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 中国絵画史ノート 何恵鑑 “如画”と“画意”

このページは中国絵画オリエンテーションの中国絵画の特質F詩書画一致についての下位ページです

本文は何恵鑑1924—2004が1985年ニューヨーク、メトリポリタン美術館主催の国際シンポジウム『言葉とイメージ:中国の詩書画』で発表し、1991年同題の英文論文集に収録された英文の長文論文です
原題『詩と画の関係における“如画Picture-like”と“画意Picture-Idea”の文学的概念』
本ページには@レジュメ、A収録参考文献、B中文訳全文(約3万5千字)、C日文訳全文 の順にあげます

何恵鑑 “如画”と“画意”
はじめに
詩と画の関係は中国美学における根本問題であり、その理解の鍵となるのが「如画」と「画意」という二つの概念である。
・詩と画は古来「同源」と論じられてきたが、両者の関係は単純な「一致」ではなく、複雑な相互作用にある。
・「如画」(絵のような描写)と「画意」(絵画的な意境)という二つの観点から整理する必要がある。
画中有詩、詩中有画(蘇軾の王維藍田煙雨図への題詩) 詩書画三絶

詩画一体は可能か?
「詩中有画」「画中有詩」という伝統的命題を点検。両者は単純な同一性ではなく、互いに触発し合いながらも異なる表現体系を持つ。
・「詩中有画、画中有詩」という言葉が象徴するが、両者は完全に一体ではない。
・詩は言語表現、画は視覚表現という異なるメディアに基づく。
・共通するのは「意境」や「想像力」の領域において。
西洋 ut pictura poesis
中国 『礼記』「致中和」詩楽舞踊
銭鐘書「中国詩与中国画」で疑問 顧随も張岱を引用
北宋 司馬池980-1041「行色」詩
 冷于陂水淡于秋,遠陌初窮見渡頭
 頼是丹青不能画,画成応遺一生愁
北宋中期 文人画出現前夜 「言外之意」 欧陽修と王安石の「荒寒」
欧陽修「蕭條澹泊、閑和厳静」は描き難い、「高下向背、遠近重覆」は画工

“如画”の概念
「如画」とは、詩の中に絵画的な視覚的イメージを見出すことを指す。外形的な描写や自然景観をそのまま再現する傾向が強い。
・「如画」は比喩的に「詩が絵のようだ」とされる状態。
・具体的な景物の視覚的再現に重きを置く。
・詩における視覚的リアリズムの強調。
初め人物画の荒ぶる男性像に使用 『東観漢記』馬援「眉目如画」 荊軻「怒髪衝冠」
六朝の優美な男性貴族のイメージ 4C潘岳、衛玠

山水画における“如画”
山水画において「如画」は、詩的イメージを視覚化する過程で表れる。単に自然を写すのではなく、詩情に導かれた構図や景観表現を形成。
・山水画では「如画」は自然の再現性や構図の写実性に関わる。
・しかし画家の関心は単なる写生ではなく、山水を通じた心境・宇宙観の表現に移行する。
・ここから「如画」だけでは不十分で「画意」へ発展する。
北宋 孫浩然(1070頃活動)「離亭燕」詞中の「江山如画」が初出(南京懐古)
王詵《江山秋晩図》の画意(楼鑰『攻[女鬼]集』)
蘇軾「赤壁懐古」詩の「江山如画」へ

懐古詩
懐古詩は「如画」の典型。歴史的場景を再現し、画面のような情景描写を詩に移す。
・懐古詩における「如画」は、過去の場景を視覚的に再現する。
・そこに歴史的感慨や文化的象徴を重ね、「画意」が成立する。
・単なる絵画的な景色の描写ではなく、時代精神や感情を含む。
詠史詩より私的情緒 唐宋詩人杜甫、劉禹錫、王安石、周邦彦、辛棄疾
歴史上の出来事を現在の空間の事物により暗喩
約定俗成 例:王勃『滕王閣序』676「落霞与孤鶩斉飛」=予測不可能な運命

視覚イメージと聴覚イメージ
「如画」は視覚的イメージを基盤とするが、詩には聴覚的・感覚的要素も含まれ、それが画的イメージに重なりあうことで「画意」に接近する。
・詩には視覚的イメージ(山・水・月)と聴覚的イメージ(風声・鐘声)が共存。
・両者の融合が「画意」を豊かにする。
・つまり「画意」は単に目で見るものにとどまらない。
文人の憧れ江南 19世紀ロマン派が憧れたイタリア
韋荘「春水碧于天/画舟聴雨眠」と査士標《溪山遊楽図》クリ−ブランド美術館
江南の色と音、影と香 対句の陰陽のバランス
上官儀608-64頃「鵲飛山月曙/蝉噪野風秋」
詩経・楚辞から漢 視覚イメージ優位 詩経から 視覚イメージから暗示される触覚
龔自珍1792-1841「叱起海紅簾底月/四廂花影怒于潮」 情景双生
唐王維 視覚聴覚の変換 皇甫松(880頃活動)「夢江南」詞
 蘭燼落,屏上暗紅蕉
 間夢江南梅熟日,夜船吹笛雨蕭々,人語駅辺橋
李白「黄鶴楼中吹玉笛/江城五月落梅花」 琴曲《梅花三弄》
北宋僧 無可「聴雨寒更盡/開門落葉深」
聴覚イメージの優位 実験心理学「心の耳」 4C仏教『維摩詰経』
王安石「長以声音為仏事/野風蕭颯水 湲」 「万法唯識」
黄庭堅 1102宜州にて 方回1227-1307『瀛奎律髄』の賞賛
 山随宴坐画図出,水作夜窓風雨来
実虚、静動の転換 「宴坐」の解釈を元以降誤る(方回も)

仏・道修行における内的知覚
仏教・道教思想における内的知覚の修養は、外界の「如画」を内化し、心境や悟りを「画意」として展開する源泉となった。
・仏教・道教の修行は「観想」により視覚イメージを心内に取り込む。
・内面化されたイメージは「画意」として詩画に反映される。
・「如画」が外界の模写であるのに対し、「画意」は精神的・宗教的体験に根差す。
仏教用語「宴坐」=座禅 pratisamlayana(高崎正芳1975)宋代には道教でも採用
李白、白居易がたびたび使用 李白廬山東林にて
 天香生虚空,天楽鳴不歇
 宴坐寂不動,大千入毫髪
『楞嚴経』 物我両忘 顧愷之『雲台山記』も王長と趙升の瞑想から山水をイメージ
ロラン・バルト「聞くことは心理現象だが、聴くことは心理の行動である」警報、聞き分ける、意味を聴く「聴くことは間主観の空間に広がる。そこは「私は聴く」というこは「私を聴く」ことでもある空間である」(「聴くこと」『形の責任』)
陸機261-303『文賦』「収視返聴」 後漢道教「返観内照」『太平経』
記号論者の間主観は、懐古詩の20世紀の反復
王士禎の王維に対する賞賛 視覚イメージを一見無関係な言語に変換する才能

視覚イメージの言語的・文化的転換
言語による視覚表象は文化的転換を経て伝達される。詩における「如画」もまた文化的コードによって読み替えられる。
・詩画のイメージは言語や文化によって変換される。
・「如画」は翻訳可能な外形描写だが、「画意」は文化的文脈に強く依存。
・異文化交流においては「画意」の方が誤解されやすい。
王士禎1634-1711『秋柳』「白下門」「秣陵舟」 程嘉燧1565-1643「秣陵秋」
→南京を想起 →周邦彦「西河」、辛棄疾「永遇楽」を想起
文化的変換
例:与謝蕪村《柳蔭騎路図》(薮本家蔵)のタイトルの誤り
蕪村の題詩は韋荘の南京懐古詩 蕪村の意図は《台城煙柳図》といったタイトル
例:髑髏や骸骨の古代のモチーフは、中国文学や絵画において一般に人間存在の儚さや幻影のシンボルとして受けとめられている。南宋の宮廷画家、李嵩(1190-1230頃活動)の宝石のような小品、髏幻戲図(北京故宮博物院)では、刺激的なメッセージは、骸骨の人形と、観客と母親の腕の中でむずがっている赤ん坊と、好奇心と期待から人形の方へ向って這っている子供との間のやり取りにある。この仏教的厭世観のややメランコリックな暗示に、皮肉でユーモラスな対詩が付けられている。それは元末の巨匠、黄公望の現存する唯一の散曲、死の年1354年に書かれたものである。

 没半點兒皮和肉    これっぽっちの皮も肉もなく
 有一擔苦和愁     けれどもどこか苦しみと愁いをにない
 傀儡兒還將絲線抽   人形師は糸を操る
 弄一個小様子把寃家逗 かわいいあんたにちょっと一くさり
 識破個羞的不羞    見世物とわかっていても
 呆          阿呆のように
 你兀自五里單堠    あんたは五里駅でまだ見ている

日本:傀儡1.人形2.芸者
歌川国芳《佐倉惣五郎 東山桜荘子》骸骨の芸者
伊藤若沖《髑髏蘆図》と上田秋成「青頭巾」『雨月物語』 釈迦八相の降魔変
夏目漱石 自身が骸骨に変容する夢

文化の相違と変換における視覚イメージ
中国詩画の「如画」は、他文化との交流の中で差異や共鳴を生みつつ発展した。視覚イメージは普遍性を持ちながらも文化的特質に規定される。
・中西文化の違いにもかかわらず、視覚的イメージ表現には共通する傾向がある。
・ただし「如画」は普遍性が高く、「画意」は文化固有性が強い。
・国際的比較で両者のバランスを考えることが重要。
ノマッドの敕勒歌 郭茂倩『楽府詩集』
李公麟《陽関図》黄庭堅跋 琴曲《陽関三畳》
周辺民族の中国化
葉茂台遼墓《竹雀兔図》《深山会棋図》と西夏楡林第3窟《文殊普賢変相図》
金完顔亮(1149-61在位)の杭州への憧れ
→一説によると柳永「望海潮」詞にあるような杭州を画に描かせた
“如画”の要素とは?
18C末イギリスのpicturesque  荒々しさ、不規則さ
William Gilpin 1724-1804, Uvedale Price, Richard Knight などの理論
13C牧谿、玉澗の山水画 大気と詩的なムードの中での形のあいまいさ
蔡肇?-1119李公麟画のための題詩「鴻雁帰時水拍天/平崗老木尚含烟」
徐煕「天水通色」 いずれも平遠を指す あるいは伝董源《寒林重汀図》のような
周邦彦「烟中列岫青無数/雁背夕陽紅欲暮」と馬麟《燕渡夕陽図》(根津美術館)
“如画”のディテール「一抹遥青」
秦観1049-1100 泗州にて 南宋院体画の青山より早い例
 渺渺孤城白水環,舳艫人語夕[雨/非]間
 林梢一抹遥如画,応是淮流転處山
趙鼎1085-1147 儀真の長江を渡る1127
「但一抹寒青/有無中/遙山色」
文学的イメージの地理的・歴史的背景による再創造:漁歌を例
唐 張志和742-82頃「漁歌子」詞のイメージ 野逸
(張志和の画 顔真卿と同時代 「攅鋒若雨縦横掃」破墨)
嵯峨天皇『凌雲集』814、蘇軾、呉鎮《蘆灘釣艇図》メトロポリタン美術館
雅-雪景漁夫、繊細な再創造 俗-晩唐鄭谷の詩、明浙派の画
北宋末の実験 黄庭堅「女兒浦口眼秋波」、南宋高宗「水底間雲片段飛」

玄言詩、絵画的空間と山水画の興隆
玄言詩(六朝清談の詩)は抽象的思弁を扱いながらも、視覚的空間表現を導入した。それが山水画の勃興と結びつき、「画意」形成の重要な段階となった。
・玄言詩では哲理や抽象概念が重視されるが、それを支えるのは絵画的な空間感覚。
・山水画の成立とともに、詩の「画意」も深化。
・絵画空間と詩的空間は相互に触発し合う。

感覚の融合
詩と画の関係は最終的に視覚・聴覚・心的感受の総合的融合へと向かう。「如画」は外的再現の次元であり、「画意」は感覚・精神の統合的表現である。
・視覚だけでなく聴覚・触覚など多感覚が融合して「画意」が成立する。
・「如画」は視覚に限定されがちだが、「画意」は全感覚の総合的体験。

全体のまとめ
・「如画」は詩や絵における視覚的・写実的な側面を示し、普遍性がある。
・「画意」は精神性・文化性・感覚の統合を表す、より高次の境地。
・詩画関係の本質は「如画」にとどまらず、「画意」を通じて外界の再現から精神的境地へと昇華する点にある。



参考文献
『何恵鑑学術著作集 万象自心出:中国古書画研究』 上海書画出版社 2022年
目録(○印は2019年論叢稿とダブるもの)
遼寧省博物館藏宋本〈洛神賦図〉是否摹自顧ト之 
○唐宋絵画史中“破墨”之原義及其在音楽与書法上之来源 (孫丹妍訳)
○“位”:早期中国画搆図的第一要義 ——謝赫“六法”第五法之還原
○李成略伝——李成与北宋山水画之主流(上篇)
1100年至1350年間中国絵画面貌之還原 (朱亮亮訳)
○澹巖居士張澂攷略——並論摹周文矩〈宮中図〉巻跋后之“軍司馬印”及其他偽印
○跋金人画〈燃灯仏授記釈迦文図〉巻
再跋金人画〈燃灯仏授記釈迦文図〉巻
海外遺珠集冊 (鄭楚珺訳)
〈中国画傢与讚助人〉——“宮廷讚助”導言 (石莉訳)
元代社会与書画 (呂明月訳)
○元代文人画序説
任仁発〈人馬図〉巻 (孫丹妍訳)
董其昌的新正統与南宗絵画理論 (鄭濤訳)
○董其昌対暦史和芸朮的超越 (洪再新等訳)
南陳北崔 (孫丹妍)
梁清標收藏之淵源及価值 (曾四凱訳)
詩画関係中“如画”(Picture-like)与“画意”(Picture-idea) (林瑞君訳)

『何惠鑑美術史論叢稿』 上海博物館編 上海書画出版社 2019年
目録
WWei:WThe First Guiding Principle for Compositional Structure in Early Chinese Painting( and a Restoration of Hsieh Ho's Fifth Law) 1
The Original Meaning of P'o-Mo And Its Musical and Calligraphical Origins 25
唐宋繪畫史中W破墨W之原義及其在音樂與書法上之來源 36
The Trubner Stele 43
北齊至隋仏教彫刻史雜攷 61
The WSix GuanyinW in Amesitan Muolumo 109
李成略傳 123
澹巖居士張澂攷略並論《摹周文矩宮中圖巻》跋後之W軍司馬印W及其他偽印 149
跋金人畫《燃燈仏授記釋迦文圖》巻 164
元代文人畫序說 179
元代諸色人匠府紡織工藝中有關美術史的問題 202
董其昌對歷史和藝術的超越 211
Chiang Chao-Shen And The New Literati Painting Traditon ...... Wai-kam Ho and Marc Wilson 235
W李白一杯人影月,鄭虔三絕畫詩書W──江兆申與現代文人畫的新傳統 246

●Words and Images: Chinese Poetry Calligraphy and Painting
The Metropolitan Museum of Art & Princeton University Press, New York & Princeton, 1991
(『言葉とイメージ:中国の詩書画』 ニューヨークメトリポリタン美術館 1991年)
1985年5月クロフォード・コレクション寄贈記念展シンポジウムの論文集
序:方聞(アルフレーダ・マーク) 詩書画三絶
(後に方聞「詩、書、畫三絶」林柏亭中文訳『故宮學術季刊』第3巻第4期,1986)
第1部 三絶の統一についての3つの見方
謝稚柳 屈鼎《夏山図巻》の詩的特質とオリジンについて
啓功  談詩書畫的關係
楊仁愷 黄庭堅の3点の書の傑作
第2部 詩の美学
高友工 中国の詩学
中田勇次郎 米芾《呉江舟中詩巻》の書の様式と詩巻
傅申  黄庭堅の草書とその影響
小川裕允 米友仁の山水画と自題との関係
マリリン・ヲン・グレイスティーン 宋と宋以降の南北の書画−江南の伝統の再評価
ジョン・ヘイ 詩的空間:銭選と詩画の調和
李鋳晋 趙氏3世《人馬図》
第3部 画院芸術
リチャード・バーンハート 伝高克明《溪山雪霽図巻》
古原宏伸 画巻形式における物語の絵解き
徐邦達 毛詩図巻の真偽その他
朱恵良 南宋皇室の書
戸田禎佑 南宋院体画における金の使用
楊伯達 乾隆画院の発展
第4部 詩と画
何恵鑑 “如画”と“画意”の文学的概念
リチャード・エドワーズ 後期宋における画と詩
ジョナサン・ケイヴ “画を超えた意味”:詩人としての中国の画家
江兆申 伝記から見た唐寅の詩書画
アンドリュー・プラーク 明末の文学と画におけるアイロニーの美学
方聞 明末清初の画における言葉とイメージ
ジェームズ・ケーヒル 髡残とその題詩



【中文全文】(林瑞君訳)
何恵监 诗画关系中“如画”(Picture-like)与“画意”(Picture-idea)

1.序
2.诗画一体?
3.“如画”(Picture-like)的概念
4.山水画中的“如画”(Picture-like)
5.怀古诗
6.视觉意象与听觉意象
7.佛教与道教修行中的知觉内化
8.视觉意象的语言及文化转换
9.文化差异与趋同中的视觉图像
10.玄言诗:绘画空间与山水画的崛起
11.感官的融合


在传为王维(701-761)所绘的《蓝田烟雨图》上,出于对这位唐代诗人画家的钦佩与敬仰,宋代诗人苏轼写下名句:“味摩诘之诗,诗中有画;观摩诘之画,画中有诗。”作为一种为人普遍接受的观点,这句话很少有人质疑,后来更成为文人画理论的基石。自北宋末至清初,文人的理想不外乎结合诗与画,追求诗、书、画“三绝”之境。然而若对苏轼的话加以深究,很快会发现其中不乏模棱两可之处,进而引发对艺术史中相关问题的困惑。
我们真的能说“诗画一体”吗?作为两种表现手法,它们真的有可比性吗?它们又是否都具备约翰·洛克(1632-1704)所谓的“语言两大基本功能”——记录与交流?诗画是否能够和平共处?抑或是像安コ烈·纪コ说的那样:“与情敌相拥只为使他窒息?”
以上问题有待论证,此外还有两个关键之处需要指明:第一,同一套批评原则是否能同时应用于诗歌与绘画?换言之,能否用看待诗歌的方式看待书画?第二,倘若真的能在诗中见画,画中见诗,那么“如画”(picture-like)与“如诗”(poem-like)之间又如何区别呢?另外,“如画”(picture-like或picturesque)最初作为一个
文学概念,又是怎样被引入视觉艺术,尤其是中国绘画之中?


