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 日本近代美術の問題

1882年小山正太郎24歳vs.岡倉天心19歳「書は美術ならず論争」
小山正太郎「書は美術にあらず」(「東洋學藝雑誌」第8-10、1882年)
岡倉天心の反論「『書は美術ならず』の論を読む」(「東洋學藝雑誌」第11,12,15、1882年初出 『岡倉天心全集3』、平凡社、1980年)

1.世上の「書を美術とする」の諸説は信ずべからず。
1)書は言語の符号、書の複雑な形とアルファベット(蟹行文)の単純さの違いは、文字の意匠の違いに過ぎない
天心の反論:
「其論の帰着する所は西洋に於て書を美術とせざるに、我書、西洋の書に異なる性質なくして、特別に美術とするの理なしと云うに過ぎず。然れば、我書、西洋の書に異なる性質ある所以を論定せば、他の論点随って明白ならん。」
「それ美術の名は、実用技術(architecture)に対して下したるものなれば、其の主旨とする所大に異なると雖ども、実用技術の中にて美術の域に入るものあり。例えば彼の建築術 architecture の如き」「世人の美術を以って許せる建築術は、内質の堅固と共に、外貌の美麗を索むる術なり。風雨寒暑を防ぐの外、更に索むる所あるなり。」
「書は固と言語の符号なり。書を作るは実用技術なり。苟も字体を成せば其職分畢れり。猶小屋にして風雨寒暑を防ぐが如し。然れども、我が書に索むる所は、啻だに字体を成すに止まらざらなり。我書は勉めて前後の体勢を考へ、各自の結構を鑑み、練磨考究して美術の域に達するものにして、欧州人の唯だ意を通ずるを以て是れりとするに比すれば、大に異なる所あり。」

2)「趣味あるに由て美術なり」万物皆趣味がある、万物皆美術
3)「本邦の書は、人の心目を慰め、人々これを愛玩するに由って美術なり」実は愛好するところは他に存する
○ 語句が己の意に適う。○ その人を慕う。○ 古物として○ 珍品として○ 慣習により○ 雷同して(流行の書などを)○ 書を学ぶための模範として
書を見て心目を慰めるという理由では美術だとはいえない。もし心目を慰めるというのであれば、瓦当や骨董、盆栽などでも皆心目を慰めることが出来る
4)「亦、本邦の書は房室の装飾に供する、欧米において書を用ゆるが如し、因て美術なりと、是れ亦論ずる迄も無き妄の妄なるものなり。」「例えば敷物の如き、壁色の如き、皆室内の装飾に供するものなり。豈に之を悉く美術なりと云うべけんや。」
5)「曰く本邦の書は、古より書画同体と称し、画は書を助け、書は画を助け、固より同根同種なり。故に画を美術とせば、書も亦美術なりと」「往古、倉頡(文字を作ったとされる神話の神)の創めて言語の符号を作るに当なば、多少画力を借り、万物の形に象りて作りしなるべしといえども、己に作りし以上は形に由て其の意を覚に非らず、唯だ符号として解するのみ。」
6)「本邦の書は、人心を感動するに因て美術なりと、これ亦笑うべき言なり。」「然れどもその吾人を感動する者は何なりやと尋ぬれば、即ち詩句の力にして、書の力に非るなり。故に如何に巧みなる書なりといえども、不通の誤を記せば、人心を感ずる無く、拙き書なりといえども、名文、名句を記せば、人心を感ずるや必なり。」

天心の反論:詩文に感ずる情は、書に感ずる情とは異なる
「例えば名詩を名筆家が書せば、人之に対して二様の感覚を起こす。
一には詩仙の詩、剛邁快活なるを愛し(このとき詩を見て、書を見ずと云うも可なり)、二には草聖の書、奔放駭逸なるを愛さん(このとき書を見て、詩を見ずと云うも可なり)」


2.「書は美術となすべき部分を有せず」
「書は言語の符号」を記する術
「図画の如く、濃淡を着けず、彫刻の如く凹凸をつくらず、要するに各色の照映等を熟考して人目を娯ましめんと、工夫を凝らすの術にあらざるなり。独り彩色を使用するの巧拙のみならず其形も亦各人各自の才力に由って之れを作り出すものにあらず。」

