七絃琴の傳來 香亭迂人中根香亭小照 明治7(1874)年36歳 中根香亭


 七絃琴の吾が國に行れたるは歸化の僧東皐禪師が傳へたるをもて初めとす、それより明和安永の頃に至り、江戸の雅人頻りに之を學び、寛政文化の間盛んに行はれ、天保に至りてやうやう衰へ、近年に及びては井上竹逸翁外一二の人の彈するのみなりしが、物故してより後は其道殆絶えりといふべし、先年依田學海君京畿に遊ばれし時浪華に於て七絃琴を聞かれたるよし語られたれば、彼の地には尚之を傳ふるものありと見ゆ、さて竹逸翁未だ世にありし時、凡そ此道に關かること記したる書あれば何くれとなく抄録せられたるを予幸に借り受けて冩し置きたり、其目錄の大略を擧ぐれば

心越禪師肖像、
琴家略傳
琴學傳授略系、
琴譜の話、
東皐琴譜の事
閑叟雜話
彈琴指法、製琴法、定徽捷法、配徽捷徑術、琴絃製法、絨扣製法、
琴社諸友記 等

なり、是は固より翁が見るに随ひて記し置きたるものなれば、順序もなく入り亂れ、且つは重複したる事も少しとせず、故に今予其書に就きて前後の順序を正し、取るべきは取り捨つべきは捨てさて漢文の中改め難きものは其原文を存じ、然らざるは邦文に書き替へ、務めて蕪雑を除き簡約に就かんことを期す、然れどもかく許多の材料を集め置きたるは偏に竹逸翁の功なり、予は唯此書の泯滅せんことを恐れて之を世に傳ふるに過ぎず、


東皐心越禪師
 東皐禪師は名を興儔 字を心越といふ、故に又心越禪師ともいふ、越師とは其徒略して之を稱するなり、俗姓は蔣氏にて漢の蔣翊の後裔といふ、明の崇禎十二年(日本の寛永十六年)浙江省金華府婺郡の浦陽といへる地に生まる、幼き時出家して壽昌無明禪師に從ひ其法嗣となりて杭州永福寺に住す、寺は西湖のほとりにありといふ、清の康熙十五年六月亂を避けて杭州を出て、南京の船主彭公尹の船に乗りて、吾が延寶五年の正月長崎港に着きたり、同じく八年京師に上り、天和元年水戸義公の招きによりて江戸に来り、水戸家の下屋敷に寓居し、元祿五年水戸の岱宗山天徳寺に住し、同じき八年九月三十日寂す、年五十七歳とぞ聞えし、其後公の仰せにより天徳寺を川和田に移し、其舊迹に就き新たに寺を建てしめて壽昌山祇園寺と號け、越師をもて開山の祖とす、壽昌山の文字は越師が師の名に由れるものなり、寺は水戸城下の西馬喰町にありて、其塔中十三ヶ寺あり、師の遺物は大方本山にあれども、法具類は末寺にも分ち藏めたり、存する所の衣服器物及び飲食の具など皆明國の製なるをもて考ふれば歸化の時許多持ち来りしものと見ゆ、
 越師遺物の祇園寺に存するものゝ中に、黄檗の僧木菴が清人と贈答の尺牘数十通並に尤悔[菴](尤侗) 鄒訏士(鄒祗謨) 余淡心(余懐)などいふ有名なる學者の越師に遺りたる尺牘あり、其文辭を見るに是等の人々と交情いと深かりしものと見ゆ、
 越師は多藝なる人にて、彈琴の外書畫篆刻までもよくしたり、書は諸體を兼ねたれど尤も八分に長じたり、
 吾が邦人が八分を書くことは越師より學び得たるなりと、細井廣澤が三左略傳の中に見ゆ、祇園寺所蔵なる越師手書の琴譜詩文の草稿等は共に細字、秋田城北なる天徳寺の小門本堂の額並に聯は大字なるが何れも見事なるをもて見れば書は大字小字ともによく手に入りたると疑ひなし、
 畫は四君子の外、牡丹蓮山水などを多く畫かれたり、幕府の侍醫多紀永壽院の家には、維摩 布袋 白衣の観音及び自筆の肖像を藏し、駒籠の正林寺には、出山釋迦の幅を藏せりとぞ、
 元和以後天下太平にて文學漸く開けしかど、篆刻をよくするものは至て少し、越師歸化して之を傳へしより此技大いに進みたること、柳原玄甫が印草備考に詳かなり、迂人も中井敬所君の許にて、師が自刻の印を一見したることあり、刀法いと温雅なりしやうに覚え居たり、
 越師吾が國に至りてより歸國の念つゆ無しと雖も、夢寐俗兄蔣尚卿がことを思はすばあらず、故に其水戸にある時尚卿便船を得て長崎に來りたるこ聞き義公に乞ひ長崎に赴きて對面したることあり、此事は義公の文集並に人見友元の竹洞集(足利學校の蔵本)に委し、常陸の海濱磯原村に天妃廟あり、越師の草創といひ傳ふ、海舶の神なれば己れが無事に日本に渡りたるを感謝する意にて建立したるならんといふ、以上數事は全く琴に關ることならねど越師が才徳を知るの一斑なれば打ち捨て難くてかくは記しぬ、
東皐心越請来琴『日本琴学史攷』111頁 東皐心越請来琴
 越師が明より携へ来たる琴數張あるが中に、其尤も顯れたるもの五張あり、

