に如きません
 公のお送くりなさる所、未だ必ずしも弟(鄭燮)の好む所ではありません
 現銀を送っていただけば、則ち中心喜楽し、書画皆佳くなります
 礼物は既に糾纏(煩瑣)に属し、賒欠(貸し売り)は尤も頼賑(貸し損)
 年老い神が倦いてしまい、また諸君子に陪した無益の語言はできません
  画竹多于買竹銭
  紙高六尺価三千
  任渠話旧論交接
  只当秋風辺耳過
   乾隆己卯 拙公和尚の属により「謝客」を書す

1765年73歳12月12日(新暦1766年1月22日)興化に卒、城東管阮荘に葬られる
[作品]
真気・真意・真趣の三真を備えた詩書画三絶の作
詩文:『板橋全集』 書信「家書」
白居易や陸游に似、民衆の痛苦を歌う詩「悍吏」「私刑悪」「孤児行」「逃荒行」
書:行楷に隷書の筆法と異体字をまじえた颯爽とした〈六分半書
 沈周、徐渭に習い以画入書(絵の描き方で字を書く)“吾作書,又往往取沈石田、徐文長、高其佩之畫以爲筆法,要知書畫一理也。”(1753年「墨竹図跋」南京市博物館蔵墨蹟)
「乱石鋪街」の章法(字形の大小や左右に乱れる配置、左右に傾く字)
山東県令期:50代
1752年乾隆17年60歳5月《新修城隍廟碑記》190×80 原碑:濰坊市博物館 最精の楷書
 1752年元日行楷草稿《重修城隍廟碑記》12開各22.3×18.3 南京博物院
揚州晩年期:多作期
1764年乾隆29年72歳楷書《懷素自叙帖語》軸 東京国立博物館
画:水墨写意の墨蘭・墨竹に最も長じる
徐渭、八大山人、石涛に学ぶ“石濤和尚客吾揚州數十年,見其蘭幅極多,亦極妙。學一半,撇一半,未嘗全學。非不欲全,實不能全,亦不必全也……。
科挙受験期:40代
1740年乾隆五年48歳《蘭竹石圖》127.6×57.7 北京故宮博物院 岩の中に題詩
揚州移住初期:最充実期
1753年61歳3月《墨竹図》屏風 東京国立博物館 みずみずしい墨色 
1753年61歳仲冬《遠山煙竹図》屏風 プリンストン大学美術館 画作の充実期
1753年乾隆癸酉十八年61歳12月25日《蘭花圖》96.3×48.2 北京故宮博物院
 “素心蘭與赤心蘭,總把芳心與客看。豈是春風能釀得,曾經霜雪十分寒。
揚州晩年期:多作期
《梅竹圖》 127.8×31.3cm 北京故宮博物院
画論:眼中之竹→胸中之竹→手中之竹の3段階論 胸有成竹から「胸無成竹」へ
 書画の関係“以書之關鈕透入於畫
 画蘭“蘭葉用焦墨揮毫,以草書之中豎長撇法運之”蘭花用隸書草書
多作:「一百餘家一千餘幅作品、其中書法約占三分之二」(周積寅)
 板橋派には、劉敬尹、鄭墨、木匠譚子猷などがおり、当時から偽物が多い

