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胸中に抱いた一丘一壑を紙絹に形造ることは、その丘壑のイメージと紙絹に描かれた形との相呼応する過程で深められた。心の中の三次元の立体が二次元の平面に写し変えられる矛盾、いわぱ弁証法的な過程である。それは作品にとっては白地からイメージが作られる過程、画家にとっては修練の過程であろうし、絵画史にとっては山水画がどのように形成され展開されていくかであった。
ここではその過程を、次の三つの変を転回点として考えてみたい。
1.盛唐( 700年代) 山水の変
写実的自然主義の山水表現へのエポック
2.元代(1300年代) 絵画の変
文人画の確立にみる構築性自体の意識
3.明代(1600年代) 明末の変
山水画の構築性の解体
1にあげた唐代、張彦遠が述べるような「山水の変」以降、宋代までの画中に虚構のリアルな山水を形造る動きは、中唐をめやすとする水墨の枝術と結ぴついて唐末五代の多様な模索から、北宋11世紀の華北系山水画家郭煕らによって古典的な完成をみた。その現存する確実な遺品である「早春図」(1072年)〈図2〉は堂々とその活動の幕あけを示している。そこに至る過程としては中国絵画史にとって画期的な諭文、小川裕充氏の「唐宋山水画史におけるイマジネーション」〈4〉によって、現存遺品を辿る難しさから一歩引きあげた連想のイマジネーションとして興昧深く考察されている。水墨の偶然にできた形から雲を、動物を視、山水を連想するということは、中国固有の視方ひいては古代的思考に固有で共通に潜む共同体的な心性にまで射程が拡がるものであった。
しかしそのような連想を期待する固有な心性は、作画過程で早くに壁にぷつかったと思われる。ゴンプリッジ氏の言葉〈5〉でいえぱ、作画の際の図式と修正の過程、作ること(making)とあわせること(matching)では、その連想はあわせることにより傾くはずであり、図を作ることはないがしろにされよう。連想の発想の基になった中唐江南の溌墨画家たちは墨の側面の持主であったため、中国絵画の正系である線、筆の側面から積み重ねられてきた伝統からははずれ早くに忘れさられてしまう。メインストリームとなったのは作ることの側面、いかにして筆が単純な連想からはじめ画中の山水の骨格を作りあげるか。連想に対して構築が画史の正統な間題となるのである。
山水画における構築を考える時、山水のモチーフとそれをとりまく空間の二要素があげられる。その二者をどう処理していくかが構築の歴史の主要な問題となる。
その点に関連し、方聞氏が興味深い見方を述べておられる。〈6〉
輸郭線で仕切られた個別モチーフことの視点から、その輸郭が水墨でぽかされ、元代には統一した視覚が成立したとされる。個別モチーフごとの視点、宋代ぱかりでなく元代に至るまでも中国山水画のリアリズムの表現が展開し、前節でとりあげた「富春山居図巻」はそのtoll(そのようなリアリズムに対する葬送の鐘)となることなど、問題点もあるが元代までの構築性を考えていく時、大切な考えを提出されていると思う。
ここであえて一点だけ疑間点を出すなら、元代の一貫した地平面による視覚とは、方聞氏もふれておられるように、北宋の無限の空間を失った、限定されたものなのではないだろうかという点である。つまり北宋の郭煕が集大成した三遠というような質的に異った豊かな空間の構築性の一部分、一貫した部分を近接拡大しさらに精妙にしたものが南宋のリアリズムの視覚であり、元代もその大枠を受けついでいるのではないか。いいかえれば元代の空間の枠組とは北宋後期に大成された大きな山水空間の一部分を展開したものであり、元代の統一した視覚というリアリズムの表現も北宋の山水にすでにその基盤があるのではないかという点である。〈7〉
それでは宋代に大成されそれを基盤として元明清と展開した山水空間の構築とはどのようなものだったのだろうか。以下その素描を試みたい。
序
黄公望筆「富春山居図巻」の構築性について
構築史の成立
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注