第一は義公の蔵、銘は小篆にて虞舜とあり、朱漆断紋、岳山(りうがくを云ふ)壊れ竹をもて補ふ、いといと古きものなり、※宮内庁現蔵
第二は祇園寺の蔵、小篆にて萬壑松とあり、※現在不明 稗田浩雄『日本琴学史攷』111頁(左表)では宮内庁現蔵「大雅」琴をあてる
(第三 記述なし)
第四は人見友元の蔵銘は小篆にて素王とあり、此琴は弘化中高松藩の人高島茂松(通稱清兵衛)の有となる、※現在不明
第五は水戸家の蔵にて、銘字共に詳かならず、初め越師水戸に居られける時、馬喰町にて旅籠を渡世する福島屋といふものあり、一丁字を知らざる田舎人なりしが、越師に相得て常に往来し、言語は通ぜざるも心は至て深く其家の屏風襖は皆越師の書畫なり、故に城中の人越師の書詩文を乞ふには、此人を頼みて得たりとなん、さて此人常に琴を彈きたるにや、越師遷化の日一張の琴を贈られたり、然るに其子孫漸く貧しくなり、之を城下の町年寄福田氏に賣りしを、寛政年間福田氏より水戸家へ献じたり、即ち第五の琴是なり、※徳川斉昭命銘「南風」琴 宮内庁現蔵

 此外多紀永壽院所藏の琴一張あり、是は越師の遺物にて小野田東川の所有なりしを、東川歿後多紀の手に入りたるなり、然るに天明年中火に罹りて烏有となりたり、惜しむべきの限りなりかし、
 江戸四谷に住ひする甲州屋七兵衛、越師か齎したる琴材の底板を藏せり、木は謂はゆる梓にて吾が國の櫻に似たり、質堅くして赤みあり、
 前にいへる五琴の中、第一第五は水戸家の所蔵、第二は祇園寺の所蔵なれば、今其儘に傳はりぬべし、第三第四は今いかなる人の手にしたりや知り難し、


琴家略傳
 是より以下越師に親炙したる一二の人、並に夫より受け得て此道に有名な人の略傳を記し、然して後 琴學 製琴等の事に及ぶべし、

 越師に從ひて始めて琴をびたるものは人見竹洞なり、竹洞は姓を人見 名を節 字を宜卿 稱を友元といふ、竹洞又鶴山と號す、平安の人にして醫師を業とせしが、後東都に召されて幕府の侍醫となれり、然るに學問該博にて善く古今の事を知れるをもて、改めて儒官に命ぜられ、尋いで將軍家の仰せをして、林春齋(羅山の子にて名を恕といふ)と共に本朝通鑑八十一巻を選ぶ(神武帝より宇多帝に至るまでは、羅山の撰にて大猷公に奉りしが、後火に罹りて失せしかば、春齋其草稿に就きて訂正したるものなり)其外著書數十篇あり、幕府の寵愛殊に渥く勤勞年久しきをもて祿千石を賜りしかば、之を其三子に分ち與へたり、(三子の中二人は儒官一人は醫官、仲子 名は伯毅 字は元德 詩名一時に高かりしことぞ)元祿九年正月二十四日病みて歿す、下野市塲の山中に葬る(此地は竹洞が釆地なるべし、足利學校に其文集あるも是等の故にや、)
 竹洞が始めて越師に見えたる年月は詳かに知れざれども、思ふに長崎より京師に上りたる時なるべし、其より竹洞越師がために諸事を周旋し、後には二人共に關東にありしかば、其の交り死に至るまで絶えず、越師遷化の後四箇月を出でずして竹洞病歿せしは不思議なりと、人々いひあへりき、其交情の深かりしさまは、竹洞文集なる唱和贈答の詩並に往復の尺牘によりて知らるれども、一々書さんもいといと煩はしけれは總べて洩しつ、
 竹洞が始めて琴を學ばれし時には、言語本より通ぜざれば音調も指法も會得し易からずして、其手に入り難かりしこと思ひやらるゝなり、是等の爲めにや竹洞國字もて指法の解を記し置かれたれば、後人は之に由りて、心安く學ぶことを得るなり、
 前に記せる五琴の外、更に竹洞所蔵の雲和天籟といへる琴あり、其来歴文集に見えたり、今は其琴いかがなりしや、姑く其文と詩とを玆に記し置きぬ、