诗画一体?

从贡布里希、古コ曼到莱辛、伯克,再到柏拉图与亚里士多コ——与西方漫长且复杂的历史不同,中国没有一种可与文艺复兴时期“画如此,诗亦然”(Utpicturapoesis)相媲美的批评传统。”据《礼记》记载,古时候诗歌、音乐、舞蹈本来作为同一类艺术一体进行表演。这种组合艺术的最高理想是“致中和”,后来的儒家学派对这种理想深信不疑。然而当“诗画一体”付诸实践后,它却遭到各种质疑。在近代,钱锺书似乎是最早对“诗画一体”提出质疑的学者。他以王维(701-761)、杜甫(712-770)与吴道子(活跃于710-760)为代表的盛唐诗、画艺术为例,讨论了被他称作“嗜好矛盾律”的概念,由此证明后世是如何用两种完全不同的标准衡量三位盛唐大师成就的。我们至今未能从社会文化史的角度,对充满矛盾的“嗜好”给予充分解释。例如,在宋初追随白居易(772-846)平民化诗风的人,大多来自贵族士大夫阶层,而继承晚唐颓废唯美、雍容华贵诗风的却是一些僧人,道士。”另一个带来启发的例子是元末画与诗之间产生分化:元末绘画力求抒情与写意的文人风格,而以黄公望(1269-1354)与倪瓒(1301-1374)等诸多文人画家为代表的元末诗坛则流露出对晚唐靡华诗风的回溯。在足利幕府时期(1333—1467),日本诗、画同样展现出这种对立。在禅宗的影响下,室町时期(13921568)的僧人一边画着强调写意与性情的水墨画,一边却写着强调对仗华丽的五山文学,后者是模仿中国的骈文。继钱锺书之后,顾随也指出苏轼诗画理论的不合理。他引用了晚明文人张岱(1597—约1684)“若以有诗句之画作画,画不能佳;以有画意之诗为诗,诗必不妙”的观点。由此而言,不同的历史时期,甚至同一时期内不同的文人圈子里,都持有各自的评判标准与偏见,因而“诗画一体”并非一直得到承认。
无论东方还是西方,许多诗人都会对其他艺术表现出一种居高临下的态度。例如,约翰·沃尔夫冈·冯·歌コ(1749-1832)相信他所创的音乐演讲(Sprach musik)是一种完善音乐的方法:“完美的演讲远比歌唱更美,它用丰富且变幻的方式表达情感,歌唱必须回归简单的演讲。”相比欧洲诗人,中国诗人无须强调诗歌的地位,不过在苏轼与他的追随者为“诗画一体”欢呼雀跃时,至少有三四位北宋重要学者对“绘画能够模仿诗歌”这一观点提出了保留意见。宋代著名史学家司马光的父亲司马池(980—1041)大概是首先提出这种质疑的人。在刻于河南安丰一处石碑上的著名短诗《行色》中,他写道:

冷于陂水淡于秋,远陌初穷到渡头。赖是丹青不能画,画成应遣一生愁。

苏门四学士之一的张耒(1054—1114)曾赞颂这首诗:“诗之工者,写难状之景如在目前,含不尽之意见于言外,此诗有焉。”欧阳修在《六一诗话》中也曾记下好友梅尧臣(1002—1060)对此诗的评价,两者大意相同。(2)显然,宋代的大部分学者都认为,视觉艺术的局限主要在于它无法表达“言外之意”。这种“艺术无法超越语言”的观念以一种独特而有限的方式预示出后现代主义的重要理论——视觉体验与语言密不可分。欧阳修(1007-1072)和王安石(1021-1086)都认为,诗的某些意境很难与感官中“有形”的感受相连,例如“荒寒”,它显然用文字表达更为恰当,即便是当时最好的画家也难以用绘画捕捉这一意境所唤起的情感。
此时正值一场风暴的前夕,这是一场席卷11世纪政坛的变法风暴,此时也是意识形态停滞的时刻。就在那场变法来临之前,文人间弥漫着一种情绪,他们对北宋仁宗、英宗时期的画院画家感到失望,进而产生对视觉艺术超越表象的渴望,正如欧阳修《鉴画》一文中所说:“萧条淡泊,此难画之意,画者得之,览者未必识也。故飞走迟速,意浅之物易见,而闲和严静,趣远之心难形。若乃高下向背,远近重复,此画工之艺尔,非精鉴者之事也。”欧阳修与王安石都认识到视觉艺术的局限,又或许他们都预见到未来文人画将蔚然成风。果不其然,在那场变法之后,文人画真的来了。它完美融合了现实山水与“内在”山水,成为视觉艺术超越表象的终极答案。


“如画”(Picture-like)的概念

如果要定义“如画”(picture-like或picturesque)这一概念,不免要考虑来自历史、地域、文化等不同领域的影响,因为这一概念本身来自社会,它受传统的主导,受种族与阶级的影响,受神话与大众文化的影响,最终则取决于每个人的主观判断。更关键的是,“像画一样”后来普遍被人们用于评价外在之美。在任何社会中,这都是一种“偏见”。
在中国文学中,“如画”作为词汇使用的发端早于东汉(前25220)。此后随时间推移,它的字面意义与内在含义逐渐变化。如果回溯“如画”在东汉至魏晋之间的语义演变,可知它最初仅用于形容人之美,而后才用于形容自然之美。因此,“如画”(picture-like)概念的发展规律几乎完全照应中国画的发展——人物在前,山水在后。根据已知史料,它最早出现在公元1世纪的《东观汉记》中,用于歌颂勇士马援(前14—49)。由此直至南朝,“眉目如画”似乎只用于男性之美,与之后称赞周ム(约730-790)、周文矩(活跃于950-975)笔下仕女时所用的“眉目如画”极为不同。在唐以前,人们听到“如画”一词,脑海中浮现的是孔武有力、满面虬髯的武士形象,例如汉墓或六朝墓壁上瞋目的孟品(图1)、《水经注》中拒人的海神、晋代傅咸(239-294)《画像赋》中刺虎的卞庄子)、敦煌民间传说中的缉捕像,以及洛阳望都“二桃杀三士”壁画中的勇士。而在这之间,迄今为止无论诗画,最动人最具代表性的死士形象,还属怒发冲冠,刺杀秦王的荆轲(图2):
此地别燕丹,壮士发冲冠。昔时人已没,今日水犹寒。[19]

在初唐诗人骆宾王的这首诗中,荆轲怒发冲冠的形象源自司马迁的《史记》,其中记载了太子丹与仆人身着白衣,在易水为荆轲送别的情形:

至易水之上,既祖,取道,高渐离击筑,荆轲和而歌,为变徵之声,士皆垂泪涕泣。又前而为歌曰:“风萧萧兮易水寒,壮士一去兮不复还!”复为羽声伉慨。士皆瞋目,发尽上指冠。于是荆轲就车而去,终已不顾。

荆轲怒发冲冠的形象还出现在山东武梁祠的汉代石像上,它不仅象征着英雄主义与勇气,还特意以悲伤的白色纪念荆轲的殉难。这白色后来成为宋代诗人辛弃疾(1140—1207)笔下的“满座衣冠似雪”(21,并以视觉触动听觉,引发悲伤的变徵之声,继而激起悲声慷慨。
晋朝自元嘉元年(307)至建武二年(318)年间南迁后,北方人民接触到了南方吴越与楚地的浪漫主义文化,外在美的理想自此发生了微妙转变。屈原(约前343—前278)在《离骚》中写道,“纷吾既有此内美兮,又重之以修能”。汉末孔武有力,无所畏惧的勇士们已为陈迹,取而代之的是衣着优雅,出身高贵的士大夫。他们格外在意举止与仪表。六朝社会由名声显赫的门阀主持,他们几乎垄断了儒学的传承,社会政治由世袭延续。在曹魏时期,选拔官吏主要依据九品中正制,需由地方官员举荐,选拔标准以家族背景与公众形象为首。门阀孕育了当时的文化,出身低微的寒门子弟难以得到晋升,所以六朝成为了个人主义的时代,人的个性远远高于他的实质。每个人都以仪表、举止、谈吐判断对方的成就。刘邵(活跃于196-219)的《人物志》一书大概是第一部将内心与外表相联系的心理学著作。(22)另一部谈论容貌与仪表的理论著作是徐干(约171一约218)的《中论》,其中强调仪表的重要,它既是一个人社会地位的象征,也是性情与道コ的凭证。(3)在诗歌中,无论是宫体诗还是流行于江东的民歌,都对香水、胭脂、首饰、头饰等私人物品格外在意。刘义庆(403-444)所著的笔记小说《世说新语》中有一篇《容止》(2)专门评论人的仪容和举止。古代著名的美男子如潘岳(247-300)与卫玠(286-312)[26]甚至建立了一套全新的男性美标准,它与汉代的疏野豪放的审美截然不同。据说当他们上街时,慕名围观的女性甚至多到阻塞交通。


山水画中的“如画”(Picture-like)

由于“如画”(picture-like)最初作为文学概念被创造,所以当山水画诞生后,观者与画家都没有将它与山水画相联系。直到北宋初年,“如画”(picture-like)开始被用于形容自然之美,自此对山水画的发展产生影响。据我所知,最早提出“江山如画”的诗人是孙浩然(约活跃于1070),他的名气不大,写过怀念六朝古都南京的名词《离亭燕》,首句为“一带江山如画”。“从南宋学者楼钥(1137—1213)的文集《攻媿集》得知,苏轼好友、北宋著名山水画家王诜(活跃于1069—1110)绘有《江山秋晚图》,其画意(picture-idea)正源于这首《离亭燕》。北宋元丰五年(1082)年,苏轼写下千古名篇《念奴娇·赤壁怀古》,词中同样用到“江山如一词(2),想必在他的脑海里,不仅浮现出好友王诜的画卷,还有《离亭燕》中“如画”般的金陵风光。那么我们不禁要问:为何在众多古都之中,宋代诗人与画家偏爱以南京作为“如画”(picture-like)在山水中的代表呢?答案是:长江扮演了至关重要的角色。作为一条承载了浪漫历史的伟大江流,众多英雄人物和他们的事迹于此留下深刻记忆。在形象与文字的姻缘间,在自然与人的结合间,在时空的跨越间、在今昔的交融间,怀古之情终被唤醒。这是怀古诗的传统,唐宋时期的许多诗人都擅长于此,例如杜甫、刘禹锡(772-842)、王安石(1021-1086)、周邦彦(1056—1121)以及辛弃疾(1140—1207)。


怀古诗

自然万物的无常凝聚在山水形象中,成为一种浪漫的范式,总能唤起人们的怀古之情。于如画江山背后发现美与哀,从来是怀古诗的内核。这类诗歌的基调是将时间的崇高与人生的苦短形成对比。在能吞噬一切的时间面前,个人的意义显得如此渺小,不值一提。在西方文化中,“崇高”作为美学概念,它的意象几乎全部来自于空间。相比之下,中国人对时间表现出更多的敬畏。如果说中国古人对自然怀有一种钟情且畏惧的情感,其中大部分源于人们对岁月不复返的无奈,连圣人孔子在看到流水时都不得不承认:“逝者如斯夫,不舍昼夜。”历史只会发生一次,怀古诗之所以在唐宋两代流行,很可能是出于人类普遍的一种愿望:留下关于逝去事物的记忆,例如一去不返的荆轲。
怀古诗的一大特点在于借古喻今,古今之间常用拟人手法表现,通过诗人的主观经验来感受诗人自我投射于古今之间的每个瞬间。与同样以历史作为指引的咏史诗不同,怀古诗的本质是抒发自己的感情,而非讽刺或者说教。用古话来说,怀古诗重在“古今浇灌胸次”。人往往能在历史的镜子中照见自己,通过陌生的倒影重新发现自我。由此人们不禁怀疑,怀古诗中或许存在某些自恋之处。
乔治·库布勒曾不止一次类比历史写作与绘画。31两者都在创作中依赖主观感受、直觉判断与选择性描述,同时取决于多种手法、传统与形象的运用。这完美地说明了怀古诗与怀古画的特点。以文学形象唤起绘画意象的关键在于约定俗成,即在特定时间内被普遍接受的文化习俗。这类意象通常来自某些与历史相关的诗词歌赋。自7世纪起,南昌的滕王阁便因初唐诗人王勃(650-676)“落霞与孤鹜齐飞”之句名垂千古,句中意象历来被用于暗喻有志之士不可预知的命运。32另一个无人不知的意象是“灞桥柳”,即长安城外灞桥边随风飘扬的柳树,它最早见于王维的《送元二使安西》,后来成为离愁的象征。由此可见,一旦这些文学形象成为约定俗成的意象,那么只要运用合理,即便仅仅通过一个名字,也能立刻引起不可抗拒的共情,进而戏剧性地将时间与空间合二为一。


视觉意象与听觉意象

在古代中国,没有任何意象会比六朝诗画中理想化的“江南”更令人魂牵梦萦,能与之媲美的恐怕只有19世纪浪漫主义者理想中的意大利。倘若《米农之歌》(SongofMignon)能唤起意大利南部柠檬树的芬芳,那么提到“江南”,大多数文人的脑海中便会立即浮现起一幅人间天堂的画卷。这幅画卷中动人的声色被北方诗人韦庄(约836-910)生动地记录下来(34),又被查士标(1615-1698)描绘在册页中,这套册页现藏于美国克利夫兰艺术博物馆(图3)。韦庄《菩萨蛮》云:

春水碧于天,画船听雨眠。

“江南”这一文学意象始终以声音和色彩的纵横交错为特点。在韦庄和温庭筠(约812—约870)等晚唐诗人的妙笔下,“江南”展现出令人眼花缭乱的斑斓画面,他们层层叠叠的隐喻中弥漫着对于秋暮、雨夜等意象的怀旧情思。不同感受(色彩与声音、阴影与香味等)之间微妙的平衡也反映出唐代诗人对对仗这一形式的追求。对仗不仅仅是骈文与律诗的特征,它更是直接从阴阳二元思想演变而来的特殊形式。根据张东荪的研究,阴阳学说完美阐释了中国传统的“两元相关律名学”。从历史上看,唐代文学中声音与色彩的“对位”[36]继承自统一了南北朝诸国的隋代。它们作为一种二元论,形成时期大约可以追溯至初唐龙朔年间(661-663)。在某个清晨,天尚未破晓,唐高宗(649-683年在位)的宰相上官仪(608665)提灯散步于洛河。在等待上朝的时光中,他为后世留下一联名句:

鹊飞山月曙,蝉噪野风秋。[37]

句中描绘了初秋的清晨,透过声音与色彩的相互交织,使人感到黎明前的喧嚣与新一天的律动。诗的结构难以翻译,因为“曙”与“秋”作为两个最关键的字眼,既能用作名词也能用作动词。晨光中落下的山月惊飞鹊鸟;知了唱响夏日终曲,秋风渐起,为原野带来寒意。句中色彩与声音的关系相互竞争,同时又相辅相成。从骆宾王(约626—约687)的“玄鬓影”到李商隐(约813—约858)的“一树碧无情”[40],蝉鸣回荡整个唐朝,一直到宋初西昆诗派之后,蝉鸣终成绝唱。
两种感官之间的对称关系在六朝以前并不常见。从《诗经》《楚辞》到汉赋,视觉意象通常作为一种强诗意的手法:

昔我往矣,杨柳依依。今我来思,雨雪霏霏。[41]

在这首《诗经》名篇中,今昔之情被简洁的文字表述出来。通过简单的对比,四季变迁、爱情或友情的反复无常、生活的失落悲伤统统用纯粹视觉的方式予以暗示,将天气予人的情绪融入色彩之中。春日嫩绿的温柔与冬天灰白的冷漠间形成鲜明对比。而后微微的晨风似乎轻拂杨柳,冰冷的雨滴如同打在脸上,它们则是由视觉引发的触感,不一定在诗中表现。从古代到近代,这都是中国诗人最惯用的手法。晚清诗人中,龚自珍(1792-1841)是最具影响力的一位,同时也是最后一位因为视觉敏锐而为人称道的“意象大师”,以下诗句是一个著名例证:

叱起海红帘底月,四厢花影怒于潮。[42]

在怒喝中升起的月亮,在狂潮中激荡的花影,它们当然只是幻觉,是诗兴到达高潮时的产物。这种对视觉意象的大胆运用,在唐以后的画论、诗论中一直被视作重要的法则,用以归类“画意”(picture-idea),因为它能直接导致“情景双生”的美学体验。
然而就在同一时期,王维等人开创了一种更为复杂的技巧,将不同的感官与不同的情感相对。在这类作品中,一种感受能够瞬间转化为另一种感受。如皇甫松《梦江南》,相较同时代的诗人(晚唐五代),他的手法更为显著:

兰烬落,屏上暗红蕉。
闲梦江南梅熟日,夜船吹笛雨潇潇。人语驿边桥。

烛火熄灭、灰烬落下,红屏上江南生动的形象逐渐褪去,转而步入由声音编织的梦境——吹笛之声、潇潇雨声,以及静夜桥头离人的低语。这场动人的幻景与其说是再现视觉所见,不如说是一个有意唤起的闲梦。不知不觉中,色彩变成了声音。视觉与听觉间可以将感受互相转化,这点为艺术,尤其是诗歌带来了无限可能。
而李白(701-762)的诗句则能够证明这种可能性之中细微的差异:

黄鹤楼中吹玉笛,江城五月落梅花。[43]

从诗句的表面分析,此处所用手法与《梦江南》大致相同,不过是声音与色彩的相互作用:在笛声中向往随黄鹤飞去的过往;正值初夏,地上却落满了梅花。写这首诗时,诗人客居武昌(唐乾元元年[758]),梅花似乎违反了季节的规律,但读到“江城五月落梅花”时,任何一位中国读者都将联想起“梅花三弄”,至于从梅花是否真的能够联想起笛声与过往,则不那么确定了。近年因人们呼吁而重修的黄鹤楼是中国最著名的地标建筑之一。它的建造背后并非历史原因,而纯粹出于人们的热爱。人们热爱从崔颢(704-754)至李白以来的诗歌传统。在李白的诗句中,想象与现实没有边际,时间与空间、视觉与听觉间的关系也颇为模糊,正是这些为自由解读诗句提供了可能。
细微体察诗歌的主题或其中的“画意”(picture-idea)十分重要,北宋画院的定期选拔中即鼓励画院学生作这种深入的体察,一个绝好的例子来自无可禅师:

听雨寒更尽,开门落叶深。[44]

诗句中,静夜的雨来自听觉,属于时间;门外的落叶来自视觉,属于空间。听到夜雨而看见落叶,此时想象与现实同在,形成一幅幅连续的画面。这种连续性与20世纪的理论不谋而合:在作为具象再现的空间感知中,时间必须参与其中。(45)
不过,一些现代实验心理学家提出与主流观点相反的看法,他们认为听觉形成的意象其实并不比“遗觉表象”(46)(Eideticimagery)罕见。对情绪化或沉思性的“观照”而言,“心灵之耳”听到的声音通常更刻意更直接,也更真实。正如此前所说,听觉意象的出现往往伴随视觉意象。而两者之中,前者似乎更直接地影响了潜意识,也更容易深入于抽象或超验的世界。早在4世纪,中国僧人已深谙此理。《维摩诘经》[47]中曾专门探讨声音(连同口语和书面文字)在佛教宗教实践中的重要性。宋神宗(1067—1085年在位)时期的政治家王安石(1021-1086)就相关问题写过一首诗:

长以声音为佛事,野风萧飒水潺湲。[48]

诗句中,佛法的真谛可以通过聆听旷野的狂风、潺湲的溪流参悟。佛教的逻辑明确区分了两种现实:一种是终极现实或绝对现实,即法身;另一种,用菲尔多尔·舍尔巴茨基的话来说,是“反映在客观形象中的条件现实或经验现实。”(教义“万法唯识”概括了唯识论中关于认知与知识本质的精髓。在中国文学中,黄庭坚(1045-1105)对这一教义的解读最具启发性,这首诗写在北宋崇宁元年(1102),他被贬广西宜州时:

山随宴坐画图出,水作夜窗风雨来。[50]

13世纪的评论家方回(1227—1305)在其颇具影响力的律诗选《瀛奎律髓》中称赞此诗绝妙非凡。然而方回并没有明确指出,句中山的形象与风雨之声只是想象,通过虚实相生、动静结合的方式呈现。几乎所有宋代以后的文学评论家,包括方回在内,都误将“宴坐”理解为“静坐”,从而丧失了这个词的特殊含义。其实在诗的后两句“观水观山皆得妙,更将何物污灵台”中,黄庭坚已经对“宴坐”的真正含义加以解释。


佛教与道教修行中的知觉内化

“宴坐”是一个佛教用语。[52]早期巴利语佛典的中译本中,它用作名词patisallana,而在大乘佛教梵文佛典的中译本中,它用作pratisamlayana。高崎正越于1975年发表过两篇相关论文,通过对比不同文本中出现的“宴坐”,包括《法华经》的不同中译本,成功顺理出“宴坐”一词的词义演变轨迹。”他得出“宴坐”是“坐禅”的另一种翻译。在王安石退居金陵后所作的《读维摩经有感》中,也能找到“宴坐”一词:

身如泡沫亦如风,刀割香涂共一空。宴坐世间观此理,维摩虽病有神通。[54]

在宋代,“宴坐”是道家常用术语,虽然坐姿似乎早已偏离了正统佛教的“宴坐”。但作为艺术创作前的重要环节,宴坐或坐禅在唐宋诗人与画家中被广泛接受。“宴坐”一词也反复出现在李白、白居易(772-846)等大诗人的作品中。其中李白在庐山东林寺夜宿的一段经历最为有趣:

天香生虚空,天乐鸣不歇。宴坐寂不动,大千入毫发。[55]

寂静不动之中大千显现,是广为引用的思想,来自《楞严经》:

于一毛端,遍能含受十方国土。[56]

对唯心主义者而言,所有物象只是心灵的投射,而最纯粹的山水意象并非人为设计,它源自物我两忘的冥想状态。晋代顾恺之《画云台山记》,与其说是在谈论山本身,不如说是在描绘山的意象如何透过王长与赵升的开悟形成,这两位同为道教祖师张道陵(公元前1世纪)的得意门生。571
回到黄庭坚的诗中,幻山幻雨皆为心灵映照。虽然现代心理学认为听觉能引起更直接更强烈的意象,但黄庭坚诗中各感官间却并没有明显的分别。罗兰·巴特写过一篇《倾听》(Listening)58,文章开头说“听觉(Hearing)是一种生理现象,倾听(Listening)则是一种心理行为”,而后对三种倾听进行分类,分别为意识(alert)、破译(deciphering)与说明(signifying)。关于最后一种“说明”,他说:“这种倾听应该在一个主体间性的空间里发生,此处‘我在听,同时也意味着“听我说。”这一观点与宋代诗词有所共鸣,黄庭坚听到潺潺水声时,以为听到了风雨之声,其实是他在听自己的心声。他努力想要达到陆机《文赋》中描述的写作最高境界,作为其中的第一步,心灵透过内化知觉,从外部的刺激中解脱而出[60],这被形容为“收视反听”(6)在东汉早期道教中,相似的“反观内照”已是《太平经》反复强调的重要概念。道家和儒家似乎都认为,知觉内化是抵达物我两忘之境的唯一途径。历史上仅有极少数大诗人真正到达了这个境界,其中之一便是东晋诗人陶渊明(约365-427)。
从某种意义上说,符号学家强调物我之间存在主体间关系,拒绝语言之外的视觉以及纯粹形式主义的视觉艺术,实则是对于中国怀古诗中一些基本原则的重申。怀古诗中表现出的个人情感,往往源自一个根植于集体文化记忆中的文学形象。它的前提在于历史背景与个人经历之间相互呼应。在最好的例子中,历史的隐喻与当下的“如画”(picture-like)彼此交融,不仅体现在情绪、氛围的营造,也体现在交融的方式与呈现的形式。据仰慕王维的王士祯(1634—1711)所说,王维诗歌最显著的特点在于他具备一种能力:将视觉意象转换为名称、标题以及其他一些看似无关紧要的语言符号,同时却不失其原有的联想。[62]


视觉意象的语言及文化转换

我曾在一篇探讨董其昌的文章中讨论过文学中的一个奇特现象:诗人会将一些看似无关的地名或人名作为意象运用:

通过音韵来将地名和人名组织成诗句,是诗歌意象中搏Y色彩和意境的常用手段。晚明诗人、画家程嘉燧(1565-1643)的一句诗就是这方面的典型例子:“瓜步江空微有树,秣陵天远不宜秋。”此句将这两个看似全然无关的地名放在一起,与在绘画中细心排布“画眼”有相似之处。在李攀龙看来,(此)是三昧语,最要顿悟。”[63]

以有力的词语刺激视觉想象,是这类“顿悟”的关键所在。古都南京为怀古诗留下了丰厚的遗产,王士祯就曾在诗中反复运用南京有关的意象,如“白下门”“秣陵舟”等,例如使他一举成名的律诗《秋柳》和怀念秦淮河的绝句《秦淮杂诗》。(64)回到程嘉燧的诗,其中“如画”(picture-like)的对象是“秣陵秋”。“秣陵”一词本身就足以让有学识的读者在情感与想象中同长江岸边待渡的旅人产生共鸣,默然回忆周邦彦的《西河》或辛弃疾的《永遇乐》(65),为之深深感动。他们的心中想必充满感情,交织于所有埋葬在秣陵青山的悲欢离合。当然,此中来自诗人的多愁善感,在外行人看来绝对难以体会。
与此同时,意象也可能完整地传入其他文化,但它本身的隐喻与寓意会随不同文化发生天翻地覆的转变。例如日本江户时期(1615—1867)最富盛名的文人画大师与谢芜村(1716—1783)曾画过一幅名作,被日本学者视作淀川风景的写实记录,这对梳理画家的绘画生涯意义重大。这幅作品被命名为《柳阴下的归途》。(图4)这个命名在中国观众看来颇为奇怪,对他们而言,画作的主题已被题写在与谢芜村的自跋之中,那是一首晚唐诗人韦庄的怀古诗,正与南京相关。”画名本应为《台城烟柳》,尽管它们被日本极具装饰性的风格与梦幻般的色彩演绎,但它依然是典型的中国文学形象,与谢芜村的初衷在此无疑被曲解了。
上述案例表明,一个文学传统中约定俗成的“如画”(picture-like)意象是如何在另一个文化中遭到曲解乃至消失的。在文化的传播与转化中,外来文学符号常常被赋予新的含义。以中国文学、绘画中古老的元素“骷髅”为例,它被普遍视作人生短暂且虚幻的隐喻。现藏于故宫博物院的《骷髅幻戏图》(图5),由南宋宫廷画师李嵩(活跃于1190—1230)绘制,画中骷髅木偶与观众(母亲怀中吃奶的婴儿、怀着好奇爬向木偶的孩童)之间的互动暗示了这种隐喻。对页的题诗则更从佛家的厌世角度出发,为画面搏Y一丝愤世嫉俗的诙谐色彩。这首元代散曲本由大画家黄公望于暮年(1354)所作:

没半点皮和肉,有一担苦和愁。傀儡儿还将丝线抽,寻一个小样子把冤家逗。识破也羞那不羞?呆!你兀自五里巴堠。

在日本,“傀儡”一词最初意味着某种起源自中国的戏剧传统(68),江户时期则代指红灯区的艺妓(69)。这种用法很可能源自中国。在唐人段成式(约803—863)的志怪小说《酉阳杂俎》中,有一则发生在唐代大臣姜(卒于722)身上的异事。[70]作为京兆尹的贵宾,姜皎经常前往禅定寺参加宴席。在一次晚宴上,姜皎倾倒于一名姿色艳丽的歌姬。然而无论斟酒还是整理发饰,歌姬始终将手藏在袖中不予示人。众人很疑惑,同桌一位酒客调侃:“难不成你有六指?”说罢乘着酒劲抓起女子的手。当她的衣袖落下时,酒客吓得魂飞魄散,他看到的不是一只人手,而是粼粼白骨。
纵然江户时期的世俗文化被形容为“浮世”,但它还是以某种方式让人想到艺妓傀儡那涂着厚粉的脸上伪装出的假笑(图6)。倘若这幅画面中含有“如画”(picture-like)性,那一定是颇具破坏性的。在中国艺术中,似乎找不到英国画家奥布里·比亚兹莱(1872-1898)笔下《莎乐美》的颓废之美。即便在李贺(约791-约817)之诗、罗聘(1733—1799)之画中,也绝没有日本画家歌川丰国(1769-1825)、月冈芳年(1839—1892)那阴郁色调下有关腐朽与死亡的趣味。
日本传统文化中独有的武士(殉道)精神更是一种美与死亡的结合。当具有教化功能的骷髅形象从中国传入日本,并与佛教故事中一些怪诞K暗的元素相融合时,好比中世纪的残破废墟与月光下沼地升起的蒸汽。至此,人们似乎突然明白了伊藤若冲(1716—1800)《一个躺在草丛中的骷髅》(图7)背后的含义。一些观点认为,伊藤若冲这幅画是为上田秋成(1734—1809)《雨月物语》中《青头巾》一文所作的插图。《青头巾》的大意是一位深居山中的和尚收养了一名美少年,并将其视为掌上明珠。美少年不幸病死,和尚发了疯,变成了山鬼,并经常袭击附近村民。一位禅师得知此事,便向他传授玄觉禅师的两句《永嘉禅师证道歌》。最终,疯和尚通过反复吟诵那两句《永嘉证道歌》得到了解脫:

江月照,松风吹。永夜清霄何所为。[72]

只有破除幻想,才能得到解脱,疯和尚悟出此理后,终于克服了对邪念的执着,“鬼魂瞬间消失,惟有那方青头巾与白骨残留在原野上。”
在《雨月物语》中,肉身是解脱的障碍,最终与魂魄分离的骷髅不仅象征着救赎,更是救赎本身,涅槃是终极的胜利。这些中国与日本的意象有一个共同的图像学起源——“释迦八相”之一“降魔变”。其中讲到,那些试图色诱释迦牟尼打坐的天魔之女由于内心的恐惧,最后都化为骷髅。由此而言,骷髅既是幻觉也是真实,这完全取决于作者想要通过它表达什么。日本作家夏目漱石(1867—1916)也曾在一首诗中描述过自己独特的体验——在梦中变成骷髅。他将这种感觉比作在一个寒冷的夜晚,躺在一张令人毛骨悚然的石床上,四周被冷雾笼罩。这一卡夫卡式的变形过于残酷且真实,想必是唐宋时期的中国文人绝对无法理解的。


文化差异与趋同中的视觉图像

很多时候,一幅能够称之为“如画”(picture-like)的图像,不仅在一个文化传统下被解读,也像经过分光镜一样,在不同的文化传统中被分解出不同的文化意义。例如6世纪的鲜卑部族——鞑靼族写下的传唱千古民歌的《敕勒歌》,“天苍苍,野茫茫,风吹草低见牛羊”,这样的画面一定深具“如画”(picture-like)性。(75)作为内蒙古草原有史以来最动人的文字,因为不同的原因,这首广为流传的民歌在长城内外有不同的解读。据《北齐书》记载,这首歌最早记录于东魏武定四年(546),距敕勒民族由家乡贝加尔湖南迁徙至内蒙古阴山山脚已逾一二十年,歌中充满了游牧民族对家乡草原的美好回忆。位于内蒙古东部庆陵的圣宗(983-1031年在位)墓内,描绘游牧民族行营捺钵的壁画证明了这种“春水秋山”(图8)之景在部落贵族心中是多么珍重,他们是那么向往此景,以至于要将其带往死后的世界。[76]
不过,编撰《乐府诗集》的宋代学者郭茂倩(1041—1099)指出,早在北齐,当鲜卑族唱响《敕勒歌》时,这首民歌已经从游牧民族的原始语言译成汉语。这使得视觉图像的意义因文化传统的不同,不可避免地发生渐变,最终截然不同。同样的主题,例如猎捕水禽的牧场或沼泽曾作为部落符号出现在辽墓壁画中,而到了长城的另一侧则将它们作为背景,描绘记录游牧民族的生活,例如《胡笳十八拍图》(图9)。(7)后来的艺术史学者将这类表现塞外主题的绘画单独归为“蕃马”科。但另一方面,当这类意象频繁现身盛唐诗人高适(704-765)、岑参(约718-约770)等人的边塞诗中时,它们的基调糅合了诗人的政治生涯与个人经历,从而脱离最初的意义——展现原始草原的辽阔与质朴。
尽管如此,作为文化符号的《敕勒歌》继续在宋画和宋诗中出现,其中最富盛名的大概是李公麟(1049—1106)绘于元祐二年(1087)的《阳关图》。画卷内容来自相传为王维所作的古琴曲《阳关三叠》,自此曲被谱写以来,阳关便一直作为塞内文明的最后一站。78I一旦踏入“塞外”,便意味着永远离开了文明世界(化外)。(791卷后黄庭坚的题画诗写道:

断肠声里无形影,画出无声亦断肠。想得阳关更无语,北风低草见牛羊。

很明显,诗中最后一句借用了《敕勒歌》。在黄庭坚看来,没有“形影”的琴曲《阳关三叠》与“无声”的绘画《阳关图》都会使观者感到断肠般的哀伤。从时间艺术(琴曲)转化为空间艺术(绘画),两者之间的强烈冲击触动了黄庭坚,但就在这个关口,他诗情一转,将对离别的悲伤之情恍然升华至草原的无垠,从而淡化了时间与空间的冲突。
文化的移植与同化往往也意味着通过“视野融合”,这是民族、社会对自己进行不断自我认同、重审与改进的过程。在辽宁省叶茂台一座10世纪辽墓中(7号墓)出土了一对画轴,两轴风格与主题截然不同。(8)其中一幅名为《竹雀双兔图》(图10),画面左右对称的构图来源于唐代金银缂丝织品中流行的道教符号。这幅花鸟所体现出的绘画风格在北宋早已过时,取而代之的是边鸾(活跃于785-802)开创的折枝花鸟,但北方的契丹艺术家们依然忠实地沿用这种程式。
另一幅画名为《深山会棋图》(图1),画面带有宋初地域性画风,显然出自李成(919-967)的传派,同时富有浓厚的道教色彩。这幅画实则是一幅风俗画,真正的主题在描绘道教三十六洞天之一。辽代山水的“洞天”符号与榆林窟3号窟西夏壁画《文殊菩萨变相》(图12)很相似。画中的视觉元素,例如断崖、石窟、松林等不但在风格手法上颇具可比性,连山石的皴法也很相似。由此可以作出假设:在宋代,无论地处南北,绘画风格有一个共同的起源。从敦煌到喀喇浩特(821,再到辽东半岛,道教仙山的图像符号竟然能够渗入游牧民族的佛教世界,这似乎证明视觉图像可以克服语言与意识形态的障碍。这种现象也在边境少数民族的汉化历史中不断出现。
在个别极端情况下,人们理想中的自然之美在发生变化时,甚至会影响到历史进程。公元1125年,女真人灭过建立金朝。令人惊讶的是,仅仅在与汉族文化接触几十年间,这个游牧民族的审美趣味就发生了根本的转变:北方湿地中的大雁与海东青不见了,换之以中国南方的青山绿水。公元1161年,与南宋王朝和平度过二十年后,当时金朝的皇帝完颜亮(1149—1161年在位)突然起兵伐宋,御驾亲征,想要攻占南宋都城杭州。据当时广为流传的说法,完颜亮南伐真正的动机是对杭州城的迷恋,他醉心于柳永《望湖潮》中描绘的杭州(图13)。(83)这点在罗大经(1196—1252后)《鹤林玉露》等宋代笔记中都有所记载。另有传言,完颜亮曾秘密遣使南下描绘柳永诗意中的西湖。虽然这次伐宋因完颜亮的暴毙而中止,但它带来了灾难性的破坏。13世纪诗人谢处厚写诗记述了这一悲剧:

谁把杭州曲子讴,荷花十里桂三秋。那知卉木无情物,牵动长江万里愁。[84]

