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  胸中の丘壑4

構築史の素描


プリミティブな地平線 プリミティヴな絵画の構築
 空間の構築で問題となるのは地平線である。空間には山水のモチーフが置かれる地平面が想定されるが、その地平面が画面上に設定された地平線にどこまでも後退して遠ざかるような三次元のイリュージョンを造るのは、平面である絵画にとっては矛盾なのである。そしてその矛盾が最も集中していくところが地平線なのである。これを地平線の矛盾とよぶ。プリミティヴな絵画にとっては下から上に積みあげて遠いものをあらわす。〈図4〉その段階では幾何学的な作図を行うのと同様であり地平線は設定されない。

唐代山水画の構築
地平線の確立 琵琶捍撥面騎象胡楽図 〈図6〉

 自然主義の表現のゆったリした高まりと共に唐代には地平線は画面上部に想定されるが、地平面は幾何学的な作図のように後退するだけであり、地平線付近の描写で破綻をきたすことになる。〈図5〉
 地平線が想定されるということは、同時に他方で何らかの視点をもつ主体が確立されることを意昧する。
 張彦遠のいう山水の変とは、必ずや呉道子によって頂点を極めた唐代人物画の描写があってなったはずであるが、残念ながらその項点にあたる作品は今みることができず周辺から探るしかない。それは速度と肥痩のある筆で人体の動勢をとらえ(例えぱ正倉院麻布菩薩)、大画面による群集構成を成しえた(李重潤墓儀仗図など)と思われる。それは同時に人間の周囲の空間と時間を確実に把ええるものにまで成熟していたと思われる(李賢墓駱駝の疾駆や馬球の図など)。これはそれまでの人物画の背景としての風景や神仙山水などから、山水画がそれ自体確実に独立しうるようになったことを意味する。〈8〉
 そのように確立された山水画の中で少しずつ後退するイリュージョンを、作図のレベルで大小比やジグザグの視線の導入などによりつくりだし、次第に無理のない描写に近づけていくのが、山水の変以後、唐代に流行した平遠山水の展開であったと思われる(正倉院琵琶捍撥面騎象胡楽図〈図6〉、敦煌莫高窟第172窟文殊変相図の山水など)。
 そうした中で先の地平線の矛盾に決定的な答えを出したのが中唐の水墨技法であろう。淡墨のグラデーションは、地平面がどこまでも後退して遠を志向する効果を、同時に追求されていた作図的な後退の効果とあいまって発揮したはずである。その効果を最大限に寒林平遠の中で生かしたのが五代山東の山水画家李成であり、李成によって地平線は固面半ぱまで下げられることが可能になったのではないか。〈図7.8〉

宋代山水画の構築
李成「喬松平遠圖」 〈図7〉 平遠山水の地平線

 李成系の山水では地平線は淡墨のあわいに追求されるので、地平線は画中の矛盾を解消するかのように消え描かれることはない。空のうつろいを追求しない中国絵画では、地平線の位置が画中半ばより以下に下がる必要はない。それ以上下げても上部は余白となるだけでもあり、画中半ぱにあることが地平線の矛盾の山水画での究極の解消を意昧するためでもある。地平線の位置が同蒔に視る主体の視点の一つの(何故なら複数の視点もありえるから)中心になる位置を示すとするなら、胸中の丘壑としてみられた山水は心の中で全体のイメージとしてあるはずであり、その全体をそっくり表すためには画面中央に位置するのが正しく、空と地の二分割される地点に山水を正面視する視点がくるのがふさわしい。
 それ故、画面の枠を意識した構成は日本の場含と異りさほど重要でなく、画の中心から構築することが画家の課題となる。
 そうして以降の中国山水画の歴史の中でも地平線が、つまり視点が画面半ばより下がることはないのである。それは浮遊する心の視線を保つことであり、ついに山水画は地上に立つ人間からの視覚、ヨーロッパのルネッサンス以降の透視遠近法をもたなかったのである。
 この地平線の矛盾が解消されたことで連続する地平面の意識が基本的にできたのではないだろうか。前中後の三段階の遠近法によってこの時期の山水画が分割されこそすれ、そのあわいをぬって統一した地平面と空間意識が成立したのではないか。それはいわば中国的な透視法の発見であった。
董源「寒林重汀圖」 〈図9〉 江南画の地平線