 東皐師賜僕以一古琴諭曰、欲待知音者並傳其道、今欣遇雅尚不得不已爲贈、僕深感懇篤之言、且自愧之、真爲琴也、龍池之中有數十字之題者、所謂嘉靖甲子製及今百二十一年也、經中朝亂離之際能免兵災,而到此、可謂物之幸也、僕謂題佳名於琴腹而請之師、即題曰雲和天籟而其下以衡華二字、爲印、以爲家寶、因作二章、且謝喜恵、且述妙曲以呈之、
手授寶琴恩更多、一揮天籟起雲和
音傳嘉靖百餘歲、心在平湖十頃波、
先把朱絃彈未練、猶思玉軫琢如磨
老師操曲極高妙、難繼陽春白雪歌、
曲調洋々日本東、老師彈起古淳風、
双眸高照金徽上、八指飛揚玉縷中、
出水游魚聚前岸、搏雲鳴鳳下長空、
相思千里知音友、明代遺賢馬季翁、

 此外師が作られた熈春操を和したるもの二章あれど、句數律詩よりも多きゆゑ之を載せず、

 竹洞に續いで越師に琴を學びたるものは杉浦琴川なり、琴川 名は正職 字は維天 通稱は内蔵允、幕府旗下の人にて祿は八千石を領し、百人頭の職を蒙れり、初めは竹洞に從ひて琴を學びしが、其業やうやう進みければ親しく越師に就きて學びたりなん、人と爲り武勇あるに似ず、よく文學を修め古雅なることを好めり、越師曾て其舊譜なる高山流水の類より、新譜數十曲を併せて、之を書にはさんとせしが、果さずして遷化せり、竹洞其志しを續がんと思ひしに、是又程なく重き病ひに罹りてければ、自ら其起たざるを計りて越師より傳來の秘曲並に存古といへる琴(是は前にいへる竹洞所蔵の素王、琴川所蔵の萬壑松の外にて、後多紀法印に傳はり、天明の火に罹りたるものなるべく思はる)を琴川に傳へて、琴譜編述の事を遺託したり、是より琴川十餘年間此事に力をし、寶永年中に至りて始めて稿を脱し、東皐琴譜と名く、
 東皐琴譜には國子監林信篤(春齋の二子にて鳳岡と號す)、桃源野沂魯南(桃源は號 沂は名 魯南は字、竹洞の男なり、本姓小野なるをもて姓を野にしたるなり、竹洞も野節宜卿と書したるものあり)、葛井林信如(履歴未だ誰かならず、鳳岡の近親なるべし)、天満老人(姓は高 名は玄岱、幕府の儒官にて書名高き人なり)の序及び琴川の自序あり、此数序を併せ見れば琴川の傳自ら明かなり、
 或る人のいへるに、水戸祇園寺に越師の琴譜あれども、五音の次序をもたずして、数曲を一つに綴ぢ付け、大方は一譜中の書き方さへ大小ありて整はず、思ふに是は越師未だ西土におはせし時の草本を、後に至りて訂譜諧音の草本と合せ集めたるものなるべし、其中褚虚舟といへるものより學ばれたる曲もあるにや譜の終りに其名を記したもの儘あり、越師自筆のすら現にかく亂雜なるものなれば、其の五音を分ち前後の順序を立て、後人をして學び易からしめたるは實に琴川の功なり、

 越師に親炙して琴法を傳はりたらは竹洞琴川の二人なれも、之を世に広めたるは小野田東川なり、東川は名を國光 字を延寶 通稱を嘉兵衛といふ、杉浦琴川の家人にて祿百五十石を食めり、世人東川此道の大家なるをもて、越師より親しく傳授を受けたる如くいへるは誤りなり、東川は貞享元年に生れ、元祿八年越師入寂の時、年僅かに十二なりしをもて然らざるを知るべし(東川が門人に授けたる十六曲を後人の上木したるものあり、其序文は市野俊卿が人に代りて作りたるものなるが是にも誤りて東川を越師の門人といへり)、東川は幼き時琴川の茶童にて日々其左右に侍り居りしを、彈琴の才あるをもて琴川殊に之を愛し、終りに臨み琴(存古なるべし)及び譜を此人に傳へけるとぞ
 東川琴を門人に教るには、必ず一曲を授くる毎に一譜を寫さしめたり、古人授受を重んずるの意にや、後世の如く先づ譜本全部を冩さしめて後意に從ひて一曲づつ教ふるが如くならず、然れども其門に名人多く出でたるは、誠に此道を篤く信ずるの故なるべし、
 東川老いて後、其子丹下故ありて杉浦家を逐はれしかば、先手頭三枝某の駿河なる屋敷に寄寓し、専ら琴を授くるを業として、盲者の箏を教ふるに傚ひ、十六曲並に漁樵問答(共に琴譜の條に於ていふべし)と次第を立てゝ授けたり、こは祿棒を失ひたるに由り、自ら生計を助くる爲めの仕業なりけらし、然も其頃にはやうやう老耄して、己が年さへ三つ四つづゝ誤る程なれは彈琴も以前の如くには精しからず、寶暦十三年十一月二十四日年八十にて身まかりしとぞ、
 門人数多ありて一々知る能はざれども、其高足の弟子に呼ばれたるは、幸田親益 多紀安元 設樂純如 杉浦梅岳 甲州屋七兵衛等なり、其外一橋家の文學久保喜右衛門といへるは頗る上手の聞えあり、深川象林寺の住持曇空は従學のもの多くありしが、名人といふにはあらず、又柴野栗山は敷曲を學びたれども成らずして廃したり、