这些传闻到底有多少可信之处,我们不得而知。但这首诗在后世的通俗文学与民间艺术中一直流传。事实上,其中最有趣的问题在于诗画中的西湖究竟有怎样不可抗拒的“如画”(picture-like)性,竟能如此诱惑这位金代皇帝?这一时期是中国艺术史上的一个分水岭,正值两大绘画流派各自朝不同的方向发展。一边是苏轼于半个世纪前提出的“诗画一体”——与诗一样,画也是作者的自我表达,“文人以书画自娱”的观点甚至被《宣和画谱》采纳,作为艺术批评与鉴赏的基本前提。另一边,南宋宫廷画家正在积极探索并巩固新的表现方式,从中体现出与北宋截然不同的审美价值。他们聚焦于空间的虚实,注重氛围与光影交织产生的阴阳。这种风格后来被称为“南宋院体”。事实上,无论画院内还是画院外,自文学概念成为“画意”(picture-idea)共同的源头以来,许多院体画的意象都能在当时的诗歌中找到。那么问题又来了,在一幅12世纪的山水画中,最能被广泛识别的“如画”(picture-like)性究竟是什么?是什么能够令人立即唤起对南宋的记忆,还能反映出北宋崇高山水向南宋的审美转变?
在此必须简要地说明,本文中“如画”(picture-like或picturesque)一词的用法与英国18世纪末的用法不同。后者强调注重画面中的粗糙之处,认为不规则与突变能够丰富画面的审美,这在中国从未出现过。在中国,“如画”(picture-like)既不以废墟与破败的自然风景为审美对象,也不作为追忆逝去过往的挽歌。它是基于文人传统的一种独特品味,因此文士比普通人更易理解。它既不背叛势力阶层,也不反映英国的社会蔑视。在现代评论家眼中,英国的“如画”(picturesque)是乡绅阶层对乡村贫穷与落后美化
的产物。[85]
不同于威廉·吉尔平、乌维代尔·普赖斯爵士和理查コ·奈特,中国学者从未用特定的术语,例如“粗糙”“不规则”来定义“如画”picturesque)。186阿事实上,13世纪画家牧溪和玉涧的山水画中已然不再强调对自然山水的细节刻画,画中山水的形象趋于模糊甚至瓦解,从而展现出朦胧的诗意与微茫的基调。北宋学者蔡肇(卒于1119年)曾写给前辈李公麟一首诗,恳求他在画中为自己的渔船留下位置,以便他在岸边小憩片刻。在诗的起首,蔡肇描绘了一幅图景:

鸿雁归时水拍天,平岗老木尚含烟。[87]

如将“水拍天”与南唐画师徐熙的重要技法“天水通色”相联想,便会发现两者都旨在表现平远之景:要么模糊水与天的分界,要么将地平线抬高至画面之外。(88)这类平远景致在董源的画中亦能窥见,例如《寒林重汀图》(图14)。人们也能在北宋末年著名词人周邦彦的两句诗中,识别出12世纪早期山水画的显著特征:

烟中列岫青无数,雁背夕阳红欲暮。[89]

前一句诗中的色彩与构图使人联想到李唐(约1070-1150)及其传派的画作,后一句诗则更近后一辈画家马麟笔下的细腻与抒情,如日本根津美术馆藏马麟《燕渡夕阳图》(又称《夕阳秋色图》,图15)。
出于好奇,我从12世纪有记载的诗歌中发现了一个小小的绘画元素,它要取自谈论绘画的诗,要么作为一种明确的“如画”(picture-like)元素被作者使用。我将其称为“一抹遥青”,这个词也见于诗中。它之所以使我着迷,是因为它似乎呈现了那个时代的某些特征:粗略的笔触,更亲和的自然观以及表现氛围的新意识。如果将这类诗词按时间顺序排列时,人们会惊讶地发现:从同一套“如画”(picture-like)概念中诞生的绘画与诗歌,两者犹如在平行的轨道上,它们发展的过程高度一致。
举例说明,大约在元丰三年(1080),苏轼的门生秦观(1049-1100)曾路过江苏泗州。这段见闻后来被记录在一系列的诗词中,其中一首写道:

渺渺孤城白水环,轴舻人语夕霏间。
林梢一抹青如画,应是淮流转处山。[90]

事实上,诗中描绘了南宋绘画中惯用一类手法:在远山或岸际加一抹淡淡的青色。更令人意外的是,这种描绘远山的画法在11世纪末就已被运用,这个时间远远早于人们的想象,甚至在徽宗(1100—1126年在位)即位之前。
几十年后的靖康二年(1127),宰相赵鼎(1085—1147)与宋高宗一同逃往南京。渡江前夕,赵鼎在仪真县(今江苏仪征市)看到了与秦观诗中一模一样的画面:

但一抹,寒青有无中,遥山色。[91]

似乎到了这一时期,绘画中的“一抹遥青”已经成为南宋人集体记忆中不可或缺的一部分。因此,实在难以确定发明它的到底是画家还是诗人。
显然,能被人们不断注意到并以相同的模式进行加工的诗歌意象并不多。时代的进步、个人与地域的影响、视觉表现手法的改变都会赋予同一个诗歌意象不同的面貌,从而掩盖它自身的隐喻或抒情内容。这些意象在地理与历史背景下被不断重塑,披露与梳理它们的变化使艺术与思想史的研究更令人信服。例如,唐代道士张志和的《渔歌子》毫无疑问是文学史上最受敬仰的词之一。它曾被无数后世诗人模仿,包括日本嵯峨天皇(809-823年在位),后者的主要贡献是下令编纂了第一本汉诗集《凌云集》。如今,《渔歌子》是小学生的必背诗词:

西塞山前白鹭飞,桃花流水鳜鱼肥。青箬笠,绿蓑衣,斜风细雨不须归。

这些诗句激发苏轼写下“散花洲外片帆微,桃花流水鳜鱼肥”(92),也影响元四家之一的吴镇(1280—1354)写下“红叶村西夕照余,黄芦滩畔月痕初。轻拨掉,且归欤,挂起渔竿不钓鱼”。[93]
美国纽约大都会艺术博物馆收藏有吴镇《芦滩钓艇图》(图16)存世的两个版本之一。画中水墨留下的平和笔触在夕阳斜照下闪烁,其实与张志和的原意相差甚远。对身为唐人的张志和而言,绘画是一种表现主义“行为艺术”,需在鼓笛乐声伴奏下进行。同时代的颜真卿(709—784)与诗僧皎然(720-803)曾亲眼目睹过他作画的场景:一边随着乐声起舞,一边“攒峰若雨纵横扫”,尽情挥洒水墨。这种表现手法后来被称作“泼墨”,是一种颇具革命性和预兆性的创新,最早由颜真卿圈内的隐士画家发明。1957
通过梳理以《渔歌子》为主题的众多变体,可以理出一条有关“渔父”形象及其表现手法的脉络:从8世纪中叶太湖地区的水墨山水运动开始,到苏轼好友驸马王诜,再到元季四家,渔父悠游湖泽的形象为文人的流浪精神提供了依据,所有逃避现实的方式都以这种精神作为核心。渔父主题的本质是自由,所以它也为艺术家在创作中提供了更广阔的空间。然而对于同一题材以不同的手法去创作,最终导致了“雅俗”的问题,带来高雅(士人)与庸俗(俗人)的品位差异。在中国艺术中,一些主题特别呈现出雅、俗的两极分化,例如渔父或雪景。晚唐诗人谷(约851—约910)与明代浙派绘画即可视作雅俗之争的缩影。即便在北宋,也有人因为对“渔父”这一诗画传统的另类解读而备受瞩目。《渔歌子》中“月光河”的意象激发了黄庭坚的灵感,他将湖面荡漾的秋波比少女妩媚的一瞥(“女儿浦口眼波秋”(90);而三十年后,同样的意象又被宋高宗以水中浮云悠哉的倒影(“水底闲云片段飞”(71)用于表达他对隐逸生活的向往。对同一个意象的运用,黄庭坚被好友苏轼加以调侃,而宋高宗却得到恭敬的赞美,不免令读者感到十分困惑。


玄言诗:绘画空间与山水画的崛起

现在我们不妨稍作停顿,回顾一下诗画概念相互融合的历史轨迹,看看我们究竟走了多远。在北宋神宗和徽宗时期,中国画的技巧与理论日渐成熟完善,已然准备好迎接新的历史挑战与抉择。由于文化发展的模式一直受到南北差异影响,从4世纪起,中国画不得不在南北对立中摸索属于自己的道路,例如北方儒家、佛家主导的宫廷、寺院传统与南方道家主导的山林传统之间的对立;又如长安贵族文化与江南朴实的反教条的世俗文化之间的对立。自盛唐之后,丹青与水墨彼此独立发展的情势亟待调和,同时还要面对荆浩(活跃于870-930)指出的问题,“吴道子有笔而无墨,项容有墨而无笔”。直到山水画的大时代到来,在集大成者李成手中,笔与墨、北方浓墨与南方淡墨之间的对立才得以解决。等到北宋末年,经过几个世纪的失败尝试与互相不服,诗与画终于在苏轼的天才理论与实践下达成共识,也正是他提出规范并且人格化了文人对于“三绝”的理想。
山水画最初并没有受到重视,作为意识形态的继子(99),它的地位一度岌岌可危。直到“言”“象”“意”三者之间的关系被真正提出,并且产生剧烈的意识形态冲突之后,山水画终于迎来了曙光。(100)在魏晋哲学中,这三者之间的关系相当重要且核心,它作为玄学中最富盛名的三理之一,曾无数次被魏晋名士激烈讨论。[101]这些争论没有最终的结论,仅是以王弼(226—249)与郭象(约252—312)为代表的流派取得阶段性胜利而告一段落。两人的主要论点如下:其一,语言并不能表达心中所想(言不尽意);其二,一个人既然已经知晓了含义,便无需再明说(得意忘言)。
就此而言,刘宋王朝初年出现纯粹的山水画与玄言诗的衰败密切相关。这一时期,玄言诗开始被山水诗取代,后者更宜于抒发内心世界,因此为人与道的相融提供了更直接的方式。[102]不过从艺术史的角度出发,山水画的诞生与诗意的视觉化是直接相关的,山水画即是将诗意提炼并聚集在一个有限的空间,也就是画面之中。
六朝文人刚刚从汉代儒家的教条主义中解脱,正如嵇康(约223-约262)所说,他们具有强烈的自我意识与超越传统礼法与社会责任的渴望,他们只想回归山水,遵循自然的规律,随之而生的是哲学上趋向孤单与忧郁的消极主义。他们对于传统价值观的否认不可避免地导致了空虚与不安,产生了对桃花源或永生的向往。
就这样,自然成为传统与规则之外获得美与快乐的新源头,然而六朝时期南方的风景却并非总是如想象中那么温和柔美。在首位山水诗人谢灵运(385—433)的年代,山水第一次作为探索与关照的对象时,仍然充满了令人畏惧的崇高与不可预知的危机。与所有乱世一样,那时政治动荡、战乱频发,到处洋溢着紧迫感、危机感以及对精神自由的迫切需求。可能正是源于这种需求,一个辽阔无垠的绘画空间被发现了,这在魏晋时期的中国引起激荡,因为它将人的精神从物质世界中解放出来,进入无边无际的理想世界。
解放的第一步是将诗意无限延伸。传为后汉文学家东方朔(约前154-前93)所作的《宝瓮铭》(实则很可能写于六朝),描绘了独立山巅所见的风景,这大约是中国诗歌首次描绘鸟瞰视角的全景山水:

望三壶如盈尺,视八鸿如萦带。[103]

来到唐代,这类鸟瞰视角继续为诗人带来有关空间的灵感。李白对此尤为钟爱,他在诗中常用“大鹏鸟”这样夸张的意象,而白居易则好在梦中想象自己成为仙人:

半空直下视,人世尘冥冥。
……
东海一片白,列岳五点青。[104]
……

解放的第二步,是使诗意的无限延伸有所界限。换言之,这个无限开放的空间需要以视觉加以限制,重塑成由想象而来的一幅画面。这一步很快被实现,并充分体现在当时的诗歌中。例如,谢灵运在《山居赋》中描述了“罗曾崖于户里,列镜澜于窗前”。[105]1将门户与窗棂作为画框观看山水的做法常见于谢氏作品中,并获得另一位山水诗人谢眺(464-499)的唱和。后者同样为此着迷,写下诸如“窗中列远岫”(106)之句。
一旦文学概念转入绘画,山水就此诞生出新的图像空间。一个人即便在室内“卧游”,也可“披图幽对,坐究四荒”。(107)提出这个理论的宗炳(375-443)称,他可以“竖划三寸,当千仞之高”。(108)因为视觉的自由,想象力不再受到限制,所以无论从什么角度来说,5世纪初中国南方发现的图像空间的重要性都不亚于欧洲文艺复兴时期发明的透视原理。文艺复兴催生了一个文化领域的神话,即欧洲人拥有一种绝对可靠的方式来表现物质世界。东晋与南朝宋初的中国文人则无心再现自然,他们关心的是自身如何与道合一。对他们而言,山水是通往宇宙与心灵的最佳入口,借助山水画的视觉意象,也许可以触及玄言诗通过语言未能触及的境地。[109]
与此相比,早期秦汉叙事画将历史与神话视作墙壁上的装饰来装饰他们的楼阁。六朝山水画则是一种尝试,尝试通过主观创造的绘画空间为理想世界打开一扇窗户。这是山水第一次成为绘画的主题,它被定义、引导并渗透进人的心灵之窗中,这绝非易事。我一直对王维的诗句抱有崇敬之情,将其视作展现动态空间的杰出范例,如“大壑随阶转,群山入户登”。不仅因为王维在诗中将无限的群山包含于有限的想象之中,还通过对自然物象的主观转化,将山脉、丘壑赋予动势,整幅画面给人的印象体现出谢赫六法中的第一法“气韵生动”。于是我惊讶地发现,早在谢灵运的时代,人们对自然无常变幻的体察与在其中投射内心波动的想法已然被实践与欣赏。在早期的山水画与山水诗中,时空变化突然且极端,这很符合当时动荡不安、充满紧迫的时代特征。周亮工在《书影》中对谢灵运的一首山水诗作过有趣的评价,将之概括为四个字——“登山涉水”,诗中云:

朝旦发阳崖,景落憩阴峰。舍舟眺迥渚,停策倚茂松。
侧径既窈窕,环洲亦玲珑。俛视乔木杪,仰聆大壑淙。
……[112]

这首写于南朝宋元嘉二年(425)的诗中,诗人上一秒才攀上山巅,下一秒又落入深谷。空间快速且突兀的变幻——上下、远近——不仅被周亮工和中国批评家所重视,也引起西方文学史家的关注,例如弗朗西斯·韦斯特布鲁克。归根结底,正是对探索的躁动,对超越时空的向往,对“忘言”的憧憬,对“山水以形媚道”或“以一管之笔,拟太虚之体”('')的渴望促成了早期中国山水画的崛起。通过在一张画面中呈现多个视角,例如初唐与盛唐敦煌壁画中所见的那样,并通过“三远”(平远、高远和深远)的并列,构成一个复合的画面,画家借助南朝与初唐诗词中普遍存在的对立与平衡,将两个或多个对立与相对的意象融合为一。
事实上,以上复杂的空间概念源于《楚辞》中的南方传统与早期道家浪漫的天地观。同时从结构与符号的角度而言,类似谢灵运诗中那样突如其来的空间变幻透露出某些古老的意识形态与语言现象,以及对《诗经》“赋比兴”中“兴”的继承,后者也是这种变幻的理论基础。[115]
在《诗经》和《楚辞》中,上下、远近、左右、前后等方位往往是相对的,但相对并不一定意味着矛盾,甚至这些方位本身都并非固定而是相对的,正如汉唐装饰艺术中所见。之所以在《九歌》中,屈原爱用视点的变化叙事。正是由于在充满幻想的巫术世界中,真实与想象、时间与空间并无分明的界限。在西方语言的发展中,许多古老的中性词汇后来被赋予相对的词性。因此,第一位来华的传教士利玛窦(MatteoRicci,1552—1610)在《天主实义》中特别指出,《诗经》名篇《大雅·文王》中“文王陟降,在帝左右”证明了天堂与地狱的存在。''''王国维(1877—1927)等中国学者驳斥了这一解读:“陟降”并非上天堂与下地狱,其中的方向是同时发生还是有所选择完全取决于前后文意的正确理解。这再次表明中国传统两元相关律名学对早期山水空间概念中相对性的影响。
谢灵运《石门新营所住四面高山回溪石濑茂林修竹》一诗荒唐而又绝妙:

早闻夕飙急,晚见朝日暾。[118]

诗中早晚的错乱有两种解读:其一,诗人有意颠倒时序,进而颠倒合理的现实;其二,如另一位评论家所说:“在山中,常识的分别会变得模糊。”无论何种解释都不免让人联系起上海博物馆收藏的《浮玉山居图》,画卷的作者钱选(1239-1299)在其中描绘了脱离时代而富有古意的画面。III)在谢灵运之后,李商隐的《燕台诗四首》中也出现了相似的时间错位,这回发生在城市中:

醉起微阳若初曙,映帘梦断闻残语。[120]

学者叶嘉莹这样解释:日落是现实,拂晓是幻觉;梦醒是现实,残语是幻觉。诗句中,光影在无声无息地运动,犹如错综复杂的马赛克,上面镶嵌着无数视觉与听觉的意象。但这种时间的错乱来自于诗人自己,缺少了谢灵运在自然中的忘我与沉迷。视觉意象的形成总需要时间参与。眼睛在视野中总是从一处看向另一处,犹如一场旅行。因此,视觉意象可以用作衡量时空的工具。中国诗人对季节的变化与时间的流逝向来敏感。整个六朝至唐宋,表达光阴飞逝,人生苦短的伤感中,最常见的意象即是隐现于远山中的夕阳“远峰隐半规”。李商隐的“夕阳无限好,只是近黄昏”中,夕阳不仅意味着一天过去,也意味着天地的尽头。李觏(10091059)在
《乡思》中同样有对时间的观察:

人言落日是天涯,望极天涯不见家。
已恨碧山相阻隔,碧山还被暮云遮。[121]

人人都是过客,夕阳不过是漫漫长夜前的一站。在佛教净土(Sukhavati)信仰中,落日是沉思的对象。日想观更是阿弥陀佛向韦提希夫人建议的十六种观法之一,例如在敦煌莫高窟172号窟的壁画中(图17),落日作为《观经变相》的一部分出现在曼荼罗的左上。[122]盛唐时期,“落日”是常见的主题,不仅是敦煌,日本正仓院收藏的唐代琵琶捍拨(图18)与京都东寺的早期山水屏风中也能见到它的身影。在诗歌中,夕阳是每个人想象的家园;在绘画中,它又是平远山水地平线的消失点,用以连接天地。我曾在《李成与北宋山水画之主流(上)——李成略传》一文中讨论过绘画中“平远法”背后的儒家影响。在融合了高度与深度,中和了时间与空间的平远山水中,流露出儒家“和”的美学理想。它暗示观者在无边无际的空间中享受宁静,在其中与自己、与宇宙和谐共处,这与道家所追求的“高远”带来的浪漫与戏剧性正好相反。[123]