 五代華北でのそのような動向に対し、同時代の江南系山水画家董源らは地平線を一見ブリミティヴの時代と同様に、画面上部に消した。しかしそれは地平面が画面上部で止まってしまうのではなく、上部にむけどこまでも畳々と湾曲し連なり江南の平地をとらえていくという、空間構築における江南に特有な自然をとらえるにふさわしい地平線の矛盾の別の解決法であった。〈図9.10〉
 しかし、そうした江南系の動きは北宋全般を通じては主流になることはなく、北宋前半李成に続いて華北系山水の動向を決定づけたのは、同時代の人々によって「李成の筆は近視すれども千里の遠の如く、范寛の筆は遠望すれども坐外を離れず」〈9〉と評された華原の范寛であった。〈図11〉范寛は濃墨による雨点皴のぴっしりと重ねたモデリングと霧の空間をおいた高遠の視点と大小比によって、圧倒的な重量感と聳抜性ある主山のプロック構築を行った。視る者の視線は周囲の空間ではなく幻想的な距離をおいた主山のブロック自体にすいこまれその巨大さに触れるのである。
 北宋華北系山水画にみられるものは無限遠と無限大の自然への意志である。遠への憧れは空間自体の構築として李成系の画家達が極め、大への志向は山の塊量感の構築として范寛系の画家達が追求した。その二者を空間構築ではいわゆる三遠として、塊量の構築では霧を間にはさみブロックを積上げる構成と人・木・山の比例関係を測るいわゆる三大として、三段階遠近法の中で総合し古典的な山水画を完成したのが北宋後半にでた郭煕であった。
范寛「溪山行旅圖」 郭煕「早春圖」 張澤端「清明上河圖」 王希孟「千里江山圖卷」
〈図11〉 〈図2〉 〈図12〉 〈図13〉
 これ以降郭煕から北宋末にかけて中国固有のリアリズムは、構築性に関してはその頂点に達し、それまでに達成された質をより整理していく過程であったと思われる。たとえばリアリズムの点では伝張択端「清明上河図巻」〈図12〉が、また水墨に岩絵具のグラデーションを試みた伝王希孟「千里江山図巻」〈図13〉では、画巻ほぽ半ばを安定した地平線が走り、遠山の淡い重なりまで画巻手前から一貫した水面の広々と整えられたイリュージョンをつくる。郭煕「早春図」の水爆の爆発したような荒々しいエネルギーが「千里江山図巻」では同様なグランドスタイルに異様な静まりをみせている。これ以上そのスタイルでは展開しようのない限界に辿りついてしまっているようでもあり、王希孟の伝が正しいなら、二作品の間、郭煕の活躍した神宗朝から北宋末徽宗朝へのドラスチックな展開の隔りを偲ばせる。
 金に華北の地を占められた南宋の時代には、北宋のグランドスタイルは守旧的なものに止まり、おそらくそれらは構築性の点では先祖帰りもみられるような弱点をみせたはずである(一群の金に比定される作品)。それは何よりもグランドスタイルの中心である主山の偉容が、外民族の侵攻と王朝の南渡という政治的変動の中でその根拠を失ったことが大きいと考えられる。
〈図14〉
夏圭「山水圖」
 主山の消失の中でおきた南宋の構築の新しい事態は、三段階遠近法のうち中景の主山がぬけたことによる前景・後景化であり、その中間の主山のぬけがらには大気の空間を表わす余白部として、主山喪失の空虚感を仮そめに充填するかのような詩情がもりこまれる。主山にみられたプロック構築のかわりに、画面の枠を比較的に意識した対角線構成が流行する。〈図14〉空間構築の点では、第一に遠への意志の稀薄化が視点のモチーフヘの近接と下降をおこし、淡墨淡彩の微妙なマチエールによる自然の印象的な表現とあいまって、一方では人の自然な視覚により近づき、他方、遠の表現は淡い憧撮へと変容していく。また第二に主山の消失は、北宋の画面横軸に安定した地平線を崩し、特に横巻形式で画面の展開につれ視点の浮遊がおこり、従って地平線は山や霧などのある中継点で遮られながら何段階かにわかたれることになる。