 幸田親益は通稱を友之助といふ、幕府旗下の人にて、初め扈從人を勤め後手番頭になる、其天文暦學に精しかりしことは、當時の人のよく知る所なり、親益は東川が年若かりし頃より之に従ひて琴を學び頼る其蘊奥を極めたりしが、宋學を尊信するの餘り、大に浮屠氏を嫌ひ、常々此琴も僧徒の傳來ならざらましかばと歎ぜられたり、故に曲中の釋談章を彈ぜず、歸去来も越師の譜を委(す)てゝ楊倫の譜を用ひたり、此人生れ得て音律に妙なりしと見え、七絃の外箏の琴(即ち筑紫琴)もよく皷かれたり、七絃は宿谷空々に傳へ、箏は田安家の歩兵頭季子新兵衛に傳ふ、此外門人絶えてなし、されど寛政文化の際此道の人に開けたるは空々の力なれば、よく人を知るの眼を具へたるものと見えたり、宝暦八年の月病みて歿す、東川に先だつこと六年といふ、彈琴法製絃法の書は此次より空々に傳へたるなり、

 多紀安元名は徳法、幕府の侍御醫にして、法印に任じ永壽院と號す、琴を東川に學びて能手と稱せらる。故に東川歿する時、[琴と]越師竹洞二老の肖像を遺らる、然るに此琴天明年中火災に逢ひてけ失せたり、是より後は法印の意にふ名琴なかりしかば、大に歎息し、余などて世の無鹽を喜ぶものならんやとて、殆ど琴を廢する程なりき、寛政中水戶公法印を其邸に招き所の虞舜を出して彈ぜしめられたり、此時は尾州公其他の貴人も約ありて其筵に赴き聽かれけるにぞ、常時の盛會といひ博へたり、
 桂川月池、浦上玉堂の二人は共に安元の門に出づ、故に此に附記す、

 桂川月池は通稱を甫周といふ、曾祖甫筑より世々醫を以て幕府に仕へ月池に至り侍醫となる、(月池が醫業及び蘭學の書は、先頃毎日新聞に出でたる蘭醫の傳に委しければ、總べて省きつ)曾て人に語りていふ、吾未だ琴を學ばざる前、多紀法印と同じく殿中に宿直するに、法印閑坐の間常に右手を反覆開合す、然れども吾其何の故なるを知らず、後琴をぶに及び、是撥刺輪鎖の指法なりしならんと思ひて、之を問ひければ法印笑ひて余少年の時指法の易からざるを知りて、坐臥常にかく慣しゝが、後には遂に癖となりたるのみ、され老夫所蔵の琴焚けてより後心樂しまず、且つ職業繁劇なるをもて、絲桐に従事すること能はず、然るを今公等の此道を學ぶを見る、老いの喜び何か之に過ぎんといはれしとぞ、法印は殊に好みて釋談章を彈き、もし閑を得ば此の曲の秘奥を傳へんと月池に約せしが、果さずして物故せられたり、
 月池は醫業に精しきをもて、諸侯の家々に聘せらるゝこと多かりしかば、諸家所蔵の琴を借来りて彈じたること屢々なり、新樂開叟が月池の宅にて観たりといへる琴數緊張あり

第一 尾州家の所蔵にて、佐籠吟と漆もて草字に書きた三字銘の琴あり、是はいと古物にて面に断紋を顕し、木性枯れ朽ちたるが如く、もと敬公(尾州家の始祖)の遺物にて、慶長中東照公より賜はりたるものといひ傳ふ、
第二 紀州家所蔵の琴二張、共に無銘にて、亦断紋あり、其漆色甚だ古雅にて、之を彈ずるに音響清亮なるが上に、手に適ふこと誠に妙なり、實に絶品といふべし、
第三 平戸公(松浦家)所蔵の琴、岳の上に自樂の二字銘あり、
第四 長島公(増山家)所蔵の琴、是は無銘なり、
第五 葦守候(木下家)所蔵の琴、是又無銘、相傳へて木下長嘯子の遺物といふ、

是等は皆師歸化以前に舶来したるものと見えたり、
 月池は生来物に巧みなる人ゆゑ、水戸家の虞舜を久しく借り置きて之を摸寫せしが、實に真に迫りたり、虞舜は岳高くして初學拙手には彈じ易からず、(祇園寺の大雅亦然り)竹逸いふ、月池摸造の琴後には樋口趨古の有となれり、

 浦上玉堂は通稱を兵左衛門といひて備前の人なり、曾て名琴を得て、多紀安元に就き教へを受け、調絃及び南[薫]操など三四曲を學びたれども、指法節奏熟せざる所多し、然れどもよく譜字を解するここを得たるゆゑ、我が邦の歌を此器に合せて彈くことを始めたり、越師の正宗は得る能はざりしかども、是亦琴客部中の一人なり、此人の傳は山陽遺稿に見えたり