感官的融合

在大乘佛教尚未传入中国时,中国人已然清晰地意识到不同感官的融合能在文学中带来非凡效果。东汉马融(79-166)大概是最早以视觉描述音乐的人。在《长笛赋》中,他写道:“尔乃听声类形,状似流水,又象飞鸿。”[124]飞鸿是早期中国诗人特别钟情的对象。竹林七贤之首嵇康曾为奔赴沙场的兄长写下组诗十五首,其中最著名的一首,嵇康塑造了一个优雅的士人,一边弹奏琵琶,一边以自由的姿态观照天空。[125]顾恺之后来读到嵇康的诗句,他被深深地感动,写下著名的画论:“手挥五弦易,目送归鸿难。”[126]“目送归鸿”之所以难,难在一个“送”字。“目送”的过程是由无数画面组成的动态场景。描绘这样的场景,需要画家超凡的想象与画技,即便对后来宣和画院的画家们而言也相当困难,在顾恺之所处东晋当然更加难以实现。尽管困难,但在接下来的几个世纪里,仍有许多诗人不懈挑战。例如唐代诗人钱起(约722-780),他以飞鸟远去的意象,想要唤起晚风中的钟声。

欲知声尽处,鸟灭寥天远。[127]

钱起融合视觉与声音的尝试不及之后的杜牧(803-852),后者用飞鸟影射遑遑不可终止的时间:“长空淡淡孤鸟没,万古销沉向此中。”[128]在杜牧的诗句中,“长空”如同时间的洪流,像是前文提到的落日,是一天的结束、天地的尽头。佛教徒坚信感官之间相互可以作用(六根互用)。“以耳见色、以眼听声”是菩萨、罗汉甚至普通修行者都具备的潜在本能。这也是《妙法莲华经》中《法师功コ品》的论述核心。[129]其他的佛教典籍,例如《大般涅槃经》和《佛说首楞严经》中也阐明了相似论点,想必唐宋时期众多信仰佛教的学者都深谙此道。
但即便如此,这也并不妨碍晚明文人张岱(1597—约1689)对苏轼诗画理论的质疑,他的依据来自王维诗:

山路元无雨,空翠湿人衣。

如果不描绘雨和水气,人们能不能感到湿润?清初评论家叶燮(1627-1703)认为可以,他在《原诗》中引用杜甫的一句诗“晨钟云外湿”为证。1300钟声是声音,如何使人感到湿润?一些人认为这是一处文本错误。叶燮却说,“隔云见钟,声中闻湿,妙悟天开,从至理实事中领悟,乃得此境也”。这里,钟声中的湿润是从真理与实践中才能领悟的,这种观点显然源自佛教“六根互用”。文学中还有更多例子,证明文学中的许多“画意”(picture-idea)只能用文字表达,无法用视觉描绘。在众多感官体验中,嗅觉最难用视觉表达,大约因为气味是无形的。
但根据现代心理学与生理学的研究,这也不是绝对的。例如,卢照邻(约630-约689)笔下曾写莲花盛开,“浮香绕曲岸,圆影覆华池”。(3)诗句中,一个“绕”字赋予了香气在空间中的流动感;而“覆”字则赋予莲叶层叠的立体感。这里嗅觉使人联想起的是莲叶圆圆的模样,好比篝火的味道使人联想到美国的黄石国家公园和欧洲的阿尔卑斯山。由此,“浮香”甚至唤起了有关江南夏日的印象。卢照邻的绝句使人联想起19世纪コ国浪漫主义作家E.T.A.霍夫曼(1776-1822)创作的一篇音乐文学,题为《克莱斯勒的音诗俱乐部》:

它的香气在焰火中闪烁,神秘地交织成圆圈。[132]

正如卢照邻以嗅觉展现视觉,霍斯曼则以嗅觉展现音乐。在此不禁使人回顾中国与欧洲文化中类似的尝试:无数人尝试将言语或听觉与视觉融合,或将普遍的诗意与感官融合,并探讨其中的可比性。这类作品不胜枚举:路コ维希·蒂克(1773—1853)对颜色和气味的歌颂,诺瓦里(1772-1801)的暮光诗《夜之颂歌》[133],加布里埃尔·罗塞蒂(1828—1882)的视觉诗[134],・姆斯·惠斯勒(1834—1903)的白色与夜晚交响曲系列画作,保罗·克利(1879-1940)的韵律风景系列画作以及他的“歌剧绘画”[135],艾瑞克·萨提(1866-1925)的音乐《运动与娱乐》,其中结合了诗歌、绘画与书法[136],以及中国现代诗人穆旦(1918—1977)的宣言:“呵,光,影,声,色,都已经赤裸,痛苦着,等待伸入新的组合。”
以艺术创作的初衷来衡量,这些结合感官的尝试极少成功。大部分的失败似乎回答了我们想要阐明的观点:中国诗画之间有意义的联系必须建立在两者的共性之上,这个共性可能是“如画”(picture-like),它贯彻了汉代到元代文学艺术的一部分发展进程;它也可以是“画意”(picture-idea),它是从宋代到今天院体画与职业绘画背后的推动力;或者是近代提出的“境界”——最早由王国维在《人间词话》中提出并予以定义[137];最后,它也可能是“兴”[138]——古典文学和艺术的最高原则,则至今仍然尚未被完全解读。


注释

[1] 参见《王右丞集注》卷十五,赵殿成笺注,上海古籍出版社,1961年,第271-272页。
[2] 译者注:本文中作者 picture-like 与picturesque 同义词使用,其中文翻译皆为“如画”。Picturesque实为诞生于 18世纪英国的美学思想,不同于文中所说的“如画”概念。
[3] 西方的诗画关系理论,参见纳尔逊·古コ曼(Nelson Goodman)《艺术的语言》(Languages of Art),印第安纳大学出版社,1968年;温迪·史坦纳(Wendy Steiner)《修辞的色彩》(The Colors of Rhetoric),芝加哥大学出版社,1982 年;W.J.T.米切尔(W.J.T. Mitchell)编《图像的语言》(The Language of Images)芝加哥大学出版社, 1982年; 伦塞 尔.W.李(Rensselaer W.Lee)《画如此,诗亦然:人文主义绘画理论》(Ut Pictura Poesis: The Humanistic Theory of Painting)。其中W.J.T.米切尔编《图像的语言》一书,尤其值得参考。
[4] 参见钱锺书《中国诗和中国画》,收于《旧文四篇》,上海古籍出版社,1979年,第1—25页。
[5] 北宋时期有关诗歌嗜好的记录,最早见于《蔡夫诗话》。参见郭紹虞《宋诗话考》重印版,中华书局,1987年,第 389-399页。13世纪诗论家方回也就相关问题进行过探讨。参见赵昌平《从郑谷及其周围诗人看唐末至宋初诗风 动向》,《文学遗产》,1987年第3期,第33—42页。
[6] 参见钱锺书《谈艺录》,上海古籍出版社,1979年,第33-42页
[7] 参见玉村竹二《五山文学新集》第六章,东京斯文堂,第148-171页。
[8] 顾随《顾随文集》附文—《驼庵诗话》,上海古籍出版社,1986年,第678、727、728页。张岱有关诗画理论的讨论见于 顾随写给好友PAO YEN-CHIEH的书信中。见《琅嬛文集》,湖南岳麓书社,1985年,第152页。有关张岱对苏轼诗画理论的异议,见夏咸淳《明末奇才——张岱论》,上海社会科学出版社,第122-124页
[9] 罗曼·罗兰(Romain Rolland)《歌コ和贝多芬》(Goethe and Beethoven), G.A.Pfister与E.S.Kemp翻译版本,纽约:哈 珀兄弟出版社,1931年,第156页。
[10] 坚信语言胜过视觉、文字胜过图像的北宋文人中,最鲜活的例子是翟思(约1050—1102),他认为画中呈现的山水皆为假象,只有诗句中所描绘的才是真实的。见孔凡礼《宋诗纪事续补》,北京大学出版社,1987年,第一册,第157页。
[11] 张耒《记行色诗》,收于《张右史文集》卷四十八,上海商务出版社,1967年,第350页。
[12] 梅尧臣与欧阳修关于“言外之意”的探讨,见《六一诗画》,收于何文焕编著《历代诗话》,第一册,中华书局,1981年,第267页。
[13] 张邦基《墨庄漫录》卷八,台北商务出版社,第95页;欧阳修《欧阳文忠公全集》,《四部丛刊》卷一百三十,引自《中国美学史资料选编》,中华书局,1980年,第9页。
[14] 钱锺书将淮南子的《内经》与G.M.霍普金斯的“内在特性”以及坦克雷コ·コ·维桑的“内省风景”相比较,参见钱锺书《谈艺录》,第154、155页。
[15] 马援的生平请参见《东观汉记》卷十二。
[16] 参见周文矩《宫中图》的北宋摹本,参见何惠鉴《澹岩居士张徵考略——并论(摹周文钜宫中图卷>跋后之“军司马印”及其他印》一文。
[17]傅咸《画像赋》,收于严可均编纂《全上古三代秦汉三国六朝》中《全晋文》卷五十一,世界书局,1963年,卷二,第1753页。
[18] 王仲殊《汉代考古学概说》,张直译,耶鲁大学出版社,1982年,图252。
[19] 骆宾王《骆临海集笺注》,陈熙笺注版,香港中华出版社,1972年,第178页;《全唐诗》,上海古籍出版社,1986年, 第205页
[20] 荆轲刺秦王时怒发冲冠的形象反复出现在武梁和其他汉朝遗址中。参见喜龙仁(Osvald Sirén)《中国艺术三千年》(Kinas Konst under Tre Artusenden),斯コ哥尔摩Natur one Kultur出版社,1942年,卷一,图207;巴黎索邦大学 《汉代石像》,北京汉学研究中心,1951年,卷二,图116;长广敏雄编《汉代画像研究》,东京中央公论社,1965年,条目37,图16;宫川寅雄编《中国艺术:绘画》,淡交社,1982年,卷三,图版5。
[21]出自辛弃疾《賀新郎·别茂嘉十二弟》。参见邓广铭《稼轩词编笺注》,中华书局,1962年,第429页。蔡义江和 蔡国黄将这首诗的创作年份定为1204年,此时辛弃疾参与了南宋对金国发动的新一轮军事袭击。参见《辛弃疾年谱》,济南齐鲁书社,1987年,第27页
[22]刘邵《人物志》卷二十五,《四部丛刊》卷上,第49页。
[23] 徐干关于仪容的讨论,见徐干《中论》卷二,《四部丛刊》卷一,第8、9页。
[24] 曹旭《论宫体诗的审美意识新变》《文学遗产》,1988年第6期,第66—74页。
[25] 刘义庆《世说新语》,香港中华出版社,1987年版,卷五;卷十四,第333-342页;1972年版,第151—156页。
[26] 同上,第335和337页。
[27]唐主编《全宋词》卷一,中华书局,第271、272页。
[28] 楼钥《王诜<江山晚秋图>》,收录于《攻媿集》卷七十,《四部丛刊》,第641页。
[29] 唐圭编《全宋词》卷一,中华书局,第282页。
[30] 译者注:语出黄庭坚《答宋殿直》。
[31] 乔治·库布勒(George Kubler)《历史时间的风格与呈现》,《纽约科学院年鉴》,1967年第138期,第849-855页。有关空间隐喻在历史时间中呈现的问题,参见库布勒《艺术的历史——还是艺术人类学?》《关于视觉风格的还原理论》,收录于托马斯·F·里斯《美洲和欧洲的古代艺术研究》,耶鲁大学出版社,1985年,第406-412,418-423页。
[32]王勃《滕王阁序》是中国文学中最经典的骈文。参见杨金鼎编《古文观止》,安徽教育出版社,1982年,第614页。 [33]《王右丞集笺注》,第263页。
[34] 韦庄《韦庄词校注》,刘金城校注版,中国科学出版社,1981年,第19页。《菩萨蛮五首》其一。
[35]查士标《仿各家山水册》,参见《八代遗珍》,克利夫兰艺术博物馆,图226I,第304页。
[36] 译者注:原词(Counterpoint)来自巴赫赋格中的“对位法”。
[37] 上官仪《入朝洛堤步月》,收录于《全唐诗》卷一,第131页。
[38] 译者注:原意是说难以翻译成英文。
[39] 骆宾王《骆临海集注》,第157-160页
[40] 李商隐《李义山诗集》卷一,朱鹤龄校注,香港中华出版社,1978年,第9页。
[41]《毛诗》,《四部丛刊》卷九,第68页。
[42] 龚自珍《梦中作四绝句》,《龚自珍全集》卷九,香港中华出版社,1974年,第496页。钱锺书在《也是集》中对“花影怒于潮”的意象有过讨论,参见钱锺书《也是集》,香港广角镜出版社,1984年,第102、103页。
[43] 李白《李太白全集》卷二十三,王g校注,中华书局,1977年重印版,第1077页。
[44] 孙昌武《唐五代的诗僧》,收录于《唐代文学与佛教》,西安陕西人民出版社,1985年,第171页。
[45] 译者注:休谟认为,在因果关系方面唯一能够通过知觉认识的东西,其特征表现为时间上的连续性和空间上的相近性。
[46] 译者注:Eidetic imagery,又称“摄影记忆”,是一种特别清晰逼真的记忆。
[47]《佛说维摩诘经》,《大正藏》,第474部,卷一,第171页。
[48]《临川先生文集》,《四部丛刊》,卷二十七,第187页。
[49]菲尔多尔·舍尔巴茨基(Fedor Scherbatskoi)《佛教逻辑》(Buddhist Logic),列宁格勒 Izd. Akademii Nauk SSR出版 社,1932年,卷一,第70页。
[50] 黄庭坚《黄山谷诗集注》卷二十三,世界书局,1967年,卷十六,第175页。
[51] 方回与纪ホ撰《瀛奎律刊误》,收于《丛书集成续编》,一一四册,卷二十五,第7页。参见方回对《题胡逸老致虚庵》的评论。
[52]据《瑜伽师地论》所说,“宴坐”是一种“塌式”的禅定姿势。据《维摩诘经》所说,“宴坐”不外乎一种让心灵进入净 土的打坐方式(见《佛说维摩诘经》,《大正藏》,第474部,第521页)。小乘佛教中,强调“宴坐”这一术语的实践层 面。安世高于2世纪时将强调呼吸的“禅定法”传入中国,也称作“安般”(安那般那念)。《大安般守意经》是最早 描述这种“禅定法”的经文。参考许理和(Erik Zurcher)《佛教征服中国》(The Buddist Conquest of China),莱顿: E.J.Brill, 1972年,第一册,第32-34页。从这个角度来说,“宴坐”相当于早期道教经典《太平经》中的“端坐”。“端坐”是一种通过调息来凝神内观的方法。据曾慥《道枢》记载,道家的“宴坐”与佛家的“游戏坐”相似,很可能与水月观音或补陀落迦在中国文化中的流行相关。
[53] 高崎正芳(Takasaki Masayoshi)《“宴坐”的概念及其功能》(The Patisallana Concept and Its Functions),《印度学佛教学研究23》(Journal of Indian and Buddhist Studies 23),1975年3月第2期,第407-710页;同上,《大乘佛教中的 “宴坐”》(Pratisamlayana in Mahayana Buddhism),《印度学佛教学研究》(Journal of Indian and Buddhist Studies 24), 1975年12月第1期,第217-220页。
[54] 王安石《王临川集》,香港广智书局,卷一,第195页:《王文公文集》卷一,上海人民出版社,1974年,第786页。
[55] 李白《李太白全集》卷二十三,第1075页;《全唐诗》卷一,第425页。
[56] 海仁法师《大佛顶首楞严经讲记》卷二,美国美西佛教会,1984年,第705页。
[57]俞剑华等《顾恺之研究资料》,人民美术出版社,1962年,第71-104页
[58] 罗兰·巴特《倾听》(Listening),收录于《形式的义务:关于音乐、艺术与再现的评论文章》(The Responsibility of Forms: Critical essay on Music, Art, and Representation),R.Howard翻译版本,纽约Hill and Wang出版社,1985年,第 245—260页。
[59] 译者注:人对他人意图的推测与判定。
[60] 钱锺书在《谈艺录》中引用普罗提诺的话评论李白的诗:“灵魂需抛弃外在的一切,完全转向内在;它将不受外在的 影响,甚至忘记自我的存在。”参见英格(William Ralph Inge)《普罗提诺哲学论》(The Philosophy of Plotinus),纽约 Longmans, Green出版社,1918年,卷二,第136页。
[61] 关于“收视反听”,见周伟民与萧华荣注《文赋诗品注译》,中州古籍出版社,1985年,第29页。
[62] 王士祯《带经诗话》卷三,北京人民文学出版社,1982年,第68页。
[63] 参见何惠鉴《董其昌的新正统与南宗绘画理论》,收录于孟克文(Christian Murck)《艺术家与传统》(Artists and Traditions),普林斯顿大学出版社,1976年,第127页。程嘉燧的全诗,请参见《松园浪淘集》,收录于《历代画家诗文集》卷十三,台北学生书局,1975年,第417、418页。
[64] 王士祯《秋柳》《秦淮杂诗》,参见《渔洋山人精华录》卷五,《四部丛刊》,第59、64页。
[65] 周邦彦《西河》,收录于唐圭璋编《全宋词》卷二,第612页;辛弃疾《永遇乐》,同上,第1954页。
[66] 与谢芜村《日本文人画》,东京 Nihon Keisaisha出版社,1971年,图版5。
[67] 韦庄《台城》,见《全唐诗》卷二,第1759页。
[68] 参见孙楷第《傀儡戏考原》,上海上杂出版社,1953年;孙楷第《沧州词》,中华书局,1965年;威廉·杜比(William Dolby)《中国傀儡戏起源》(The Origen of Chinese Puppetry)《亚非学院院刊》,1978年第41期,第92—120页。
[69] Kitagawa Nobuyo《关于“傀儡”一词的注释》(KairaiKo),收录于《日本名家笔记汇编》(Nihon zuihitsu taisei),东京 吉川弘文馆,1974年,第356-358页。
[70] 段成式《酉阳杂俎》卷四,中华书局,1981年,第50页;《酉阳杂俎》,《丛书集成》二七七册,卷四,第39-40页。参见 Tso Sze-bong《中国佛寺规定中的世俗化政策:一次历史考察》(The Secularization Policy of the Buddhist Monastic Order in China:A historical Survey)。
[71] 这幅画还被称为《荒野》(Nozarashi)。参见伊藤若冲展览图录条目4,东京国立博物馆,第1971年,图版4。 [72]玄觉禅师《永嘉证道歌》,《大正藏》,第2014部,第396页。
[73] 参见高田修《佛教传说和艺术》,东京三省堂,1941年,第15-25、59—85页。
[74] 关于夏目漱石这首诗的讨论,参见吉川幸次郎(Yoshikawa Kojiro)《诗歌续论》(Zoku Ningenshiwa),岩波书店,1973年,第22、23页。
[75] 参见李裕民《《敕勒歌》二题》,《学林漫录》,1985年第10辑,第63-67页;萧涤非《汉魏六朝乐府文学史》,北京人民文学出版社,1984年,第281页;永安《关于《敕勒歌>的产生和流传》,《文学遗产》,1987年第6期,第42页。
[76]“春水秋山”两幅壁画位于东陵的中室。参见Jitsuzo Tamura、Yukio Kobayashi 合著《庆陵墓穴与壁画:11世纪位于蒙古东边的辽墓》,京都大学文学系出版社,1952年,图版45-51,图86、92(春水图);图版59-66,图88、94(秋山图)。
[77] 有关纽约大都会艺术博物馆藏手卷《胡笳十八拍图》的内容,参见岛田修二郎(Shimada Shujiro)《文姬出塞与归 汉》(Lady Wen chi's Captivity in Mongolia and Her Return to China),《大和文化》(Yamato Bunka),1962年第37期, 第18—30页。相关文学主题与作者身份,参见胡适《胡笳十八拍》,《胡适古典文学研究论集》册一,上海古籍出版 社,1988年,第355-356页;王运熙《蔡琰与胡笳十八拍》,收录于《汉魏六朝唐代文学论丛》,上海古籍出版社,1981 年,第37-40页。
[78] 关于《阳关三叠》,参见赵殿成笺注《王右丞集笺注》,第263页
[79] 译者注:意味着文明所不到的偏远地区。
[80] 《竹雀双兔图》(114.3厘米×56厘米,绢本设色)与《深山会棋图》(106.5厘米×54厘米,绢本设色)是两幅立轴,发现于1974年在辽宁省法库县叶茂台村第7号辽墓中,参见《辽宁省博物馆藏画》(Provincial Museum of Liaoning),讲谈社,1982年,图版89、90。
[81] 榆林窟3号窟西壁的西夏壁画可追溯至11世纪初,参见《敦煌壁画》,《中国美术全集》第十五册,上海人民美术出版社,1985年,第二部分,图版186、187。
[82] 译者注:西夏古城。
[83]罗大经《鹤林玉露》,中华书局,1983年,第241、242页:《丛书集成》卷一,第1、2页。
[84] 谢处厚的诗见于南宋周密《癸辛杂识》。
[85] 参见安·伯明翰(Ann Bermingham)《风景与思想意识》(Landscape and Ideology),加利福尼亚大学出版社,1986年, 第57-85页
[86] 有关Picturesque (如画)的美学理论,如威廉·吉尔平《有关大不列颠部分地区“如画”美景的相对观察》 (Observations Relative Chiefly to Picturesque Beauty in Several Parts of Great Britain);乌维代尔·普赖斯爵士《“如画”论集》(Essays on Picturesque); 理查コ·奈特《有关“品味”原理的分析探究》(Analytical Inquiry into the Principles of Taste),请参见W.J.Hipple《18世纪英国美学理论:美丽、崇高与“如画”》(The Beautiful,the Sublime, and the Picturesque in eighteenth-Century British Aesthetic Theory),伊利诺伊州南方大学出版社,1957年。
[87] 张邦基《墨庄漫录》,收录于厉鹗编《宋诗纪事》《丛书集成》卷二十七,第707页。
[88] 郭若虚《图画见闻志》卷一《论黄徐体异》,上海人民美术出版社,1982年,第12、13页。
[89] 周邦彦《玉楼春》,收录于唐主编《全宋词》卷二,第617页。
[90] 秦观《泗州东城晚望》,《淮海词》,《四部丛刊》卷十,第36页
[91] 赵鼎《满江红》,收录于唐圭璋编《全宋词》卷二,第944页。
[92] 苏轼《浣溪沙·渔父》,收录于唐主编《全宋词》卷一,第314页。
[93] 吴镇的长卷《仿荆浩渔父图》藏于佛利尔美术馆。
[94] 参见颜真卿《浪迹先生玄真子张志和碑铭》,《文忠集》,《丛书集成》,册一八四九,卷九,第71、72页。有关张志和的“音乐绘画”,参见皎然《奉应颜尚书真卿观玄真子置酒张乐舞破阵画洞庭三山歌》,收录于《全唐诗》卷二,第2013页。
[95] 参见何惠鉴《唐宋绘画史中“破”之原义及其在音乐与书法上之来源》,《东京国立博物馆美术志》,1982年第379期,第4—13页。
[96] 吴炯《五总志》,《笔记小说大观》,江苏广陵古籍刻印社,1984年,卷三,第220页。
[97] 宋高宗《渔父词》其二,收录于唐编《全宋词》卷二,第1291页。
[98] 参见何惠鉴《李成略传——李成与北宋山水画之主流(上篇)》。
[99] 译者注:不符合政治需要。
[100] 近年,多部讨论“言”“象”“意”的著作与论文在中国出版发表,其中一篇是袁行霈《魏晋玄学中的言意之辨与中国古代文艺理论》,收录于《古代文学理论研究》第一辑,上海古籍出版社,1979年,第125-147页。另有两部著作值 得参考:汤一介《郭象与魏晋玄学》,湖北人民出版社,1983年;王葆玹《正始玄学》,济南齐鲁书社,1987年。从知 识论与方法论来看待这一问题的论文有:Chen Lai《魏晋哲学中的不可知论与“中路”:郭象哲学思想的批判》,发表于《中国哲学》,1984年第2期,第98—117页。以上所有的研究都基于汤用彤《魏晋玄学论稿》一书,人民出版社,1957年。
[101]《嵇康与魏晋玄学中的“三理”》,《魏晋玄学论稿》,第76-97页。
[102] 刘勰《文心雕龙·明诗》提出:“宋初文咏,体有因革,庄老告退,而山水方滋。”有关山水诗和玄言诗之间的相互关系,参考王瑶《玄言、山水与田园》,收录于《中古文学风貌》,上海棠棣出版社,1953年;王玹《正始玄学》卷七, 第350-356页。将山水画的崛起与魏晋玄学相关联的研究有徐复观《中国艺术精神》,东海大学出版社,1966年, 第225-248页;施阑《山水画产生的思想根源——兼谈“东晋”“刘宋”山水画之异》,《美术研究》,1984年第2期, 第66-68页
[103] 东方朔《宝瓮铭》,收录于严可均编纂《全上古三代秦汉三国六朝文》中《全汉文》卷二十五,卷一,第267页。
[104] 白居易《梦仙》,收录于《全唐诗》卷二,第1035页。
[105] 谢灵运《山居赋》,收录于严可均编纂《全上古三代秦汉三国六朝文》中《全宋文》卷三十一,卷三,第2607页。
[106] 谢朓《郡内高斋望答吕法曹诗》,收录于钦立纂编《先秦汉魏晋南北朝诗》第二册,中华书局,1983年第1427页。
[107]宗炳《画山水序》,收录于严可均编纂《全上古三代秦汉三国六朝文》中《全宋文》卷三,第2545-2546页。
[108] 同上,第2456页。
[109] 见注释97。王瑶《玄言、山水与田园》。
[110]《王右丞集注》卷七,第123页;《全唐诗》卷一,第293页。
[111] 周亮工《书影》,收录于《明清笔记丛书》卷十,上海古籍出版社,1981年,第269页。
[112] 有关这首诗的地理内容,参见顾绍柏校注《谢灵运集注》,中州古籍出版社,1987年,第118、119页。[113] 宗炳《画山水序》。
[114] 王微的《叙画》见于张彦远《历代名画记》。
[115] 《毛诗》卷一。
[116]洪兴祖《楚辞补注》,北京中华书局,卷二,第54-84页。
[117] 利玛窦有关《诗经》的解读见《论礼仪继承》,发表于《中国诗研究》,1987年第4期,第104页。中国学者关于“陟降”的研究,参见曹聚仁《说词篇》,收录于《文思》,香港创垦出版社,1956年,第156、157页。
[118] 参考马瑞志(Richard Mather)《谢灵运的山水佛教》(The Landscape Buddhism of the Fifth Century Poet Hsieh Ling- yun),《亚洲研究期刊》,1958年第1期,第67-80页:齐文榜《佛教与谢灵运及其诗》,《中州学刊》,1988年第1期, 第84-88页。
[119] 参见何惠鉴《元代文人画序说》《新亚学术集刊》,第4期,1983年,第243-258页。
[120] 参见叶嘉莹《论李商隐燕台四首》,Renditions,1984年,第41-63页。
[121] 关于李觏《乡思》,参见吴战全校注《千首宋人绝句校注》,浙江古籍出版社,1986年,第一册,第145页。
[122]《敦煌壁画》,《中国美术全集》,上海人民美术出版社,1985年,第二部分,图版77,第72页
[123] 何惠鉴《李成略传——李成与北宋山水画之主流(上篇)》《故宫季刊》第5卷第3期,1971年,第17—20页,第33— 62页 第60页讨论了绘画中平远视点背后的儒家影响。
[124] 马融《长笛赋》,参见钱锺书《管锥编》,香港中华出版社,第三册,第982页。
[125] 参见彼得·拉什顿(Peter Rushton)《解读嵇康《赠兄秀才从军十八首>》(An Interpretation of Hsi K'ang's Eighteen Poems Presented to Hsi Hsi on His Entry into the Army)、《美国东方学会杂志》(Journey of the American Oriental Society)第99期,1979年,第175—190页。
[126] 刘义庆《世说新语校笺》卷二十一,第386页;张彦远《历代名画记》,小野盛年(Ono Shonen)校注版,东京岩波书店,1938年,第337页。
[127] 钱起《钱考功集》,收录于《唐五十家诗集》卷十,上海古籍出版社,1981年重印版,第3074页。
[128] 杜牧《樊川文集》卷二,上海古籍出版社,1978年,第28页。参见萧驰《中国古代诗人的时间意识及其他》,《文学遗产》,1986年第6期,第16-23页。
[129]《法师功コ品》是《妙法莲华经》中的第十九品,文中解释了“六根清净”和“六根互用”的概念,《佛说维摩诘经》, 《大正藏》第262部,第47-50页。
[130]叶燮《原诗》,北京人民文学出版社,1979年,第31-32页;叶燮《已畦集》,收录于《丛书集成续编》,台北新文丰出 版社,1989年重印版,卷二,第785页。
[131] 卢照邻《曲池荷》,收录于《唐五十家诗集》卷下,第311页。
[132] 格奥尔格·勃兰克斯(Georg Brandes)《19世纪文学主流》(Main Currents in Nineteenth Century Literature),伦敦 William Heinemann,1905-1923,第二册《コ国浪漫主义》,第125页。
[133] 关于路コ维希·蒂克的诗,参见《19世纪文学主流》第二册,第41、114-127页;关于诺瓦里的暮光诗《夜之颂歌》, 参见《19世纪文学主流》第二册,第144—146页。
[134] 戴维·G.里コ(David G. Riede)《加布里埃尔·罗塞蒂与维多利亚时期的局限》(Dante Gabriel Rossetti and the
Limits of Victorian Vision),康奈尔大学出版社,1983年。详情请参见第九章(The Feud of the Sister Arts),第214- 232页。
[135] 安コ鲁·卡根(Andrew Kagan)《保罗·克利:艺术与音乐》(Paul Klee:Art and Music),康奈尔大学出版社,1983年, 第28-31、95-117页
[136] 参见塔克(Roger Shattuck)《宴会那些年:法国前卫艺术的起源》(The Banquet Years:The Origins of the Avant- Garde in France),纽约Vintage Books,1968年,第156、174-176页
[137] 参见《王国维“境界论”中美的两个标准》,收录于《王国维学术研究论集》,华东师范大学出版社,1983年,第一部, 第344-370页;滕惠《人间词话》导读,济南齐鲁书社,1982年,第6-28页。从批判角度来看待“境界论”的文章有:万云骏《王国维《人间词话》“境界说”浅析》,《文学遗产》,1987年第4期,第97-107页。
[138] 参见牟世金《诗学之正源,法度之准则》,收录于《古代文学理论研究丛刊》,上海古籍出版社,第一辑,第38-61页;罗立乾《经学家”比、兴"论述评》,收录于《古代文学理论研究丛刊》,第一辑,第62-72页:禹克坤《中国文学的比兴原则》《文学遗产》,1988年第2期,第21-29页。