李方膺 1697-1756
[生涯]
字虬仲、秋池、号晴江、抑園、白衣山人、乳名龍角 江蘇南通人
1697年通州(江蘇省南通)に生(生卒経歴には1695-1755年などの異説、ここでは薛永年、崔莉萍による)
1706年10歳 父李玉メが進士に及第
1712年16歲康熙51年同郷の先輩丁有U1682-1764との45年の交流始まる
中年期 山東省楽安知県時代:
1729年父が雍正帝に謁見、方膺は破格の試用により山東省楽安知県に
1730年大水と飢饉の際の独断による救災策により劾せられる
1735年蘭山知県に配置、河南総督の性急な開墾策を諌めたため冤獄3月
 乾隆帝即位の下詔により総督が罰せられ方膺は出獄復職 北京で李鱓と交友
壮年期 南通服喪後の安徽省潜県令時代:
1739年父卒のため南通の家に戻り、3年後母卒のため引続き南通に喪服
1746年50歳 安徽省潜県令ついで1749年合肥県令
1750年再び独断の救災策を密告され官を辞し、安徽省合肥五柳軒に3年客す
晩年:公然と売画の生活 怪!
1753年57歳 南京淮清橋北の項氏花園に画室“借園”を構え(前年より)移る
 南京小倉山の随園に住む袁枚や沈鳳との「三仙出洞」の親しい交友
1756年60歳 噎疾のため南通に卒、遺嘱により袁枚が墓志銘を書く
[作品]
詩:『梅花楼詩鈔』
書篆刻:題画の行書が主 落款に自刻印も含むか →雅昌藝捜 印鑑款識参照
画:墨梅に最も長じる “蟠塞夭喬、古法未だ有らず”袁枚「李晴江墓志銘」
1751年《墨梅図冊》8開 30.5×33.8p 兵庫県立美術館 梅舒適コレクション
1753年《竹石図》 139.5×54.5cm 北京故宮博物院 乾隆十八年六月 風竹
 題:有肉之家竹不知,何堪淡墨一枝枝。老天愁煞人間俗,吩咐清風托畫師。
1754年《風竹図》 紙本水墨 147.7×55.5cm 上海博物館
自題:波涛宦海幾飄蓬,種竹関門学画工。自笑一身渾是胆,揮亳依旧愛狂風。
1754年《梅花図冊》14開 京都国立博物館
《遊魚図》 123.5×60cm 北京故宮博物院

閔貞 1730-1788?
[生涯]
字正斎、江西南昌人、漢口に住み、揚州に流寓 早くに父母を亡くす
[作品]
呉偉の溌墨に学んだ人物、直筆の仕女、山水に長じる
《採桑図》 北京故宮博物院 白描の仕女、木や岩に溌墨 楽府「陌上桑」の故事

羅聘 1733-1799
羅聘自画像 蓑笠図 [生涯]
字遯夫、号両峰、花之寺僧、安徽歙県人、揚州に寓居
1733年揚州樊家園旧宅に生
1753年方婉儀と結婚、方は詩、画梅を善くする
1771年《鬼趣図》を携え北京へ上り万明寺に住む 翁方綱、銭載らとの交友
1773年天津にて金農の子女と『冬心先生続集』を整理、泰安に行き泰山に登る
1777年江西に游ぶ
1779年2度めの北京行、5月19日妻方婉儀が病のため逝く、羅聘は翌年帰郷
1781年南京で売画,袁枚、呉先之らと交流
1789年聘に応じ“瓜洲育嬰堂”董事を任
1790年幼子を携へ3度めの北京行、8年滞留する
1798年老友の資助を得、長子允紹が北京に行き、共に揚州に帰る
1799年66歳旧宅“朱草詩林”にて逝く
 11月12日甘泉西郷の小胡家廠に葬、出殯時、執[糸弗]する者は数千人という
[作品]
詩文:『香葉草堂詩存』、『我信録』(『正信録』『起信録』)
人物、花卉、山水、特に当時流行の妖怪!が得意
湿らした紙によるにじみを生かす
項均と共に金農の弟子、代筆も行う
1774年42歳《姜白石詩意図冊》12開 フリアギャラリー 華嵒野焼図の影響
1790年58歳《鄧石如登岱図》 北京故宮博物院 鄧石如1743-1805の48歳の肖像
《丁敬身先生倚杖坐石像》 西汵印社 丁敬詩、尺牘、袁枚詩と合装

辺寿民 1684-1752
[生涯]
原名維祺,字寿民,後に字頤公、号漸僧、葦間居士。
山陽(江蘇省淮安縣)人、揚州を往来
[作品]
文:『墨説』“画不可拾前人,而要得前人意”
画:花鳥、蔬果、山水、とりわけ蘆雁に優れ“辺の蘆雁”と呼ばれる
蘆雁画:瀟洒な溌墨写意、生活の感慨悲凉をいう題詩
1732年48歳《蘆雁画図》 北京故宮博物院
蔬果花卉冊:先に淡墨で細い輪廓、ついで干筆淡墨で輕く皴擦
 西洋画の素描に近い立体陰影表現、背景を作らず空白に詩文