 設樂純如は通稱を唯右衛門といひ、東川より十六曲及び漁問答を傳へられ、當時の名手と稱せらる、從學の人許多ありしが、蘭室上人及び柳川藩の人安藤幾次の二人尤も顯る、幾次は後筑後に歸り幾ばくもなくしてみまかれり、故に純如が統を嗣ぎたるは唯蘭室上人のみ、

 蘭室上人は淺草眞龍寺の住持なり、常に人に語りていふ、貧道未だ僧とならざる頃、純如先生に就きて琴を學びしかども、當時遊治を事として務め習はざりしかば、今に至りて其藝の拙きのみならず、疑はしきことも儘ありて、來學者の爲めに一々明らむる能はざることあるは大に愧づる所なり、先生は閑人なりしゆゑ、自ら家に臨みて教へられしことさへあるに、徒に打過ぎたるは、今更悔れどもかひなしと、此時琴をもて東都に鳴るものは上人と宿谷空々との二人なりしが、兩家一方に偏りて互に知らざる曲あり、是に由りて上人よりは漁樵問答其外數曲を空々閑叟等に傳へ、二子よりは三方引 大哉引 清平樂 浪海沙 東風齊著力 久離別 醉翁操 石交吟 偶成等を上人に傳へたり、上人晩年痔疾患へて遠く出づること能はず、常に幽棲に居て酒を嗜み琴を彈ぜしが、終に兩目を盲し、加ふるに舌頭風痺して歌ふこと能はず、一室に默居して以て終る、憐れむべきことにこそ、

 杉浦梅岳は名を恢 字を士容 俗稱を郡治といふ、伊勢林驛の人にて本姓林氏なるが、幼き時出で津藩杉浦氏に養はれ藩候に仕ふ、長じて學間を好み子弟を教授す、曾て江戸にありし時琴を東川に學び深く此道を喜びて常に琴と相離れず、西歸の後前黄門平松二位公屡々梅岳を京都に招きて琴を學ばれ、後には其門人永田蘿道、河邊尚善をも召されたり、寛政四年四月六日五十九歳にて家に歿す、琴道の關西に傳はりしは此人をもて初めとす、

 永田蘿道 名は維馨 字は子蘭 俗稱九兵衛、蘭道は其號なり、世々伊勢の津の商人なりしが、蘿道に至り琴を梅岳に擧びて大に悟入する所あり、是に由りて琴を負ひ四方に遊び又公家貴人の間に出入す、平松亞相公 島津栄翁など屢々召し見て琴を彈ぜしむ、醫官杉本樗園 桂州月池等も皆琴をもて之と交はれり、其歿年詳かならざれども、文政の末七十餘歳なりしいふ、

 門人に雪堂あり、名は痴山、出羽鳥海山下願専寺の住僧なるをもて又鳥海と號す、曾て長崎に遊びて琴を蓮庵社多に學ぶ、杜多もこ蘿道の門人なりしかば、雪堂をして伊勢に赴き親しく道に學ばしめたり、文政の末つ方雪堂浪華に寓居し、琴と書法を子弟に授け、従學のものいと多し、天保十三年六十一にて歿す、

 甲州屋七兵衛は江戸四谷の商人にて、琴を東川に學び親益 純如等と其藝を上下す、或は此人をもて人見桃源の門人いへるものあれども疑はし、其傳今備はらず惜しむべし、
 門人に長門の人華亭といへるものあり、別に松窩道人と稱す、或時蘭室上人を訪ひ、互に其知らざる所を相傳へたりとなん、

 宿谷空々は名を愼 字を默甫 通稱を喜太郎といふ、初め姓を兒玉といひ、後本姓宿谷に復す。故に中年書したるものには皆兒玉愼と署名せり、もと田安府の家人にて牛籠に住し、少き時才學をもて稱せらる、宝暦明和の頃には著述を事とせしが、琴を幸田親益に學びてより、専ら此事に従事す、然れども老いに至るまで讀書に耽り博く群書に通じたり、生れつき耿介にして酒を飲まず流俗に同ぜず、常に清談を好みて其心いと淡し、琴は越師の正宗を傳へ、指法の精しきこと右に出づるものなし、従ひ學ぶものいと多く、篠本竹堂(名は廉 字は子溫 通稱久二郎)、鈴木白藤(名は恭 字は士敬 稱岩二郎)、杉本樗園(名は良 字は仲温)等を初めとして、長島侯(増山正賢)、岡部侯(安部信亨)、圓應琢師 圭峯禪師等僧俗合せて百餘人あり、(原本中當時の弟子九十七人の姓名を記したものあれど、うるさければ漏しつ)是等の人寛政文化の間同志社を結び、牛籠寺町の安養寺にして互に此道を研究したり、其時會中の規約を書きたるものあれば左に錄す、文は新樂閑叟の作る所なり、