(此文发表文字为英文,原刊于 Words and Images: Chinese Poetry, Calligraphy, and Painting,普林斯顿大学出版社,1992年,第359-404页。翻译:林瑞君)


【日文訳全文】
詩画関係における「如画」(Picture-like)と「画意」(Picture-idea)

唐代の詩人・画家である王維(701–761)が描いたと伝えられる《藍田煙雨図》に対して、宋代の詩人蘇軾はこの人物への敬慕の念から有名な一句を残した――「摩詰の詩を味わえば、詩の中に画あり。摩詰の画を観れば、画の中に詩あり。」。この言葉は広く受け入れられ、ほとんど疑問を呈されることもなく、のちに文人画理論の基礎となった。北宋末から清初にかけて、文人の理想はおおむね詩と画を結合させ、詩・書・画の「三絶」の境地を追い求めることにあった。
しかし蘇軾の言葉を深く考察すると、曖昧な点が少なからず存在し、ひいては美術史における関連問題への困惑を引き起こす。

本当に「詩画一体」と言えるのだろうか。二つの表現方法として、両者は本当に比較可能なのか。さらにジョン・ロック(1632–1704)のいう「言語の二大基本機能」――記録と交流――をともに備えているのだろうか。詩と画は調和して共存できるのか、それともアンドレ・ジッドが言うように「情敵を抱きしめるのは窒息させるためにすぎない」のか。

以上の問題は検討を要するが、さらに二つの重要点を指摘しなければならない。第一に、同一の批評原則を詩と絵画の両方に適用できるのか。言い換えれば、詩を見る視点で書画を見てよいのか。第二に、もし本当に「詩中に画あり、画中に詩あり」とするなら、「如画」(picture-like)と「如詩」(poem-like)をどのように区別すべきか。さらに、「如画」(picture-like または picturesque)が最初は文学概念であったのが、どのようにして視覚芸術、特に中国絵画に取り入れられたのか。


詩画一体?

ゴンブリッチやグッドマンから、レッシング、バーク、さらにプラトンやアリストテレスに至るまで――西洋における長く複雑な歴史とは異なり、中国にはルネサンス期の「絵の如し、詩もまた然り」(Ut pictura poesis)に比肩する批評伝統は存在しない。『礼記』によれば、古代では詩・音楽・舞踊は本来一体の芸術として演じられていた。この複合芸術の最高理想は「致中和」であり、後の儒家はこの理想を深く信奉した。だが「詩画一体」が実践に移されると、さまざまな疑念が生じた。

近代において、「詩画一体」に最初に疑問を投げかけた学者はおそらく錢鍾書であろう。彼は王維(701–761)、杜甫(712–770)、そして呉道子(710–760頃活動)の盛唐の詩と画を例に挙げ、「嗜好矛盾律」と呼んだ概念を論じ、後世がいかに異なる二つの基準で三人の盛唐の大家を評価したかを示した。我々はいまだに社会文化史の観点から、この矛盾に満ちた「嗜好」を十分に説明できていない。たとえば、宋初に白居易(772–846)の平民化詩風を追随したのは多くが貴族士大夫階層の人々であった一方、晩唐の頽廃的・唯美的・華麗な詩風を継承したのはむしろ僧侶や道士たちであった。

もう一つの示唆的な例は、元末における詩と画の分化である。元末の絵画は抒情と写意を追求する文人風格を重視したが、黄公望(1269–1354)や倪瓚(1301–1374)ら文人画家を代表とする元末の詩壇は、晩唐の華美な詩風への回帰を示した。足利幕府時代(1333–1467)の日本においても詩と画は同様の対立を呈した。禅宗の影響下、室町期(1392–1568)の僧侶たちは一方で性情と写意を強調する水墨画を描きながら、他方で華麗な対句を重視する五山文学を作り出した。後者は中国の駢文を模倣したものである。

錢鍾書に続いて顧随もまた蘇軾の詩画理論の不合理さを指摘した。彼は明末の文人張岱(1597–約1684)の「詩句を持つ絵で絵を描けば絵は佳ならず。画意を持つ詩で詩を作れば詩は必ず妙ならず」という言葉を引いている。つまり、歴史的時代ごと、さらには同時代の文人グループごとにそれぞれ独自の評価基準や偏見を持っており、「詩画一体」は常に承認されてきたわけではないのである。

東西を問わず、多くの詩人は他の芸術に対して高みから見下すような態度を示す。例えば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749–1832)は、自ら創出した「言語音楽」(Sprachmusik)こそ音楽を完成させる方法であると信じていた――「完璧な演説は歌よりもはるかに美しい。豊かで変化に富む方法で感情を表現するが、歌は単純な演説へ回帰しなければならない。」。

ヨーロッパの詩人たちと違い、中国の詩人は詩の地位を強調する必要はなかった。だが蘇軾とその追随者が「詩画一体」を声高に称揚していたとき、少なくとも三、四人の北宋の重要な学者たちは「絵画が詩を模倣できる」という見解に留保を示していた。宋代の著名な史家司馬光の父・司馬池(980–1041)は、おそらく最初にこうした疑問を呈した人物であろう。河南安豊の石碑に刻まれた有名な短詩《行色》において、彼は次のように詠んでいる。

冷于陂水淡于秋,远陌初穷到渡头。
赖是丹青不能画,画成应遣一生愁。

(池の水よりも冷たく、秋よりも淡い。遠くの道は尽きて渡し場に至る。幸いにもこれは絵に描けぬものであり、もし絵に描かれてしまえば一生の愁いとなるだろう。)

蘇門四学士の一人・張耒(1054–1114)は、この詩を称賛して「詩の妙なるものは、状し難き景を目前にあるかのように描き、尽くし得ぬ意を言葉の外に含む。この詩にはまさにそれがある」と述べた。欧陽修も《六一詩話》において、友人の梅堯臣(1002–1060)がこの詩を評した言葉を記録しており、その趣旨は張耒のものとほぼ同じである。

明らかに宋代の多くの学者は、視覚芸術の限界は「言外の意」を表現できない点にあると考えていた。この「芸術は言語を超えられない」という観念は、限定的ながら独特な形で、のちにポストモダニズムにおける重要理論――すなわち視覚体験と言語の不可分性――を予示していたのである。