元代山水画の構築
 宋代のこうした構築の質はなべて自然主義的な表現のために行われていたのであり、構築自体が自覚的にとりだされることはなかった。
 元代で特徴的なのは、宋代の自然主義を基にしながら、マックス・レア氏の言い方でいえぱ、その様式自体が自覚的に知的に間題とされるようになったことである。〈10〉筆墨技法の点で宋代の墨面のトーン中心の描法から、筆線主体の一方では表出的な表現に、他方で知的なそれにもなりうるものに転回した。これは南宋の淡墨志向が論理的につきつめれぱ白紙へと稀薄化してしまうことからの、筆を重んずる中国正統の流れによる必然的な転回であった。
 この元代文人らによる絵画の変ともよぷべき転回は、先にその最優作の一つ黄公望の「富春山居図巻」でふれたように、二次元平面での筆線と三次元のイリュージョンの世界に描かれているものとの関係、マチエールとしての渇筆と意図された立体との矛盾のあわいにイメージの構築を求めるという、正統復古の思潮に基づきながらも絵画の全く新しい造り方・視方を生みだした。
〈図1〉
黄公望「富春山居圖卷」
 その復古主義の中、構築の点で重要なことは、正面視した主山が復活したことである。しかし南宋からうけつがれた視点の近接下降浮遊により、主山は北宋の崇高さを失い、ありふれた丘の集まりとなってしまっている。例えぱ「富春山居図巻」では前景から中景へ連続した地平面に主山がブロック構築されるが、かきわリ化した遠山で視線が止まってしまう浅い空間の構築となっている。その丘壑は山の解剖学のように構築の骨組自体が意図され顕わになっている。
〈図15〉
倪瓚「容膝齋圖」
 他の元末四大家の一人倪瓚〈図15〉では、正面視した主山は復活こそすれ、南宋辺角の景の「人物を要に置いた前景・大気のしめる中景・シルエットの遠景」という構成をふみながらも、人の消えた前景、空虚な無地の水面が広がる中景、そしてつつましやかに位置する遠景の主山という型に変容しおしやられている。そこでは四阿(あずまや)はあっても人は意図して消され、その不在の空虚さと茫々とした水の中、まぱらな樹木が垂直に立ちかつては偉大であった主山をさす。元代知識人のおかれた一つの心の有様を象徴するかのようなはりつめた蕭散の表出自体がこの画の主題となっている。

明代山水画の構築
 明代前中期、浙派呉派らの絵画の構築は基本的に宋元をうけつぎ様々な折衷主義を示すがそれほど新しい転回をみせていない。両派ともいわゆる人物山水、つまり主題性をもった人物を中心に季節感のある自然のモチーフがとりまく型であり、そのわかりやすさが浙派は室町水墨画に、呉派末流は近世南画として日本に受容され好まれた由縁である。
 元代での転回から明代末に至るまでの基本的に平坦な動きは、ヨーロッパ絵画のバロックから19世紀半ばまでの比較的静かな様式の展開と似ているかもしれない。ヨーロッパが以降印象派からキュビズム、抽象絵画へと急激に転変したように、中国の17世紀はそれまでのおだやかな山水がなだれをうつように解体していく過程であった。
 明末の変ともよぷべきその動きについて構築の問題から重要な点をあげれぱ、
董基昌「山水高册」 〈図16〉 明末の変の歪んだ地平線 法若真「山水圖」〈図18〉