陳撰 1686?-乾隆前期
[生涯]
字玉几、号楞山 浙江銭塘人
[作品]
詩:詩集『玉几山房吟巻』『繍鋏集』
画:混色による花卉画 白描人物
《花卉図冊》13開 黒川古文化研究所 
《蘇小妹像》 69.9x29.1 上海博物館

高其佩 1660-1734
[生涯]
字韋之、号且園 遼寧鉄嶺人、漢軍旗人 裔孫の高秉による1771年『指頭画説』
[作品]
指頭画(爪や指の腹を用い描く画)に長ずる(揚州八怪ではないがの技法)
1708年49歳《指頭画冊》12開 上海博物館
1724年雍正二年65歳《指頭山水画冊》12開 京都国立博物館
1726年雍正四年67歳《円明園図》 中貿 雍正帝登高を刑部侍郎高其佩が描く
1728年雍正六年69歳《怒容鐘馗図》 遼寧省博物館
《指頭山水図冊》12開  27.2×33.2cm アムステルダム国立博物館 代表作
《乞儿図》 90.5×45.4 台北故宫博物院


揚州八怪と沈南蘋 逸品と写生

沈銓 1682-1762頃
[生涯]
字衡斎、号南蘋 浙江省呉興人(現在の浙江省徳清県新市鎮南淮街26号辺か)
項元汴の外孫・胡湄に学んだ職業画家、画院様式の写生花鳥画を得意とする
1731年雍正九年享保十六年12月徳川吉宗の命、幕府招聘により来日、長崎で熊代熊斐1712-73らに画を教える(弟子高鈞、高乾、鄭培を伴ったか)
1733年9月帰国以降、江戸画壇に南蘋派として大きな影響
徐璋 沈銓像 高鳳翰題 1737年徐璋《空山静会図(沈銓像)》 沈銓が補景 絹本著色 57×66cm 香港個人藏
 1738年高鳳翰の評空山靜會圖 南阜山人左手題
 先生寫生妙天下,而清照卻倩人圖,是知唯才高一世者而後能用才。先生落墨走海外,而會心不出山中,是知惟契道最近者而後足以致遠也。吾於斯圖得二解矣。
 戊午(1738)嘉平為南蘋先生左手題,東海弟高鳳翰頓首。月之十有五日薄醉後筆。
 象贊:不靜不會,不會不靜。造化生心,萬象一鏡。落木空山,水流雲動。
 此贊既以翻筆左行書書之邊幀,終非正格,又文字稍有更易,遂倩同遊李生(晴)□與作細楷。晴□名朗,石城人。老阜又記。

1742年「花蕋夫大官詞意」を描き宮廷に献上する
その他の同時代文人との交流:
沈徳潜1673-1769「丹青引贈家南蘋」、黄子云1737年「題沈生春郊閲馬図」「題植俊小像」、商盤(以下の詩)、袁枚「贈南蘋画師」など
1746年頃揚州の文人雅会への参加(商盤1701-67『質園詩集』)
 花步王氏苑為古東園舊址,擅亭館水石之勝。夏日過訪,吳興沈南頻,兼晤吳門李徵士碩夫、嘉定王明經鳳喈。
難除結習是林泉,暫作人間最散仙。解帶英辭臨水坐,込ナ風外即炎天。
瑩苑鷄臺跡巴遙,摩挲殘柳話前朝。二分明月無前墮,憶泊隋家甘四橋。
(萬疊青山檻外迎。二分明月尊前墮。鳳喈平山堂句)