欧陽修(1007–1072)と王安石(1021–1086)は、詩のある種の意境は感覚的に「有形」と結びつけにくいと考えた。たとえば「荒寒」という感覚は、言葉で表現するほうがはるかに適切であり、たとえ当時最も優れた画家であっても、その意境が呼び起こす感情を描写することは難しかった。

この時期は、11世紀の政治を揺るがす大規模な変法の前夜であり、同時にイデオロギー的停滞の時期でもあった。その変法が到来する直前、文人の間にはある種の感情が広がっていた。彼らは北宋仁宗・英宗期の画院画家に失望し、表象を超える視覚芸術への渇望を抱くようになった。まさに欧陽修が《鑑画》の中で述べたとおりである。

「蕭条淡泊、これ描き難き意なり。画者これを得るも、覧る者必ずしも識らず。ゆえに飛走の遅速、意の浅きものは容易に見ゆるが、閑和厳静、趣遠の心は形にし難し。もし高下向背、遠近重復といったものは、これ画工の技にして、精鑑者の事にあらず。」

欧陽修と王安石はともに視覚芸術の限界を認識していた。あるいは彼らはすでに、未来に文人画が大いに隆盛することを予見していたのかもしれない。案の定、その変法ののちに文人画が現れたのである。それは現実の山水と「内なる」山水を見事に融合させ、視覚芸術が表象を超越するための究極の答えとなった。


「如画」(Picture-like)の概念

「如画」(picture-like または picturesque)という概念を定義するには、歴史・地域・文化といったさまざまな領域からの影響を考慮せざるを得ない。なぜなら、この概念自体が社会から生まれたものであり、伝統の支配を受け、人種や階級の影響を受け、神話や大衆文化の影響を受け、最終的には個々人の主観的判断に左右されるからである。さらに重要なのは、「絵のようだ」という評価が、後には普遍的に外見的な美の評価として用いられるようになった点である。これはどの社会においても一種の「偏見」である。

中国文学において「如画」という語の使用の発端は東漢(25–220)以前にさかのぼる。その後、時代の推移とともに字義と内包的な意味が次第に変化した。東漢から魏晋にかけて「如画」の語義の変遷をたどると、当初はもっぱら人物の美を形容するのに用いられ、やがて自然の美を表すようになったことがわかる。したがって「如画」(picture-like)の概念の発展過程は、中国絵画の展開とほぼ完全に対応しており――まず人物画が先行し、その後に山水画が発展した。

史料によれば、その最初の例は紀元1世紀の《東観漢記》に見える。ここでは勇士・馬援(前14–49)を称えるために用いられている。その後、南朝に至るまで「眉目如画」という表現は専ら男性の美を讃えるものとして使われていた。これは後世、周ム(約730–790)や周文矩(950–975頃活動)の筆下の美女を称える際に用いられた「眉目如画」とは大きく異なっている。唐以前に「如画」と聞けば、人々の脳裏に浮かんだのは、逞しく、顔いっぱいに髭をたくわえた武士の姿であった。例えば、漢や六朝の墓壁に描かれた瞋目の猛士像、《水経注》に見える海神の拒人像、晋代の傅咸(239–294)の《画像賦》中の虎を刺す卞荘子、敦煌の民間説話に登場する捕縛像、あるいは洛陽望都「二桃殺三士」壁画の勇士などである。

この間において、今日にまで伝わる最も感動的かつ代表的な死士のイメージは、秦王を刺殺した荊軻の「怒髪衝冠」の姿である。

此地别燕丹,壮士发冲冠。昔时人已没,今日水犹寒。

これは初唐の詩人・駱賓王の詩で、荊軻の怒髪衝冠の姿は司馬遷の《史記》に基づいている。そこには太子丹と従者が白衣をまとい、易水のほとりで荊軻を見送った情景が記されている。

易水のほとりに至り、すでに祭を終えて道を取る。高漸離が筑を打ち、荊軻は和して歌い、徵声を変じて士は皆涙を流した。さらに進んで歌を作り曰く、「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去りて復た還らず」と。復た羽声を奏して慷慨す。士皆瞋目し、髪は尽く上がりて冠を衝く。かくて荊軻は車に就き、ついに顧みなかった。

荊軻の怒髪衝冠の姿はまた、山東・武梁祠の漢代石像にも刻まれている。それは英雄主義と勇気を象徴するのみならず、悲哀の白をもって荊軻の殉難を記念した。この白は、のちに宋代の詩人・辛棄疾(1140–1207)の「満座衣冠雪のごとし」と詠じられ、視覚が聴覚に触れ、悲しみの徵声を喚起し、慷慨の響きを誘うものとなった。

晋朝が元嘉元年(307)から建武二年(318)にかけて南遷したのち、北方の人々は南方の呉越・楚地のロマン主義文化に触れ、外見美の理想は微妙に変化した。屈原(前343頃–前278)の《離騷》に「紛吾既有此内美兮,又重之以修能」とあるように、漢末の逞しく恐れを知らぬ勇士像は過去のものとなり、その代わりに衣装優雅で高貴な出自を持つ士大夫像が現れた。彼らはとりわけ挙止や容姿に注意を払ったのである。

六朝社会は名門の門閥によって主導され、彼らはほぼ儒学の伝統を独占した。社会政治は世襲で継承され、魏晋時代における官吏登用は九品中正制に依存し、その基準は家世と公的評価にあった。門閥が当時の文化を育み、寒門の子弟は出世が難しく、六朝は個人主義の時代となった。人物の実質よりも個性が重んじられ、誰もが容姿・挙止・言動によって相手を評価したのである。

劉劭(196–219頃活動)の《人物志》は、おそらく心の内面と外形を関連づけた最初の心理学的著作であった。また徐幹(171頃–218頃)の《中論》も容貌と儀表の重要性を論じている。そこでは、容貌は社会的地位の象徴であると同時に、性情や道徳の証でもあるとされた。詩歌においても、宮体詩から江東の民歌に至るまで、香水・紅粉・装身具・髪飾りなど私的な装いへのこだわりが色濃く表れている。劉義慶(403–444)の筆記小説《世説新語》には「容止」という篇があり、人の容貌や挙止を論じている。

古代の美男子として有名な潘岳(247–300)や衛玠(286–312)は、漢代の粗野で豪放な美意識とは全く異なる、新しい男性美の基準を打ち立てたとされる。彼らが街に出れば、見物に押し寄せる女性の群れが交通を妨げるほどであったという。


山水画における「如画」(Picture-like)

「如画」(picture-like)は、もともと文学的な概念として創出されたため、山水画が誕生した当初、観者や画家はそれを山水画と結びつけてはいなかった。北宋初期になって初めて、「如画」が自然の美を形容する語として用いられるようになり、それ以降、山水画の発展に影響を与えた。

私の知る限り、「江山如画」という表現を最初に用いた詩人は孫浩然(1070年前後に活動)である。彼はあまり名の知られた人物ではないが、六朝の古都・南京を懐古した詞《離亭燕》を作り、その冒頭を「一帯江山如画」と詠んでいる。

南宋の学者・楼钥(1137–1213)の文集《攻媿集》によれば、蘇軾の友人で北宋の著名な山水画家・王詵(1069–1110頃に活動)が《江山秋晩図》を描いているが、その画意(picture-idea)はまさにこの《離亭燕》に発している。さらに北宋の元豊五年(1082)、蘇軾は千古の名篇《念奴嬌・赤壁懐古》を書き、その詞中でも「江山如画」という語を用いている。おそらく彼の脳裏には、友人・王詵の画巻とともに、《離亭燕》中に歌われた「如画」の金陵(南京)の風景が浮かんでいたのであろう。

では、数多ある古都のなかで、なぜ宋代の詩人や画家たちは南京を「如画」(picture-like)の代表として山水に託したのだろうか。答えは、長江が決定的な役割を果たしていたからである。浪漫的な歴史を担う大河として、数多の英雄やその事跡がここに深く刻まれていた。

イメージと文字の結びつき、自然と人の融合、時空の超越と今昔の交錯のなかで、懐古の情が呼び覚まされる。これこそ懐古詩の伝統であり、唐宋の多くの詩人――杜甫、劉禹錫(772–842)、王安石(1021–1086)、周邦彦(1056–1121)、そして辛棄疾(1140–1207)――が得意とした表現なのである。


懐古詩

自然万物の無常が山水のイメージに凝縮され、ひとつの浪漫的な典型となり、常に人々の懐古の情を呼び覚ます。「如画」の江山の背後に美と哀しみを見出すこと、これこそが懐古詩の核心である。この詩歌の基調は、時間の崇高さと人生の短さとを対比させる点にある。すべてを呑み込む時間の前では、個人の存在はあまりに小さく、取るに足らないものとなる。

西洋文化において「崇高」という美学概念はほとんど空間的イメージから成り立っているのに対し、中国人はむしろ時間への畏敬を強く表してきた。中国古代人が自然に対して抱いた愛着と畏れの感情の多くは、歳月が戻らないことへの諦念から生じている。聖人孔子ですら流水を見て「逝者如斯夫、不舍昼夜」(過ぎゆくものは斯くの如し、昼夜を問わず止まらない)と嘆かざるをえなかった。歴史は一度しか起こらない。懐古詩が唐宋二代に流行したのも、人類に普遍的な願望――すなわち、失われたものへの記憶を残したいという欲求――から来ているのだろう。例えば、一度去っては二度と戻らぬ荊軻のように。

懐古詩の大きな特徴は、古を借りて今を喩えることにある。古と今との間にはしばしば擬人法が用いられ、詩人の主観的な体験を通して、古今に自己を投影する瞬間が描かれる。同じく歴史を題材とする詠史詩と異なり、懐古詩の本質は自己の感情を吐露することであり、風刺や教訓を目的とするものではない。古人の言葉で言えば、懐古詩は「古今をもって胸次を灌ぐ」ものなのである。人はしばしば歴史という鏡の中に自己を映し、その見慣れぬ反映を通して再び自分を発見する。そこには一種の自己愛的要素が潜んでいるのではないか、と疑いたくなるほどである。

ジョージ・クーブラーは歴史の記述と絵画を繰り返し比較している。両者は創作において主観的感受、直観的判断、選択的描写に依存し、同時に多様な手法・伝統・イメージの活用に左右される。これは懐古詩と懐古画の特徴を見事に説明している。文学的イメージによって絵画的イメージを喚起する鍵は、当時の社会において一般的に共有された文化的慣習、すなわち「約定俗成」にある。こうしたイメージは多くの場合、歴史に関わる詩文から生まれた。

7世紀以来、南昌の滕王閣は初唐の詩人・王勃(650–676)の「落霞と孤鶩と斉に飛ぶ」の一句によって千古に名を残し、そのイメージは常に志士の予測不能な運命を暗喩するものとなった。もう一つ誰もが知るイメージは「灞橋の柳」である。長安城外、灞橋のほとりに風にそよぐ柳は、王維の《送元二使安西》に初めて登場し、その後、離愁の象徴となった。

このように、いったん文学的イメージが約定俗成の意象となれば、適切に用いるだけで、たとえ名前ひとつにすぎなくても、抗しがたい共感を直ちに呼び起こし、さらに劇的に時間と空間を一体化させることができるのである。


視覚的イメージと聴覚的イメージ

古代中国において、六朝の詩画に理想化された「江南」ほど人々の魂を牽き留める意象はなかった。それに匹敵するものといえば、せいぜい19世紀ロマン主義者が夢見た理想のイタリアくらいだろう。もしゲーテの《ミニヨンの歌》が南イタリアのレモンの木々の香りを呼び起こすのなら、「江南」と聞くだけで、多くの文人の脳裏には直ちに人間世界の楽園のような光景が広がったに違いない。その絢爛たる情景は、北方の詩人・韋荘(約836–910)の筆に鮮やかに記録され(34)、さらに清代の画家・査士標(1615–1698)の冊頁に描き出された(現存本はアメリカ・クリーブランド美術館蔵、図3)。韋荘の《菩薩蛮》にはこうある:

春水碧於天,画船聴雨眠。
(春の水は天よりも碧く、彩られた船で雨を聴きながら眠る。)

「江南」という文学的意象は、常に音と色彩が交錯する構造を持ち続けてきた。韋荘や温庭筠(約812–約870)ら晩唐の詩人たちの妙筆によって、「江南」は目も眩むほどの絢爛な画面として描き出された。その重層的な隠喩には、秋の暮れや雨の夜といった意象への懐旧の情が満ちている。

異なる感覚(色と音、陰と香りなど)の微妙な均衡は、唐代詩人が追求した「対句」の形式をも反映している。対句は単なる駢文や律詩の特徴ではなく、陰陽二元思想から直接派生した特別な表現形式であった。張東蓀の研究によれば、陰陽学説は中国伝統の「二元相関律名学」を完璧に説明している。歴史的に見れば、唐代文学における音と色の「対位」は、南北朝を統一した隋代にまで遡る。二元論的な形式が成立したのは、初唐・龍朔年間(661–663)頃のことであった。

ある早朝、まだ夜明け前、唐の高宗(在位649–683)の宰相・上官儀(608–665)は灯を手に洛河のほとりを歩いていた。朝廷に向かう前のひととき、彼は後世に名句を残した:

鵲飛山月曙,蝉噪野風秋。

この句は初秋の朝を描くもので、音と色の交錯を通じて、黎明前のざわめきと新しい一日の律動を感じさせる。詩の構造は翻訳が難しい。なぜなら「曙」と「秋」という二字が最も重要でありながら、名詞としても動詞としても読めるからである。朝の光に沈む山月が鵲を驚かせて飛び立たせ、蝉は夏の終わりの終曲を奏で、秋風は野に寒さをもたらす。ここでは色彩と音が競い合い、同時に互いを補い合っている。

駱賓王(約626–約687)の「玄鬢影」から李商隠(約813–約858)の「一樹碧無情」に至るまで、蝉の声は唐代全体を響き渡り、宋初の西昆詩派以後にはついに絶唱となった。

二つの感覚のあいだにある対称的な関係は、六朝以前にはあまり見られなかった。『詩経』や『楚辞』から漢代の賦に至るまで、視覚的イメージは通常、詩情を強めるための手法として用いられていた。

昔我往矣,楊柳依依。今我来思,雨雪霏霏。[41]

この『詩経』の名篇では、往時と今との感情が簡潔な言葉で表現されている。シンプルな対比を通じて、季節の移ろい、愛情や友情のはかなさ、人生の失意や悲しみが、純粋に視覚的な形で暗示されている。天候が人の感情と結びつき、色彩の中に溶け込むのである。春の若柳の柔らかな緑と、冬の雪の灰白の冷たさとの間には、鮮やかな対比が生まれる。そのあと、朝のそよ風が柳をなでるかのように、冷たい雨滴が顔に打ちつけるかのように感じられるが、それらは視覚が引き起こす触覚的な連想であり、必ずしも詩中に直接表現されているわけではない。この手法は古代から近代に至るまで、中国詩人が最もよく用いたものであった。

晚清の詩人の中では、龔自珍(1792–1841)が最も影響力を持ち、また鋭敏な視覚によって称賛された最後の「イメージの達人」であった。次の詩句はその代表的な例である:

叱起海紅簾底月,四廂花影怒於潮。[42]

怒号とともに昇る月、狂潮に翻弄される花影——もちろんこれらは幻影にすぎず、詩情が最高潮に達したときに生まれる産物である。こうした視覚的イメージの大胆な運用は、唐以降の画論や詩論において一貫して重要な法則とみなされてきた。それは「画意」(picture-idea)を分類する基準ともなった。なぜなら、この手法こそが「情景双生」という美学的体験を直接生み出すからである。

しかし、ちょうど同じ時期に、王維らによってさらに複雑な技巧が開拓された。異なる感覚を、異なる感情に結びつけ、ある感覚が瞬時に別の感覚へと転化するような表現である。その代表例が皇甫松の《夢江南》であり、同時代の詩人(晩唐から五代)と比べても、その手法は際立っている:

蘭燼落,屏上暗紅蕉。
閑夢江南梅熟日,夜船吹笛雨瀟瀟。人語驛邊橋。

蝋燭が消え、灰が落ち、屏風に映る紅い芭蕉の影が徐々に薄れていく。やがて夢は、音に織りなされる江南へと移り変わる——笛の音、雨の瀟瀟たる響き、そして夜の橋のほとりで交わされる人々の語らい。その感動的な幻影は、視覚に映るものの再現というよりは、むしろ意図的に呼び覚まされた「閑夢」にほかならない。いつしか色彩は音へと変わり、視覚と聴覚のあいだで感覚が相互に転化する。この発想は芸術、とりわけ詩に、無限の可能性をもたらしたのである。

李白(701–762)の詩句は、このような可能性の中にある微妙な差異を証明している:

黄鶴楼中吹玉笛,江城五月落梅花。[43]

詩句の表面だけを見れば、ここで用いられた手法は《夢江南》とほぼ同じであり、音と色彩の相互作用にすぎない。笛の音の中で黄鶴とともに飛び去った過去を慕い、初夏のはずが地上には梅の花が散っている。唐の乾元元年(758)、詩人が武昌に滞在していた時に詠んだもので、梅花は季節の常理に背いているように見える。しかし「江城五月落梅花」と読めば、中国人読者なら誰もが「梅花三弄」を思い浮かべるだろう。もっとも、梅の花から笛の音や過去そのものを連想できるかどうかは、必ずしも明らかではない。近年、人々の要望によって再建された黄鶴楼は、中国でもっとも有名なランドマークの一つである。その建設の背後には歴史的な理由はなく、純粋に人々の愛着によるものである。人々は崔(704–754)や李白以来の詩歌の伝統を愛している。李白の詩句においては、想像と現実との境界はなく、時間と空間、視覚と聴覚との関係もまた曖昧である。こうした点こそが、詩句を自由に解釈する可能性を与えているのである。

詩のテーマ、あるいはその「画意」(picture-idea)を繊細に体察することはきわめて重要である。北宋の画院における定期選抜でも、学生たちにそのような洞察が奨励された。禅僧・無可の句はその絶好の例である:

聴雨寒更尽,開門落葉深。[44]

この詩句では、静夜の雨は聴覚に属し、それは時間の領域である。他方、門外の落葉は視覚に属し、それは空間の領域である。夜雨を聴き、同時に落葉を目にする。ここでは想像と現実が同時に存在し、連続する画面を形成している。この「連続性」は20世紀の理論とも合致する——すなわち、具象的な再現としての空間認識には、時間が必ず介在しなければならない、という考えである。[45]