天心の反論:
「即ち『書は美術ならず』と云うにあらずして『書は図画ならず、書は彫刻ならず』と云うに過ぎざるものなり。
蓋し美術の名目たる、其区域甚だ広く、高きは音楽、詩歌、彫像、図画、建築より、低きは彫刻、陶器、指物に至る。
此等の諸術、皆各自独特の性質を有し、殊に音楽は鳥声に擬せず、人語に傚わず、図画彫刻の如く外物に依りて感情を起さず、専ら思想上の快楽を与うるを以って、識者は之を美術の第一位に置けり。
此に由って之を観れば、図画の如く彩色を要せず、彫刻の如く凹凸を作らずといえども、敢えて美術たるに妨げなきのみならず、却って図画彫刻よりも高尚の位置を占むるものあり。故に、書の彩色を施さず、凹凸を作らざるを以て、美術に非ずとなすべからざるなり。」

「其形(文字の形体)も亦各人各自の才力に由って之れを作り出すものにあらず」
「其巧拙も亦、筆端些小の趣味にあるのみ」 泥工が壁を塗ること、アルファベットにも筆端趣味がある 故に書は美術ならず

天心の反論:
「是れ亦正当の論にあらず。見よ図画彫像其他のものに於ける猶此の如きことあり。
 茲に長身赧面、美髯の臍に達し、右手に青龍刀を提げ、左手に左氏傳を持するの図あらば、問はずして其關雲長たるを知るべし。是れ身の長、面の赧、髯の美等が關羽をして關羽たらしむるものにして、則ち雲長己定の形なりと云ふべし。若し頭は禿ろにして、龍刀左傳を提携せず、亦一縷の髯なくして、唯だに侏儒の像を画かば、決して壽陽侯たるを弁知すべからざるべし。然りといえども、關羽の像を画く時、或は怒らしめ、或は笑わしめ、以て人目を娯しましめんと謀るは、画家の本分にして、其優劣は喜怒哀楽の情を表するの巧拙に関せざるなり。書の如きも、亦然り。
字体は既に定まりて亳も変化すべからずといえども、真行草の三体中、飛燕の痩せたる、玉環の肥えたる、驚蛇草に入るが如く、舞燕池を掠むるに似て、神工鬼斧の妙を具え、烟霏霧結の神を含み、其変化たる実に名状すべからず。
固より字をして怒らしめ、字をして笑はしむる能はざるに至っては、較や図画に異なるといえども、前後の体勢を比し、各自の結構を考へ、以て人目を娯しましめんと欲するの目的に至っては、則ち図画其他の美術と同一なるものと云ふべし。」


3.「書は美術の作用をなさず」
書は言語の符号「書は他の美術の如く独立して作用する者にあらず。必ず文句の指示に従い、然る後始めて作用するものなり。若し文句の指示に従わず文字の形を記せしのみにては如何に巧みに多数の文字を書するも何の用をも為さざるなり。」
天心の反論:
「一般の美術には如何なる作用あるべきやを論定せずして、書は絵画の作用なきを以て美術ならずという。」「書を作るは美術中最も画を作るに近しと雖ども、其目的方法の隔絶せる」
小山氏は絵画の作用を十分説かずして、書の作用に独立した作用なきを論ずるに過ぎず。「古今の風俗を一日間に歴観せしめ、各地の風景を一室内に集覧せしめ…」云々の如きは、皆写真を以て十分に其作用をつくすを得べし。」


4.「書は美術として勧奨すべからず」
「書は普通教育の一科として勧奨すべく、美術として勧奨すべからざるなり」唯書を勧奨するのみでは人才を養成することは不可能
書は、工芸品のように海外に輸出できず、奨励するに値しない。

天心の反論:
「嗚呼西洋開化は利欲の開化なり。利欲の開化は道徳の心を損じ、風雅の情を破り、人身をして唯一箇の射利器械たらしむ。貧者は益々貧しく、富者は益々富み、一般の幸福を増加する能はざるなり。此時に当り計をなすに、美術思想を流布し、卑賎高尚の別なく天地万物の美質を玩味し、日用の小品に至るまで、思想を歓悟するの具に供せしむるに若くはなし。美術を論じるに金銭の得失を以てせば、大いに其方向を誤り、品位を卑しくし、美術の美術たる所以を失はしめるものあり豈戒めざるべけんや。
書は果して美術なるや否は、後日を待て之を論ぜんとす。知らず、小山氏は、『二十年』を隔て如何なる感覚あるべきか。」