     琴會約
昔日司馬溫公輩爲眞率會、脫粟飯濁酒數行而己、可見先賢用心、雖在貴富節儉自守、不趨習俗奢侈也、今同社相約、倣而行之、蓋我輩貧而不能豐盛又性質不能矯飾也、然則出不得己而暗合眞率意者也、仍設條例如左、
一會之人、同社人也、若干速客不甚俗者弗妨、但挾貴誇富不解字等人倶不許
一會之期、一月一舉或二擧、惟以暇日、風雨不更期、己集酉散、不卜其夜失期者不到者並不罰、
一會之地牛門外安養精舍也、若有故則換之必佛院若別業避人家雜沓也、
一會之具、一茶一菓、琴二張几二坐、若當日有力者別供酒核點心等,不復妨、
一會之事、彈琴之餘、賦詩誦書、作字描畫、或唱詞曲、弄絲竹從各所好、但衆人相會、語言易譁、或談經史論文章、固自佳、説鬼毀俗、又無不可、特不許説雲路談市井耳、
約成以告先生、先生曰善、而惟有賓無主、雖眞率誰能辨茶菓、同社曰、毎會二人輸次以執其事、可乎、先生曰善、於是舉常會者名、別列左
  己酉花期    新樂定誌

 此頃空々と名を齊しくしたるは蘭室上人なるが、其徒には間々異説を唱へ、務めて別に一家を立て、人の奴隷たるを欲せずといへるものあり、空々は越師の正宗を守り、浮華に流るゝことを戒めたり、是二人の師承自ら異なる所あると、其性質の然らしむる所に由るなるべし、
 空々晩く生れて越師に謁せざれども、之を尊ぶこといと篤し、曾て越師が自筆にて鵲梅仙 賀新郎 瑞鶴山(餘の三曲今知り難し)等六曲の譜を書したる稿本を見て、大に喜び數本を臨書し且つ之が跋を作りたることあり、其文は左の如し

右琴譜六曲、越公諧音手書艸本也、今傳在侍醫多紀君之家、月池桂君借來示予、予喜甚、乃臨二三本、予素拙筆、纔摸其形似、不能存三十一於千百、爲可恨耳、雖然後人以此知師之下指不苟如斯、而或謂吾邦歌謡爲周漢遺音者、妄誕不足言、不亦善乎、以其一本贈之君、云、
  寬政九年五月二十三日  兒玉

空々は文化八年七月二十日年七十八にてみまかりたり、江戶名家墓所一覧には淺草白泉寺に葬りこと見ゆ、

 新樂閑叟は名を定 字を子固 通稱を傳藏 號を馬門といふ、其盧を愛閑堂と名くるをもて更に閑叟とも號す、牛籠北町に住して幕府の徒士たり、博學にして文を能くし、琴を空々に學びて其妙を得、又是をもて蘭室上人に変りし、中年の頃致仕して諸園に遊歴すること殆ど二十年、其間深く心を琴に用ひ、もと此道に係ることあれば千里を遠しせずして往いて之を問ふ、故に曾て水戸の祇園寺に赴きて、越師が来歴遺物等を探り、又足利學校に至りける時、竹洞文集ありしかば頓て之を抄録し、其後に數言を題して曰く、
寛政丁己秋於北越歸路踏三國嶺、自厩橋便道足利學院、歸留数日、以憩遠途之脚、偶閲蔵書得竹洞文集、因抄其涉琴事者云、
 重九後一日、閑叟誌、