商盤「沈南蘋畫鹿歌
商盤「沈南蘋畫花鳥歌 並序」
 余友沈南蘋名銓,湖州人。善繪翎毛卉木。雍正中日本國王聞其名,令衛將軍給倭牌徴聘迎至長崎島。稱為唐儒禮以上客。其國舊設畫院特重花烏寫生,至是延南蘋掌之。與彼都慶山高大夫輩討論畫理。七十二島就學執贄者無虛日。歷三年餽遣盈萬,盡赴同舟友朋之急。仍垂橐而歸。古心樸懷廻出塵表殆以餘事作畫人者。
 今秋邂逅吳門,持贈花鳥二幀。神妙生動擅黃筌趙昌之長。各馳海外洵不虛也。南蘋嘗言:向與三韓崔司馬象州論畫,人物得不傳之秘。又乾隆七年曾寫「花蕋夫大官詞意」為圖進大內。蓋南蘋之畫,達於中外久矣。作歌以贈:
宣和御府立畫學,甲乙品題無謬錯。孔雀升墩馬踏花,古絹爛幅宋時作。
日本之國束海隅,其俗善畫藏圖書。忽慕中華出林呂,遂將上幣延邊徐。
江南高手誰第一,吳興沈生世無匹。應聘初為異域行,袖中攜得通靈筆。
大開畫院長崎島,海蜃天鷄寫生巧。掛壁將軍不厭看,展屏國主常稱奸。
侏𠌯通語歷三年,萬鎰歸裝萬斛船。異貝純金隨手散,但存綵管揮雲烟。
還卿重對驚花寫,貌古神清意濶。舊侶空思高大夫,新交偶值崔司馬。
與君相對論今昔,旅賓蕭蕭半垂白。未信前身是畫家,誰云曠代非詞伯。
吾聞 新羅會請頴士師,鷄林亦織弓衣詩。遐方愛文兼愛畫,丹青中土無人知。
從來絕藝難為用,壯夫烈士摧゚痛。南粵能資陸賈歸,西京未取揚雄重。
先生閱世如炮漚,澹然榮利忘恩仇。生香活色動腕指,蘊含元化天爲愁。
勸君且莫傷遲暮,坎壈纏身原有數。好進邠風稼穡圖,漫傅花蕋宮詞句。

1757年袁枚「贈南蘋画師 有序」『小倉山房詩集』卷十三
 吳興沈南蘋畫名藉甚。雍正間,日本國王持倭牌聘往,居其國三年,授弟子若干。老病辭歸,國王貺施累萬。同舟人受簿錄之累,南蘋傾所有以償。至家竟不名一錢。
東陽隱侯畫筆好,聲名太大九州小。片紙能開異國春,鶴書遠賁東夷島。
東夷之國日本強,晉唐書畫多收藏。倭人字乞蕭夫子,行賈詩歌白侍郎。
將軍重幣聘高賢,高士乘舟去若仙。眼驚紅日初生處,畫到中華以外天。
天風吹下三千浬,行盡魚頭見魚尾。斫取扶桑作管城,揮毫更進羊皮紙。
紫貝千雙國主恩,鮫珠十斛門生禮。蠅點屏風墨未乾,方諸拾淚寫牛欄。
奇花搏宣和譜,怪石常粉本看。三年重作還鄉夢,侏儷僸佅歌相送。
金壓蕭雲行李遲,船因陸賈歸裝重。同舟人欠水衡錢,羽化銀杯意灑然。
元振萬金揮手儘,長康廚內空雲煙。還家身世兩蕭條,流落江湖酒一瓢。
游子青衫餘兩袖,畫師白發老三朝。人生意境何偪仄,盛名坎壈如一轍。
但使文傳K水碑,奚須家住黃金穴。春來日日鳥船通,猶道夷王遣問恭。
七十二島依然在,只隔人間海一重。

