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   琴詩書画巣について 陳鴻寿ってだれ? | 文人とはなに?

 中国文人の世界

陳鴻寿 琴書詩画巣印


琴詩書画巣について

 “琴詩書画巣(きんししょがそう) ”は、中国清時代の文人、陳鴻寿(ちんこうじゅ) の印からとりました。
 この巣(ウェブサイト)では、東アジアの文化圏の中で高みと洗練を極めた中国文人の文化について、〈音楽〉と〈絵画〉と〈詩・書〉からつとめてふれていきます。

 目的は、音楽と絵画と詩と書とが巣のように有機的にからみあった、中国文人の琴詩書画一体の総合的な世界にふれることです。

 イマジネーションは、聴覚も視覚も言語野も混ぜんとした坩堝( るつぼ ) から生まれてきます。
 中国の文人は、独特なイマジネーションの位置(中国の近代の批評では“意境”といったりします)から、音楽を代表する琴を弾き(“琴は楽の統”といわれます)、琴を弾いたのと同じ心で詩を吟じて書にし、それを画にしたり書き入れたりし、琴詩書画の一体とした世界を造りだそうとしてきました。その世界は一人の文人の人格をとおして統合されているのです。もし西洋でそうした独特な位置(イメージの始まり、言葉のはじまる直前の状態から発想していく)をもつ人をあげるとすれば、ダヴィンチやクレーがいるでしょうか。見方を変えれば、ヘビーな芸術家でなくても現代に住む人は誰でも、大なり小なりそんな(一種抽象的な)想像力から始めるのを強いられている、ともいえます。

 言葉も画も音も同時にあつかえるインターネットは、琴詩書画一体の世界にふれるのに適しており、また違った息吹をあたえられると思いました。どこまで上手くできるかわかりませんが、このサイトで可能な限りふれていきたいと思います。

 他の網目、〈北京信息(ぺきんしんそく) 〉beijingxinxi では、北京の日々の雑多な感想を書きとめていきます。
 〈パリ信息〉は、ヨーロッパに対する思い入れの一端です。現代の巣には、すでに西洋のもろもろが根深く絡みあっているからです。


陳鴻寿ってだれ?

 まず、1937年戦火を予感してまとめられた、中国清時代・民国の印の集大成としてオーソリティのある『丁丑劫余印存(ていちゅうごうよいんぞん) 』に含まれる小印を1顆ご覧ください。
陳鴻寿野雲印  野雲印  陳鴻寿野雲印側面  野雲印側款

陳鴻寿印「野雲」 秋月蔵   


 この印は、陳鴻寿が北京の文人画家朱鶴年(1760-1834)のために刻した遊印です。朱鶴年は、翁方綱らの集まりに加わり李朝の偉大な文人、金正喜(1786-1856)秋史とも親交がありました。陳鴻寿はおりにふれて有名な文人のために刻印していますが、この印もそうしたものの一つでしょう。
 陳鴻寿は「鉄筆(篆刻)第一、字(書)これに次ぎ、詩、画またこれに次ぐ」といわれました。たとえば

不語翁 不語翁       陳延介印 陳延介印
のような印や (→陳鴻寿篆刻精華へ)

七言書 七言対聯       五言書 五言対聯
のような篆隷の味のある行草書、斬新な隷書、
花果図冊 花果図  善權石室図 善權石室図

のような花卉画や、時に山水画もよくしました。
宜興窯 曼生款提[木梁]紫砂壺 上海博物館蔵 唐雲旧蔵 宜興窯 彭年作曼生款乳鼎紫砂壺 上海博物館蔵  また今でも茶の趣味のある人の垂涎の的、曼生壺とよばれるたいへん洗練された紫砂壺を考案したことでも有名です。
 そのどれもが陳鴻寿の個性に裏づけされた品格をもっています。


あくまで通達自由の精神に生きる人である
彼の作品に豪壮なもの沈鬱なものを求めることは出来ぬが、明麗で間逸な姿に盛った一種洒脱な風韻は清朝を通じて他に比べるものがない
僅か五十五年の一生にこれ程の天才的な業績をのこした彼は、五十六歳で死んだ趙之謙と共に清朝藝苑の異彩といわねばならぬ  西川寧 

といった言葉に共感します。実際、わたしにとって中国の文人をイメージするうえで、陳鴻寿と趙之謙の二人は、嘆息せずにはいられない清時代後半を代表する個性です。


陳鴻寿(1768−1822)
字は頌・子恭・翼盦[今酉皿]。
号は曼生・曼公・曼龔[龍共]・恭寿・老曼・胥谿漁隠・種楡僊史・夾谷亭長。
堂号は夾谷亭・桑連理館・種楡僊館・解春館・阿曼陀室。

1768年(乾隆33年)陳鴻寿生まれる。原籍は銭塘(浙江省杭州)。
1784年(17歳)陳豫鐘と親しくなる。
1796年(嘉慶元年、29歳)この頃、奚岡と親しくなる。
1800年(33歳)従弟の陳文述と共に浙江巡撫・阮元の幕下に入り二陳とうたわれた。
1801年(34歳)抜貢(ばっこう 各省から1、2年ごとに選抜される優秀な学生)に選ばれる。
1805年(38歳)この頃、知県見習として広州方面へ。
1806年(39歳)「自題種楡道人三十九歳小像」五絶詩11首を作る。
1808年(40歳)趙之琛[王探]の用印を刻す。
1810年(43歳)この頃、江蘇贛[章各貝]楡県事見習。
1814年(47歳)改琦[王奇]の用印を刻す。
1815年(48歳)この頃、宜興で砂壺(紫砂)に自分の銘詞を刻んだいわゆる「曼生壺」を考案・製作する。
1816年(49歳)この頃、江蘇溧[水栗]陽の知事に。この後、河工江防同知となる。
1822年(道光二年、55歳)江蘇海防同知の官職にあったが、風疾で亡くなる。


自題種楡道人三十九歳小像

白楡種歴歴  白楡、種えて歴歴
青春去堂堂  青春、去って堂堂
入世解任達  世に交わってよく任達
頗異釋老荘  頗る釈迦、老、荘子とは異なれり

古人皆可師
今人皆可友
一鏡堪虚明
方寸別妍醜

大事不胡塗
小事厭煩數
欲語羞雷同
孔子亦猟較

長卿徒四壁
杜陵迺萬間
親朋不相顧
物理無循環

窮達自有命
彭殤亦難齊
四十無所聞
笑我同醢雞[奚隹]

十五悲失恃
識字憂患初
前年父棄養
至今違墓廬

歴渉三萬里
捷徑恐窘歩
一視齊州烟
再読天台賦

早梅庾[广臾]嶺香
茘支未飽啖
握手多故人
易勿傾肝膽

國士何我敢  国士、我なんぞ敢えてせんや
衆人亦不屑  衆人のこころまたおもしろからず
遭逢名公卿  さあれ名公卿とかに逢うときは
慚愧虚前席  慚愧して前席をあけんのみ

三月下揚州
鶯花送客愁
黄河天上落
併作海門秋

秋氣入虚齋
秋聲感壯懐
貌成還自紀
流響動長淮


陳鴻寿を知るための本
 陳鴻寿『種楡僊館詩鈔』
 陳鴻寿『種楡僊館印譜』(郭友梅編)
 『中国篆刻叢刊第16巻 清10 陳豫鐘・陳鴻寿』(二玄社)
 『陳鴻寿の書法』(林田芳園編 二玄社1997年刊)
 西川寧「陳鴻寿のことども」(1950年発表『西川寧著作集第3巻』所収二玄社1991年刊)







 はじめに   2000.5.20写 

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