  1. 空問構築の点での斜めの地平線と地平面の導入とそれらの複含と解体〈図16.17〉

  2. ブロック構築の面からは湾曲し渦巻く塊量のモチーフによる構築関係の放棄〈図18〉

 前者は董其昌によって集約される。その様相はジェームズ・ケーヒル氏によって詳細に論ぜられている。〈11〉ケーヒル氏は董其昌の集大成した立場を次のように述べる。
「董其昌は、自然主義的な風景と完全な抽象化との中間地帯にあって、どちらにもつかないように動きまわり巧みな効果をあげ、またそうすることで現実と抽象の双方にまたがる空間とフォルムにかつてない緊張を作りだしている。董其昌は初めからこの中間地帯に位置していて、自然のイメージ、モチーフ、フォルム、古画の技法などを捨てて、かつて再現に役立ったもので、ここで反再現に変えることができその抽象的価値を利用できるものは皆使っている。」「董其昌の表わしているのは進行過程としての世界であり、絶対的存在としての世界ではない。そんなことは山水画ではいつの時代でも同じではないかというかもしれない。けれども北宋では、画家が理解し描けるように自然の永遠性をたえず限定するのは地質学的な過程、侵触作用や四季の変化といった過程であった。そういうものに董其昌は関心を示していない。董其昌の創造した抽象的な構成の一方式を論理的に展開しているのである。黄公望の山水画の特色は静止ではなく展開するものの統一にあったからである。」
 董其昌が黄公望の展開するものの統一、つまり構築法を抽出したことを、ケーヒル氏は述べられる。それは董其昌のこの明末という時代に至り、斜めの平面の上に構築されることになる。山水画では今までにもふれたように、視点の相違により複数の地平面が同一の画面上にありうるので、董其昌の山水画では斜めの地平面をもった空間が様々に入り組むことになり一見すると混乱した印象を与える。しかしそれは今までの複数の水平面が、画中での滑らかな視点の展開として統一されていたものが、ここでは意図的な混乱としてそのように入り組まされているのだ。
 斜めの地平面自体は、サリヴァン氏やケーヒル氏ら欧米の研究者によって、当時中国にもたらされていた西洋銅版画からの影響を指摘されている。〈I2〉しかしそれはあリうるとしてもきっかけとしてであり、それを取り込み表現の根拠を与えていくのはまた別の問題である。つまり、今までの秩序自体を壊さなけれぱ表現できないような、政治的でも社会的でもない一種内発的で暴力的な力が、明末のこの時代の山水画に働いた時、ダムが欠壊するごとく画中の地軸が傾けられた、そのように中国山水画の自律的な展開としてとらえられるものであろう。斜めの地平面の上に構築、あえていえぱケーヒル氏のいうように反構築として、自然な山水の論理関係が逆になったり入り組んだブロックの構築をすることも、同様な強い表現意欲が働いたものとみられる。そのように強度に抽象的な構築の中では、自然の形態は放棄されないとはいえ、人物は登場しない。元代倪瓚の山水画でみたように蕭散の心の象徴として人は不在なのではなく、存在できないあるいは極度に人工的なこの世界にはそうする必要もないのである。
 こうして斜めの軸が導入されれば山水画の構築関係は、後は自律的に解体せざるをえない。つまりそれはもうここにこれ以上は構築できないという点で、今まで辿ってきた千年以上にわたる胸中山水を構築する歴史の論理的な果てなのである。
 また別の流れとして、構築の放棄としての渦巻く形態は明末の山水画の一部分にあらわれるが(米万鐘など)、それは清初の法若真のような画家の山水自体の渦巻く運動そのものを表現する山水画に集約されていく。しかしそれは放棄である故、渦巻く山の周囲は通常の山水の空間が残るという弱点をみせる。

清代山水画の構築
王原祁「彷雲林設色山水圖 〈図19〉 石涛「山水圖」〈図20〉

 明末の董其昌など一群の画家達の暴力的ともいえる動きは清初になって静まる。けれどもいわゆる正統派、個性派と相対立して呼ぱれる画家達とも董其昌以降をうけている。正統派の王原祁は、董其昌がひいた数百年にわたる正系を一にひきうけるものとして、清代官僚層にふさわしい静かな陶器のような画を構築しようとして、何も描かれない白地と山塊のブロックの絶妙な緊張関係を作りだす。〈図19〉個性派の石濤は我法により自己一人の自発的な様式を打立てようとし力にあふれた画を残すが、晩年には正統を拒否した故の児童画のような危うさをみせて画面を解体していく。〈図20〉
こうして清初の山水画家達は極度に人工的な山水空間を危うい緊張関係で一つに統一しようとして様々に工夫された山水画を生みだしていく。しかしそうした試みは、何か新しく生き生きとしたイメージを作りだそうとすれぱ山水の構築を解体せざるをえず、逆に壊れそうな画面に何か秩序を与えようとすれぱすでに命を失くした旧来の構築関係にたよらざるをえない。そうしたジレンマの中で創造を支えた緊張関係が失われれば、あとにはすでに桎梏となった過去の構築の歴史の蓄積が残る。
 構築しようとすれぱ解体せざるをえず、解体をさけようとすれぱ構築の伝統から逃れられない。中国山水画の胸中の丘壑を構築しようとする偉大な歴史は、清初においてその創造を止めるのである。

〈完〉  






黄公望筆「富春山居図巻」の構築性について
構築史の成立
構築史の素描



 胸中の丘壑4   1990.3写  更新

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