 参考書:近藤秀実、周積寅合著『沈銓研究』江蘇美術出版社、1997年
     『古美術』 第93号(沈南蘋特集)、三彩社、1990年
[作品]
日本江戸で「写生」として人気の精緻濃郁な花鳥草虫画風
@折衷様式:写生を旨とし、常州草虫画やツ寿平らの浙江地方の没骨画の伝統に明の院体花鳥画の鉤勒画を取り込んだ様式を基調に、郎世寧らの新しい西洋画風を吸収、時に徐渭花卉雑画の系統の水墨写意、高其佩らの指頭画などの各体を含んだ折衷体
A倣古北宋:倣古の対象は文人画ではなく職業画家(五代黄筌、徐崇嗣、北宋、一部の元人、明の呂紀など) 揚州袁派の倣北宋山水と同時
B複合構図:搆図は明の院体画を基に南宋院体画の「辺角の景」も
C造形の特徴:岩は短曲線による雲紋皴、波頭の描写 鉤勒と没骨併用
 陰影による立体表現、背景色あり 白は鉛白を使用
D書(1757年《行書聯》上海博物館蔵)、篆刻(「石耕」自用印)も善くしたか
現存初期作:
1714年《孔雀玉蘭牡丹図》 145×84cm 個人
 「甲午春日法鉄橋(張穆)筆南頻沈銓」款、「沈銓印」、「南萍」朱文印
1716年《雪梅群兎図》 165×80cm 橋本コレクション
 南蘋の師との比較:胡湄《晴雪雀兔図》 159×81cm 北京栄宝斎
1721年《花鳥走獣冊》元人小景12頁 36×27.9cm 上海博物館
 龍虎、鞍馬、犬牛、白鷺、兎など
1723年雍正元年《白梅玉兎図》 141×64cm 大英博物館 「陽数」3兎
 「癸卯小春,法元人筆意,為燦扉道厚兄一笑。吳興沈銓。」行書款
 「吳興沈銓」二重圏印、「南蘋氏」朱文印?
来日前後:
1731年10月《梅花双兎図》 153.6×71.8cm 静嘉堂文庫美術館
 「辛亥小春南蘋沈銓寫」款「呉興沈銓」二重圏印、「南評氏」朱文印
 白梅、庚申薔薇、霊芝 太湖石 2白頭翁 2兎 空に淡藍
1731年冬日《老圃秋容図》 160.2×71.2cm 静嘉堂文庫美術館
 「辛亥冬日呉興沈銓寫」款「呉興沈銓」二重圏、「南評氏」朱、「畫禪」
 黄蜀葵、朝顔、菊 太湖石 天牛(カミキリムシ)を狙う猫
帰国以降 日本からの注文など:
1737年小春《雪中遊兎図》 230.5×131.7cm 泉屋博古館
 「乾隆丁巳小春寫北宋人筆南蘋沈銓」款
 「衡斎」、「沈銓之印」、「南蘋氏」朱文印、「家住苕南余不溪」
1738年《鶴図》二幅対 97.2×49.6cm 秋田県立近代美術館 谷文晁箱書
 右「鷄群寉立」篆書題 「乾隆三年八月衡斎沈銓摹元人筆意」款
 左「顧歩圖」篆書題 「乾隆三年八月沈銓撫北宋人法」款
1739年《群鹿群鶴図》六曲一双屏風 各143.6×279.4cm 東京国立博物館
 右「乾隆己未清和月華人沈銓撫北宋筆」款「沈銓」、「衡斎」朱文大印、「古絹一段寫秋色」朱文印、「拙是天資懶是眞」朱文印
 左「乾隆四年五月浙西沈銓摹宋人筆」款「沈銓之印」朱文印、「南蘋」、「衡斎」、「家住苕南余不溪」
 (1820文政三年狩野養信模本 板橋区立美術館 水戸徳川家依頼)
《蘆雁図》 239.0×119.3cm 永青文庫 大幅精品
 「呉興沈銓寫元人筆」款「沈銓」、「衡斎」朱文大印(東博群鹿屏と同印)
1740年《百鳥朝鳳図巻》 29.8×699.0cm 北京劉氏 精品 前半 後半
 「乾隆庚申嘉平月呉興沈銓」款「沈銓之印」
《餐香宿艶図巻》 41.8×466.5cm 明治12年北条氏恭→三の丸尚蔵館 草虫図
1743年乾隆八年63歳《猿猴図》 栃木・医王寺 三侯 封侯 やや粗放
1744年64歳《錦鶏図》 227.9×128.2cm 上海博物館
1745年乾隆十年《翎毛走獸画冊》18頁 136×69.8cm フェニックス美術館
1749年《麒麟之図》 長崎歴史文化博物館
1750年《百鶴百鹿図》六曲一双屏風 各154.5×56cm 出光美術館
1750年《花鳥動物図》11幅 各153.5x57.4cm 三井記念美術館 郎世寧風
 12条屏あるいは六曲一双大屏風12面の内の1枚が失われたか
1750年《薔薇小禽図》 116×50cm メトロポリタン美術館 垂下する薔薇
最晩年行草体落款:
1753年《梅花山茶游鴨図》 146.2×47.9cm 京都国立博物館
1755年乾隆20年《松月図》 紙本墨画 87.3×113.36cm 徳清博物館
 「乾隆乙亥新夏七十四老人沈銓写」款
 「衡斎」、「沈銓之印」、「南蘋氏」朱、「到老学不足」
1756年乾隆21年《獅子戯児図》 196.0×96.6cm 池長孟→神戸市立博物館
 「乾隆丙子秋南蘋沈銓写」款「沈銓之印」朱文印、「南蘋」
1758年乾隆二十三年77歳《双鶴捧寿図》 長崎歴史文化博物館
1759年秋78歳《松梅双鶴図》 191×98.3cm 北京故宮博物院
 「己卯秋衡斎沈銓法呂指揮筆。時年七十有八」款
 「沈銓」、「衡斎」朱文印、「擬古」、「拙是天資嬾是眞」朱文印
1762年初夏81歳《花鳥図》 紙着 171.6×95.9cm 上海博物館 最晩年
弟子に沈天驤、童衡、呉g、汪清、陸仁心、鄭培、高鈞、高乾、王国豊など
日本に夥しい南蘋派の模本や偽物



