山東最終日の今日は、宿泊先で予約した小公共(ミニバス)による嶗山(ろうざん 労山)1日観光です。
石化楼
バスは嶗山にまっすぐいかず、あちこち止りながら行きます。ここもその一つ。石化楼(5元)は、戦前別荘地だった八大関区の建物の一つ、ロシア人が建て蒋介石が住んでいたもの。円筒形の石塔が目印。
嶗山
嶗山は、中国の海岸線付近では唯一、海拔1000mを超える高山です。白堊紀の燕山造山運動により形成されて以来歳月をへ、東部と南部が海に落ち山海一体となった奇拔な花崗岩の景観を造りだしてきました。山脈は1133mの巨峰を中心とし、三標山と石門山と午山の支脈があります。
伝説では秦始皇は嶗山に登り東に蓬莱山をかいま見たので、徐福を日本の方角にやり仙葯を捜させました。東漢の鄭玄は、嶗山に書院を建て村学の風を始めました。唐の李白は“我昔東海上,嶗山餐紫霞”という句を残しています。宋元以降も文人墨客が往来しましたが、特に清の蒲松齡は嶗山で『聊齋志異』を執筆し「嶗山道士」「香玉」等を遺しました。
嶗山の歴史は、五六千年前の龍山文化に遡りますが、とりわけ“神仙之宅”“靈異之府”といわれた道教の聖地として名高く、盛時には“九宮八観七十二庵”の建築が並びました。春秋戰国から秦漢にかけ方士が修煉の場とし、唐宋に興隆し元明に最も盛んとなり清代も続きました。
嶗山道教は、王重陽の全真派により新しい局面を開きました。全大道北七真が栄え、邱処機は三度この地に来て闡教を説き深い影響を残しました。この後、北七真は各宗派を造り、明代には“道教全真天下第二叢林”となっています。こうした嶗山道教の発展の中で、李哲玄、劉若拙、邱処機、張三豊ら著名な道人は、皇帝の敕封を受けています。
嶗山道楽について
清時代、嶗山道教の歴史では太清宮が中心となり、各廟観の道士は、武芸に励み琴書を嗜みました。当時、文人や琴士が嶗山を訪ずれ、鶴山の遇真庵、太清宮、白雲洞の三つが、道教音楽の中心になりました。
明時代から継承された功課の経曲の外、古琴楽が興りました。外山の天后宮、百福庵などの廟では応風楽が盛んになりました。これ以降、随山派、龍門派、清浄派、金山派、華山派と蓬莱派の経曲や古琴曲、応風楽の曲牌が、各派道家の師より綿綿と今に至るまで伝えられています。
(参考)
衛礼賢《中国心霊》 ドイツ人Richard Wilhelmの太清観道士の記録(中華読書報)
嶗山は、このように由緒ありかつ幾日かかけるに値するおもしろそうな山ですが、今回は嶗山1日観光の小公共の選択を誤りました。
見どころがたくさんあるため、小公共によって行く先のバリエーションがありますが、この日乗った山の南をめぐる小公共(80元)は、山は龍潭瀑まで、海近くにある太清宮を見たのみ、あとは土産もの店や浜に寄り時間がすぎていきます。
最後は市内に戻りフェリー(別料金15元)に乗り青島港を一周。写真はフェリーから見た夕日の青島のビル群です。
近ごろの味の薄くなった青島ビールのようなちょっと気がぬけた感じ。
海の深い霧に包まれた青島をあとに夜行で北京へ発ちました。
6月05日(火) 北京 済南
06日(水) 済南 山東芸術学院 市博物館 山東省博物館
07日(木) 曲阜 孔子廟 孔府 孔林
08日(金) 泰安 泰山
09日(土) 泰山頂上 岱廟 泰安 青島
10日(日) 青島 老舎、聞一多、康有為故居 小魚山公園 小青島公園
11日(月) 石化楼 嶗ロウ山 青島
12日(火) 北京