 此外琴川東川より空々に至るまでの名士、並に己が平日交れる蘭室 月池 東川などの言行逸事を記し、名づけて絲桐雜記といひしを、琴友鈴木鷗汀(名は繼 字は子述 通稱兵三郎、村上藩の人)に貸し與へて、鷗汀歿して書失せにければ、再び記憶する所を記して、閑叟雑記一巻を著したり、(迂人こたび心越以下諸士の傳を作るに、此書に據りたることいと多し)
 又曾て蝦夷地に遊ぶこと数年、其地沍寒強きをもて、絶えて桐を生ぜざるより、琴材となすべきものなきを歎ぜしが、或る日函舘官廰の址に一株の桐の木あるを見て大に喜び、官に乞ひて之を獲たるが、枝に朽ちたる所ありて、僅に一琴を造るに堪ふるのみ、さて其底板には蘭馬尼(松前の方言に「おんこと」といふ)といへる木を用ひて琴に製りたるに、音調清らかにして新らしきものともおもほえず、其後之を携へて擇捉島に渡りしに、文化丁卯の夏、魯西亜人の其地に寇するに出逢ひて、騒擾の間に之を矢ひ、捜索すれども終に其ある處を知らず、五年を経て辛未の夏播州兵庫の高田某(※嘉兵衛)の家に適きて之を得たり、蓋し邊寇の時、兵庫の船倉皇物を載せて歸りしに、其間に混入しけるなりとかや、是に因りて閑叟竊に謂らく、予が此琴を作りたるは、北陸の夷地にて古聖王の器を製るの初めなり、不思議にして夷地に琴材を得、不思議にして邊寇の火を免かれ、不思議にして海上萬里の風波を凌ぎ、又不思議にして百里外の此地に於て再び之を得たり、是天の救護あるなめりとて、遂に京師に携へ行き、之を平松亞相公(※平松琴川)に奉呈したりといふ。
 閑叟琴を學ぶものに語りて曰はく、琴客中よく伶人家の律管をもて、絃を調へ律に協へんことを専らとするものあり、其心に思へらく、琴家は概ね不學無識なるゆゑ、其道もと合律を重しとすることを知らず、唯徒らに師を守るを事とす、是猶里巷の女児の三絃を學ぶが如く、調絃を辨ふるのみと、
 是又深く思はざるなり、初め越師の我が國に来る、言語通ぜざるのみならず、當時文筆あるもの世に少し、是を以て悒々無聊常に琴を彈きて閑寂を慰め居りしに、偶々人見竹洞就きて琴を問ひ、漸く其學ぶべきを覺りて、苦心勉励是に従事すること殆十年、終に数十曲を受け得たり、越師も其人を得たる喜びて、海外の知音とまで稱したるは應酬の簡牘詩文等にて明らけし、かく交り厚き二子の間に於てすら、其授受したる所は調絃のみにして、曾て一言の合律に及びたることなし、是豈竹洞の才合律をいふに足らずとして止むるならんや、蓋し越師が傳ふる琴は、唯調に諧音して彈ずるのみ、伶人家の協律を旨にするものとは自ら同じからず、是其遺物の中に一箇の律管あらざるをもても推し量らるゝなり、
 抑々吾が徒が弄する琴と伶人家の琴と同じからざることは其説あることなり、四庫全書簡明目錄子部藝術類の中に琴史六卷 松絃閣[館]琴譜 松風閣琴譜等を舉げて、其終りに、
右藝術類琴譜之屬三部十巻、謹案以上所録、皆山人墨客之技、識曲賞音之事也、若熊朋來瑟譜 王坦琴旨之類、則全爲雅奏、仍隷經部樂類中、不與此爲伍矣、

とあり、是を以て樂律家の琴書は子部藝術へ入れ、後世の琴二つに分れあることを覚るべし、且つ凡そ物あれば必ず音あり、音あれば必ず十二律に合ふ所あり、是自然の理にして固より辨を待たず、況や琴を擧ぶものゝ絃聲に於けるや、誰か山人墨客の琴獨り律に協はずといふを得んや、

 杉本仲溫(秋月※杉山を杉本に改める) 名は良 號は樗園 字をもて行はる、詩文の才あり、幕府の侍醫にして後法眼に叙せられ、醫學の事を掌る、少き時琴を閑叟に學びしに、閑叟勤めて其師空々及び蘭室に就きて業を肄はしむ、仲温甚だ琴を嗜み少しも閑あれば必す之を撫す、二十餘年一日の如し、
 享和元年の冬、輪王寺宮一品親王公澄(輪王寺宮は俗にいふ上野の宮なり)日光へ赴かれし時、宮より仲温に陪駕を命ぜらる、(仲溫此時未だ醫師とならず、法親王日光へ旅行の時は、官より醫師を附させらるゝ例なり)年暮れ春になりしかど、山中残雪未だ消えず居所いと物淋し、或るタベ法親王伶官侍臣等に管絃を奏せしめ、終りて仲温に仰せて琴を彈かしめられしに伶官等は始めて之を聴き、誠に奇異の思ひをなしてけり、正月の末までおはしければ其後も屢々之を聴かれ、遂には親しく琴を學ばれたり、
 文化七年春、法親王に病ひによりて京師に歸られけるに、(其後は歓喜心院宮と稱して山科に閑居し給へり)此時官又仲溫に陪駕を命ぜられしかば、(此時は仲温已に侍醫たり、是まで侍醫にて陪駕したる例なしとて止むべかりしを、特旨によりて參ることになりたり)閑叟を伴ひて行きけり、京師に留ること十日ばかり、一夕伏見親王二人を召されて琴仕れと仰ければ、畏まりて南薫操 秋風辭 離別難など彈じけるに、賞詞大かたならずして物を賜ひ、且つ侍臣に命ぜられて、琵琶二面を拝観せしめられたり、一つを谿風といひ、一つを後世樂といひて、共に王家の珍蔵と聞えき、
 仲溫 閑叟 詩仙堂に古琴ありと聞き、往いて之を見んとしけるに、前夜より雨降りつづきて未だ止まざるをもて、従者等固く之を止めしかど、滞京の日もはや敷少くなりしゆゑ、思ひ立ちぬるまゝ是非とも往かんとて、蓑笠被り鞋はきて出で立ちぬ、加茂川に沿ひて行くに、初夏のけしきとて木々の梢翠を添へ、山々の峰雲を帯びて目に入るものいと珍らかなれど、雨はいよいよ降りまさりてけり、猶行きに行きて程なく一乗寺村なる詩仙堂につきにけるに、古松密竹、翠苔清泉、幽棲の趣きを極む、比丘尼ありて丈山が遺物を守り居ければ、夫等を観畢て後、所蔵の古琴を観んことを乞ふに、尼敢て許さず、再三乞ひて之を観ることを得しに、滿甲斷紋ありて鳳足四柱を具ふ、二人大に喜び試みに絃を調ぶるに、其音清くして遠し、遂に数曲を搊皷して去れりとぞ、傳へいふ此琴は明の陳仲醇の物なり、或は然るべし、


