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 法隆寺再建

法隆寺再建
昭和14年(1939)法隆寺西院境内の若草伽藍跡から寺院跡(四天王寺式伽藍)が発見 同じ境内に2つの寺院の存在は考えられない
若草伽藍=旧法隆寺→天智9年(670)焼失→7C末-8C初 現在の法隆寺(東に金堂と西に塔の伽藍)が再建 法隆寺再建論

推古13年(605) 聖徳太子、斑鳩宮に移住
推古13〜15年  聖徳太子、法隆寺を創建
皇極2年(643) 斑鳩宮焼失 山背大兄王と一族25人、法隆寺で自殺
大化4年(648) 食封(じきふ 皇族、高官、社寺などに支給される俸禄)三百戸が法隆寺に施入(せにゅう)
天智9年(670) 法隆寺全焼
天武8年(679) 食封停止 「法隆寺縁起」
         法隆寺再建
和銅4年(711) 法隆寺完成 五重塔塑像、中門仁王像完成 「法隆寺資財帳」
天平11年(739) 斑鳩宮址に東院建立

福山敏男氏 斉明(さいめい)頃(655〜661)金堂建立
村田治郎氏 天武初年(673) 広義の白鳳様式の中の飛鳥様式説
上原 和氏 天武9年(680)初唐の新様式

食封の問題
1.再建工事中に食封が停止されるということは考えられない→679年法隆寺再建完了説
2.食封一時停止は再建工事が一時中断したためとする説
3.670年全焼後、壬申の乱(672)などがあり再建場所も決まらず、その間食封が停止されたとする説

法隆寺は誰が何のために再建したのか?
皇極2年(643)蘇我入鹿により山背大兄王ら聖徳太子一族が五重塔に自殺 背後に藤原不比等 聖徳太子のたたりを鎮めるため法隆寺再建、とする説(梅原猛氏「隠された十字架」)
太子の庇護を受けていた新羅系渡来氏族、秦氏、小野氏が主導 法隆寺再建を願う僧侶達の請願 壬申の乱によって新王朝を築いた天武天皇(673〜686)が新羅との関係修復 秦氏と縁が深く新羅ともよしみのあった聖徳太子を再評価、とする説(邦光史郎氏著「法隆寺の謎」)

参考書
奈良六大寺大観 法隆寺 岩波書店 1970-73年(1979年-再刊)


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 日本美術史ノート 法隆寺再建   2002.5写 

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