論争その後―夏目漱石の文芸論
漱石は文人画を描く他、『こころ』の装丁に石鼓文の篆書を採用するなど、書についても見識をもっていた
1907年夏目漱石が東京美術学校で行った講演「文芸の哲学的基礎」から
絵画の技巧について
一つは物の大小形状及びその色合などについて知覚が明暸(めいりょう)になりますのと、この明暸になったものを、精細に写し出す事が巧者にかつ迅速(じんそく)にできる事だと信じます。二はこれを描(えが)き出すに当って使用する線及び点が、描き出される物の形状や色合とは比較的独立して、それ自身において、一種の手際(てぎわ)を帯びて来る事であります。
この第二の技術は技術でありかつ理想をもあらわしているからして純然たる技巧と見る訳には参りません。現に日本在来の絵画はおもにこの技巧だけで価値を保ったものであります。それにも関わらず、これに対して鑑賞の眼を恣(ほしいまま)にすると、それぞれに一種の理想をあらわしている、すなわち画家の人格を示している、ために大なる感興を引く事が多いのであります。たとえば一線の引き方でも、(その一線だけでは画は成立せぬにも関わらず)勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もできますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりましょうし、あるいは婉約(えんやく)の情、温厚な感を蓄える事もありましょう。(知、情の理想が比較的顕著でないのは性質上やむをえません)こうなると線と点だけが理想を含むようになります。ちょうど金石文字や法帖(ほうじょう)と同じ事で、書を見ると人格がわかるなどと云う議論は全くこれから出るのであろうと考えられます。だから、この技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄して参ります。
しかし前種の技巧、すなわち物に対する明暸なる知覚をそのままにあらわす手際(てぎわ)は、全然理想と没交渉と云う訳には参りませんが、比較的にこれとは独立したものであります。これをわかりやすく申しますと、物をかいて、現物のように出来上っても、知、情、意、の働きのあらわれておらんのがあります。何(なん)だか気乗りのしないのがあります。どことなく機械的なのがあります。私の技巧と云うのは、この種の技巧を云うのであります。私の非難したいのは、この種の技巧だけで画工になろうと云う希望を抱く人々であります。無論諸君は、画工になるにはこの種の技巧だけで充分だと御考えになってはおられますまい。しかし技巧をおもにして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間に、ついこの弊(へい)に陥る事がないとは限らんと思います。
再び前段に立ち帰って根本的に申しますと、前に述べた通り、文芸は感覚的な或物を通じて、ある理想をあらわすものであります。だからしてその第一主義を云えばある理想が感覚的にあらわれて来なければ、存在の意義が薄くなる訳であります。この理想を感覚的にする方便として始めて技巧の価値が出てくるものと存じます。この理想のない技巧家を称して、いわゆる市気匠気(いちきしょうき)のある芸術家と云うのだろうと考えます。市気匠気のある絵画がなぜ下品かと云うと、その画面に何らの理想があらわれておらんからである。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小で、卑俗で、毫(ごう)も人生に触れておらんからであります。


関連事項
1877年内国勧業博覧会開催、日本画家ら龍池会結成 条件付きで書画は美術
1882年内国絵画共進会開催、日本画の復興
1889年東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部の前身)開校、絵画(日本画)・彫刻・工芸科のみ 書道科は設けられない(小杉榲邨が「書学」科目で書道史講義)
1898年岡倉天心「日本美術院」創立
1907年東京美術学校図画師範科設置(3年制、1942年に師範科に改称、1952年まで存続)、「習字」の科目として岡田起作、比田井天来、小琴、石橋犀水、尾上柴舟が書道講師にあたる 卒業生に破体の松本筑峯らを輩出
(戦後、東京藝術大学でもデザイン科内にカリグラフィーの科目の一つとして存続、立石光司、山崎大砲らがあたる)
1947年23年日展第五科(書道)設置(以前の文展、帝展は絵画、彫刻、工芸が主)

参考書
岡倉天心全集 平凡社 1981年(1994年) 日本近代美術草創期の思想家
 『茶の本』は岩波文庫、講談社学術文庫などにも翻訳がある
柳田さやか 「書」の近代─その在りかをめぐる理論と制度 森話社 2023年
 参照:天来は東京美術学校で何を教えたか(1)(2) 天来書院のサイトから
  ※上記デザイン科の例のように東京芸大に書の授業が全くなくなったわけではない
参考サイト
東京藝術大学の歩み 東京藝術大学公式サイトから
岡倉天心の世界 『茶の本』のweb訳
夏目漱石「文芸の哲学的基礎」原文 青空文庫から
芸術書雑録 近代美術史料集など

日本近代美術の問題
明治の写実
大正の個性

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 日本美術史ノート 近代の美術「書は美術ならず論争」   2003.1写 

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