参考書
故宮博物院 第5巻 清の絵画 宮崎法子編 NHK出版協会 1999年
世界美術大全集 東洋編9 清 西上実他編 小学館 1998年
中国書法全集 清代編 金農鄭燮巻 黄惇、周積寅編 榮宝斎 1997年
泉屋博古 中国絵画 泉屋博古館編カタログ 1996年
水墨美術大系11 八大山人・揚州八怪 米沢嘉圃・鶴田武良編 講談社 1975年
李斗 揚州画舫録 1795年自序 北京中華書局 1960年
揚州八怪研究資料叢書 江蘇美術出版社
 揚州八怪詩文集 葦間老人題画集、巣林集、板橋集、嘯村近体詩選 1985年
 王鳳珠、周積寅編 揚州八怪現存画目 1991年
 王鳳珠、周積寅編 揚州八怪書画年表 1992年
 薛永年編 揚州八怪攷弁集 1992年
 揚州八怪年譜上・下 1993年
揚州画派書画全集 天津人民美術出版社
 金農2巻 1996年 華嵒、高鳳翰、李鱓、羅聘 1998年
 黄慎、鄭燮 1999年 汪士慎、李方膺、辺寿民 2000年

参考サイト
揚州八怪絵画作品展 北京故宮博物院
 李鱓 汪士慎 金農 黄慎 高翔 鄭燮 李方膺 羅聘
揚州八怪人物
同様 清時代 高精細画像投稿サイト

展覧会
《揚州八怪》展
2021年6月22日〜8月15日 大阪市立美術館 twitter
《揚州八怪》展
1986年 朝日新聞社主催 上野松坂屋
上海博物館と日本個人蔵による104点
《揚州八怪》展
1997年 謙慎書道会主催
泉屋博古館東京分館《開館記念展》
2002年10月25日〜2003年2月2日(12月11日展示替)
世界的に著名な住友コレクションから中国古銅器と中国絵画の展示
華嵒「鵬挙図」など







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 清時代4 揚州八怪  2002.12.25作成 

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