東皐琴譜の事
 琴譜もと越師の編集せられたるものなく、寶永中杉浦琴川始めて東皐琴譜を編集したることは、琴川傳中に於て既にいへるが如し、同書は五巻ありて、

第一巻は、諸家の序、規戒一則、凡例一章、五音審辨字母源流、
第二巻は、宮晋六曲、
第三巻は、商音二十五曲、
第四巻は、角音三曲、徵音一曲、羽音十四曲、商角音一曲、
第五巻は、扶桑操七曲にして、是は附錄なり、

右曲數合せて五十七あり、
 諸家の蔵本少しの異同あれども、迎噋閣(空々の書屋の名)所蔵の本は琴川が琴譜編集の時の草本にて、序文は諸家の真蹟、譜の小序は琴川(越師の書かれたるものも二つ三つあり)譜は東川の手書なれば、是をもて正本とすべきこと勿論なり、唯如何なる故にや林祭酒と高天満との序文見えずとなん、今其曲名を左に擧ぐ、

   宮音六曲
高山流水 鷗路忘機 清平樂 浪淘沙 東風齊著力
   商音二十五曲
思賢操 三方引 大哉引 秋風辭 歸去来 子夜吳歌
幽澗泉 久離別 醉翁操 八聲甘州 瑞鶴仙 太平引
鶴冲霄 南浦月 鳳凰台上憶吹簫 飛瓊吟 瑤芳引
偶成  石交吟 滄浪歌 靜觀吟 鳳梧鳴佩 釋談章
 (迂人按ずるに右二十五曲の中二曲不足した其一曲は鳴鳳朝陽なるべく思はるれども、餘の一曲は何如なるものにや知る能はず)、
   角音三曲
雁落平沙 寄隱者 賀新郎
   徵音一曲
南薫操
   羽音十四曲
猗蘭操 嵆中散 平沙落雁 憶秦娥 離別難 華清引
霹靂引 月常廳 憶王孫 草堂吟 長相思 相思曲
竹枝詞 小操
   商角音一曲
箕山操
  附錄扶桑操
   商音二曲
熈春操 思親引
   角音一曲
按排曲
   和歌四曲
春野 富士 山里 山櫻

 右附録の扶桑操の中、熈春操 思親引の二曲は、師が歸化の後作られたものにて、明朝より傳來の曲に非ず、しかして熈春操は吾が國の風土を好し太平を祝したるもの、思親引は越師が故國を思ふ情を述べたるものなり、又按排曲は宋人の詞を取りて、越師が琴の手を附けられたること、琴川が按排叙にて明かなり、其文は左の如し、
按排者非舊曲、乃宋人之小詞、而藏于竹洞先生之書笈、其詞氣使人自然徹古今之情、師吟以配角音、譜成名按排曲、豈止譜之巳也、後之韻人宜按排斯文、庚寅新秋、琴川錄、

 和歌四曲は、思ふに竹洞 琴川などの作りたるものなるべし、春野は光孝帝、富士は山邊赤人、山里は源宗于、山櫻は僧行尊の歌にて、共に百人一首に載せたるものなり、


中根香亭 なかねこうてい 1839-1913
中根香亭68蔵小照 幕臣、漢学者。朝川善庵の孫。本姓は曾根。名は淑。字は君艾。剣槍を得意とし心形刀流の伊庭八郎1844-1869とは少年期、練武館での竹馬の友。戊辰戦争時八郎の救出に尽力する
維新後、沼津兵学校教授。明治五年陸軍参謀局にはいり『兵要日本地理小誌』をあらわす。二十一年文芸雑誌『都の花』の発行兼編集人。75歳卒。著作に『日本文典』など。
琴にまつわる伝記は坂田進一『痩蘭齋楽事異聞』の「高士中根香亭先生」に詳しい。
本文「七絃琴の伝来」は江戸琴学の基本文献の一つ。
井上竹逸手稿『竹逸琴話』を校訂要約し1890年6月から横浜『毎日新聞』に連載したもの。
 (中根香亭『香亭遺文』442頁以下所収)

江戸琴学基本文献:
新楽閑叟1797年『絲桐談』(別名『絲桐雑記』、後半『閑叟雑話』)
片山賢1853年『鳥海翁琴話』(『訳注 鳥海翁琴話』)
井上竹逸『竹逸琴話
中根香亭1890年「七絃琴の伝来」
ファン・グーリック1940年『琴道』

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