もっとも、一部の現代実験心理学者は主流とは異なる見解を示している。彼らによれば、聴覚によるイメージは「遺覚表象」(Eidetic imagery)に比べて稀少ではない。感情的あるいは沈思的な「観照」においては、「心の耳」が聴く音は、通常、より意図的で、より直接的で、より真実味を帯びる。すでに述べたように、聴覚的イメージの出現はしばしば視覚的イメージを伴う。そして両者のうち、前者のほうが潜在意識により直接的に働きかけ、より容易に抽象的あるいは超越的な世界へと導く。

早くも4世紀には、中国の僧侶たちはこの理をよく理解していた。『維摩詰経』[47]には、音声(言葉や文字を含む)が仏教の宗教的実践においていかに重要であるかが説かれている。宋の神宗(1067–1085在位)の時代には、政治家の王安石(1021–1086)がこの問題に関して詩を残している:

長以声音為佛事,野風蕭颯水潺湲。[48]

この詩句において、仏法の真髄は、荒野の烈風や潺湲たる溪流を聴くことで悟ることができるとされる。仏教の論理は二種の現実を明確に区別する。一つは究極的あるいは絶対的な現実である「法身」、もう一つは、フェオドール・シェルバツコイの言葉を借りれば、「客観的イメージに映じた条件的現実、すなわち経験的現実」である。教義「万法唯識」は、唯識論における認知と知識の本質を端的に表している。

中国文学の中では、黄庭堅(1045–1105)のこの教義に対する解釈が最も啓発的である。崇寧元年(1102)、彼が広西宜州に左遷された折に詠んだ詩にこうある:

山随宴坐画図出,水作夜窓風雨来。[50]

13世紀の評論家・方回(1227–1305)は、影響力ある律詩選『瀛奎律髓』の中で、この詩を絶妙非凡と称賛した。しかし、方回は詩中の山のイメージや風雨の音が想像であり、虚と実、生と動との交錯によって表現されていることを指摘しなかった。宋代以降のほぼすべての文学評論家は、方回を含めて、「宴坐」を「静坐」と誤って理解し、この語の特異な意味を失ったのである。実際には、詩の後半二句——「観水観山皆得妙,更将何物汚霊台」——の中で、黄庭堅はすでに「宴坐」の真の意味を解き明かしていた。


仏教と道教の修行における知覚の内化

「宴坐」というのは仏教用語である。[52]
初期パーリ語仏典の漢訳においては、名詞 patisallana の訳語として用いられ、大乗仏教のサンスクリット仏典の漢訳では pratisamlayana の訳語として現れる。高崎正越は1975年に二篇の関連論文を発表し、さまざまなテキストに現れる「宴坐」を比較検討し、とくに『法華経』の異なる訳本における用例をたどることで、この語の意味の変遷を整理した。彼は「宴坐」が「坐禅」の一種の翻訳であるという結論に至った。

王安石が金陵に隠棲した後に作った《読維摩経有感》にも、この語が用いられている:

身如泡沫亦如風,刀割香塗共一空。
宴坐世間観此理,維摩雖病有神通。[54]

宋代になると、「宴坐」は道教においても頻繁に使われる術語となった。そこでは姿勢はすでに正統仏教の「宴坐」とはやや異なっていたようだが、芸術創作の前段階としての重要性から、唐宋の詩人や画家たちの間で広く受け入れられていた。「宴坐」という言葉は李白や白居易(772–846)らの詩にも繰り返し現れる。なかでも、李白が廬山東林寺に宿泊した際の体験を詠んだ句は興味深い:

天香生虚空,天楽鳴不歇。
宴坐寂不動,大千入毫発。[55]

「寂然不動のうちに大千世界が毫末に現れる」という思想は、『楞厳経』から広く引かれている:

于一毛端,遍能含受十方国土。[56]

唯心論者にとって、すべての現象は心の投射にすぎない。最も純粋な山水のイメージは人為の設計によるものではなく、物我一体の冥想状態から生じるのである。晋代の顧ト之『画雲台山記』も、山そのものを論じるというよりは、王長や趙升という二人の人物(いずれも道教の祖・張道陵[紀元前1世紀]の高弟)による悟りを通じて、山のイメージがどのように形成されるかを描いている。[57]

黄庭堅の詩に戻れば、そこに現れる幻の山や雨はすべて心の反映である。現代心理学では聴覚がより直接的で強いイメージを引き起こすとされているが、黄庭堅の詩においては感覚の区別はほとんど見られない。

ロラン・バルトは「聞くこと」について一篇のエッセイ《Listening》[58]を書いている。その冒頭で彼は、「聴覚(hearing)は生理的現象であるが、聴取(listening)は心理的行為である」と述べ、さらに三つの聴取の形態——意識(alert)、解読(deciphering)、意味作用(signifying)——に分類した。最後の「意味作用」について、彼はこう述べている:「この聴取は主体間的な空間において生じるべきである。すなわち『私は聞いている』ことは同時に『私の言葉を聞け』を意味する。」

この見解は宋代の詩詞とも共鳴する。黄庭堅が潺潺たる水音を聴くとき、それを風雨の音と聞き違えるのは、実際には彼が自らの心の声を聴いているからである。彼は陸機『文賦』に描かれた執筆の最高境地に到達しようと努めた。その第一歩が、知覚を内面化し、外部の刺激から心を解き放つことだった。[60] これこそが「収視反聴」と呼ばれるものである。[61]

東漢初期の道教においても、「反観内照」は『太平経』が繰り返し強調した重要な概念であった。道家も儒家も、ともに知覚の内化こそが物我一体の境地に至る唯一の途であると考えていた。歴史上、ごく少数の大詩人だけがこの境地に達したが、その一人が東晋の詩人、陶淵明(約365–427)である。

ある意味で、記号論が「物」と「我」との間に主体間的関係が存在することを強調し、言語の外にある純粋視覚や形式主義的な視覚芸術を拒否することは、中国の懐古詩に見られる基本原則の再確認にほかならない。懐古詩における個人感情の表現は、往々にして集団的文化記憶に根差した文学的イメージに由来する。その前提は、歴史的背景と個人的経験とが呼応しあうことである。最良の例においては、歴史的なメタファーと現前する「如画」(picture-like)が相互に融合する。その融合は、情緒や雰囲気の醸成に表れるだけでなく、表現の方法や形式そのものにも現れる。

王維を崇敬した王士禎(1634–1711)によれば、王維の詩のもっとも顕著な特徴は、彼が一つの能力を備えていたことにある。それは、視覚的イメージを名称や題目、あるいは一見無関係に見える言語記号に転化させながらも、その連想を失わない能力であった。[62]


視覚イメージの言語的および文化的転換

私は董其昌について論じた一篇の文章の中で、文学における一種の奇妙な現象に触れたことがある。それは、詩人が一見無関係に見える地名や人名をイメージとして用いるというものである。

韻律を通じて地名や人名を詩句に組み込むことは、詩的イメージに彩りや情趣を加える常套手段である。晩明の詩人・画家である程嘉燧(1565–1643)の一句は、その典型的な例である:

「瓜歩江空微有樹,秣陵天遠不宜秋。」

この一句は、まったく関係のない二つの地名を並置している点で、絵画における「画眼」の配置に似ている。李攀龍によれば、これは「三昧語」であり、最も肝要なのは頓悟であるという。[63]

強烈な語をもって視覚的想像を喚起すること、それこそがこの種の「頓悟」の核心である。古都・南京は懐古詩に豊かな遺産を残しており、王士禎もしばしば南京に関わる意象を詩に繰り返し用いた。たとえば「白下門」「秣陵舟」といったものがそうである。彼を一躍有名にした律詩《秋柳》や、秦淮河を懐う絶句《秦淮雑詩》などに見られる。[64]

程嘉燧の詩に戻れば、その「如画(picture-like)」の対象は「秣陵秋」である。「秣陵」という語はそれ自体が、教養ある読者にとって、長江のほとりで渡しを待つ旅人の心情に共鳴し、周邦彦の《西河》や辛棄疾の《永遇楽》を自然に想起させるに十分であった。その結果、深い感動を呼び起こし、秣陵の青山に眠る人々の悲歓離合と交錯する感情で胸が満たされるのである。もちろん、そうした詩人特有の多愁善感は、外部の人々には理解しがたいものであろう。

同時に、意象はそのまま他文化に移入されることもあるが、その比喩や寓意は文化によって全く異なる意味へと変貌しうる。例えば、日本の江戸時代(1615–1867)に最も名高い文人画家の一人である与謝蕪村(1716–1783)は、一幅の名作を描いた。日本の研究者たちはこれを淀川風景の写実的記録とみなし、画家の画業を整理する上で重要な作品と評価している。この作品は《柳陰下の帰途》と題されている。(図4)

しかし、この命名は中国の観者にとっては奇妙に映る。なぜなら、この画の主題はすでに蕪村自身の跋文に書き込まれており、それは晩唐の詩人・韋荘の懐古詩、まさに南京を詠んだ詩だからである。本来であれば画題は《台城煙柳》であるべきであった。それが日本的な装飾的様式や夢幻的な色彩で表現された結果、依然として典型的な中国文学的イメージを宿しているにもかかわらず、蕪村の本来の意図は明らかに曲解されてしまったのである。

上述の事例は、一つの文学伝統において慣習化した「如画」(picture-like)的な意象が、他の文化においてどのように曲解され、あるいは消失してしまうかを示している。文化の伝播と転換において、外来の文学的シンボルはしばしば新たな意味を与えられる。

たとえば、中国文学や絵画において古くからある要素「骷髏(頭蓋骨)」は、人生の短さと虚幻性を象徴する比喩として広く理解されてきた。現在、故宮博物院に所蔵されている《骷髏幻戯図》(図5)は、南宋の宮廷画家・李嵩(1190–1230頃活動)によるもので、骷髏の操り人形と観衆(母に抱かれて乳を吸う赤子や、好奇心に駆られて這い寄る幼児)との関わりが、この象徴を暗示している。対向ページの題詩はさらに仏教的な厭世観を強め、画面に皮肉を帯びたユーモラスな陰影を加える。これは元代の大画家・黄公望が晩年(1354年)に作った散曲である:

皮も肉も何一つなく、
苦と愁いばかりを背負っている。
傀儡はなお糸を引かれて戯れ、
仇敵をからかう小さな姿を探し出す。
見破っても恥じるのか恥じぬのか? 呆れたものだ!
まだお前は五里の関所で足踏みしている。

日本では、「傀儡」という語は当初、中国に起源をもつ演劇的伝統を意味していたが、江戸時代には遊郭の芸妓を指す言葉となった。[68–69] この用法はおそらく中国に由来するものであろう。唐代の段成式(803–863頃)の志怪小説《酉陽雑俎》には、唐代の大臣・姜皎(722没)に関する奇談が収録されている。[70]

京兆尹の貴人であった姜皎は、しばしば禅定寺の宴席に赴いた。ある夜宴で、彼は一人の美しい歌姫に心を奪われた。だが、その歌姫は酒を注ぐときも、髪を整えるときも、手を袖に隠して決して見せなかった。不審に思った客の一人が酔いに任せてからかい、「まさか六本指じゃあるまいな?」と手を掴んだ。すると袖が落ち、露わになったのは人間の手ではなく、白骨だったのだ。

「浮世」と称された江戸時代の世俗文化もまた、芸妓たちが厚化粧の顔に浮かべる仮面めいた笑みを「傀儡」と重ね合わせる余地を持っていた(図6)。もしこのイメージに「如画」性があるとすれば、それはむしろ破壊的なものであったに違いない。中国美術には、イギリスの画家オーブリー・ビアズリー(1872–1898)の《サロメ》に見られるような頽廃的な美は存在しない。李賀(791頃–817頃)の詩や、羅聘(1733–1799)の絵にさえ、日本の歌川豊国(1769–1825)や月岡芳年(1839–1892)が描き出した陰鬱な色調の腐朽と死の趣味は見出せない。

日本の伝統文化に独自の「武士(殉道)の精神」は、美と死の結合そのものである。教化的な役割を担った骷髏イメージが中国から日本に伝わり、さらに仏教説話の怪異的・暗黒的な要素と融合すると、それはまるで中世の荒廃した廃墟や、月光に照らされた沼地から立ち上る蒸気のようであった。そのとき、人々はようやく伊藤若冲(1716–1800)の《草むらに横たわる骷髏》(図7)の意味を理解したのである。

ある見解によれば、この作品は上田秋成(1734–1809)の《雨月物語》の一篇「青頭巾」の挿絵として描かれたという。「青頭巾」の筋立てはこうである。山奥に暮らす一人の僧が、美少年を養子にして溺愛するが、その少年は病で早逝する。僧は狂気に陥り山鬼と化して、村人を襲うようになる。やがて一人の禅師がこれを知り、彼に玄覚禅師が作った《永嘉禅師証道歌》の二句を授ける。

江月照り、松風吹く。
永夜の清霄に、何を為すべきか。[72]

幻想を打ち破ることでのみ解脱は可能である。狂僧はこの理を悟り、ついに邪念への執着を克服する。その瞬間、鬼魂は跡形もなく消え、ただ青頭巾と白骨が野に残された。

『雨月物語』においては、肉体こそが解脱の障害であり、魂魄から切り離された骷髏は救済の象徴であると同時に救済そのものでもある。すなわち涅槃が究極の勝利である。これら中国と日本の意象には共通の図像学的源泉がある――「釈迦八相」のひとつ「降魔変」である。ここでは、瞑想中の釈迦を誘惑しようとした天魔の娘たちが恐怖のあまり骷髏へと変じる。したがって、骷髏は幻影であると同時に現実でもあり、それは作者が何を表現したいかにかかっている。

日本の作家・夏目漱石(1867–1916)もまた、夢の中で自らが骷髏に変わるという特異な体験を詩に描いている。彼はその感覚を、寒々しい夜、冷気に包まれた石の寝台に横たわることにたとえた。このカフカ的な変身はあまりにも残酷で生々しく、唐宋期の中国文人には到底理解できなかったであろう。


文化差異と収斂における視覚的イメージ

しばしば、一つの「如画」(picture-like)と呼べるイメージは、ある文化伝統の下で解釈されるだけでなく、まるで分光器にかけられたかのように、異なる文化伝統のなかで別の意味を分解されて読み取られることがある。

例えば、6世紀の鮮卑部族──タタール族によって歌われた伝承民謡『敕勒歌』の冒頭は、こうである:

天蒼蒼、野茫茫、風吹草低見牛羊

このような景色は、間違いなく「如画」的な性格を帯びている。[75] 内モンゴル草原において、最も人々の心を動かす文字表現として伝わってきたこの民謡は、長城の内外で異なる解釈を受けた。『北斉書』によれば、この歌は東魏武定四年(546)に初めて記録され、敕勒民族が故郷のバイカル湖南から内モンゴル陰山山麓に移住して十数年が経過したころであった。歌には、遊牧民の故郷の草原への懐旧が色濃く反映されている。内モンゴル東部・慶陵の聖宗(在位983–1031)の墓内に描かれた、遊牧民の行営を描く壁画は、この「春水秋山」(図8)の光景が部族貴族にとっていかに重要であったかを示している。彼らはその景色を死後の世界にまで持ち込みたいと望んでいたのである。[76]

しかし、宋代の『楽府詩集』を編纂した学者・郭茂倩(1041–1099)は指摘する。北斉の時代に、鮮卑族が『敕勒歌』を歌った際には、この民謡はすでに遊牧民族の原語から漢語に翻訳されていた。これにより、視覚イメージの意味は文化的伝統によって徐々に変化し、最終的には全く異なる解釈に至ることが避けられなかったのである。

同じテーマ、たとえば水鳥を狩る牧場や湿地は、遼の墓の壁画では部族の象徴として描かれたが、長城の向こう側では背景として、遊牧民の生活を記録する用途に転じることがあった(例:『胡笳十八拍図』、図9)。[77] 後世の美術史家は、このような塞外テーマの絵画を「蕃馬」科として分類した。しかし一方で、盛唐の詩人・高適(704–765)や岑参(718–770頃)らの辺塞詩に頻出する場合、それらの基調は詩人の政治的キャリアや個人的経験と混じり合い、もともとの意味──原始草原の広大さや素朴さ──から離れてしまった。

それでも、『敕勒歌』は文化的シンボルとして宋代の絵画や詩に引き続き登場する。その最も有名な例は、おそらく李公麟(1049–1106)が元祐二年(1087)に描いた『陽関図』である。画巻の内容は、伝わるところによれば王維作の古琴曲『陽関三疊』に基づく。この曲が作られて以来、陽関は塞内文明の最後の拠点として象徴されてきた。[78–79]

「塞外」に足を踏み入れることは、文明世界を永遠に離れることを意味する(化外)。巻末で黄庭堅は題詩にこう書き残している:

断腸の声に形影なし、
画は無声を出だすもまた断腸。
想い得たり 陽関は更に無語、
北風 低き草に牛羊を見る。

明らかに、詩の最後の一行は『敕勒歌』を引用している。黄庭堅にとって、形影のない琴曲『陽関三疊』と無声の絵画『陽関図』はどちらも観者に断腸の悲しみをもたらす。時間芸術(琴曲)が空間芸術(絵画)へと変換される際の強烈な衝撃は黄庭堅を打った。しかしその地点で、彼の詩情は一転し、離別の悲哀を草原の無限へと昇華させ、時間と空間の衝突を巧みに和らげている。

文化の移植と同化は、しばしば「視野の融合」を伴う。これは、民族や社会が自らを絶えず再認識し、再評価し、改善していく過程でもある。

10世紀の遼代の墓(遼・葉茂台7号墓、遼東)から出土した一対の画軸は、その典型例である。二軸は風格もテーマも全く異なる。[80]

一つは『竹雀双兔図』(図10)である。画面は左右対称に構成され、唐代の金銀織物に見られた道教的シンボルに由来する。この花鳥画の表現スタイルは北宋ではすでに廃れ、代わって北宋初期の辺鸞(785–802)による折枝花鳥様式が主流となっていた。しかし、北方の契丹の画家は忠実にこの旧来の様式を踏襲している。

もう一つの軸は『深山会棋図』(図11)で、画風には宋初の地域性が見られ、李成(919–967)の流派に属しつつ、道教的色彩も濃厚である。表面的には風俗画であるが、実際のテーマは道教の三十六洞天の一つを描いたものである。遼代山水画に現れる「洞天」の符号は、榆林窟3号窟の西夏壁画『文殊菩薩変相』(図12)[81]と非常に類似しており、断崖・石窟・松林などの視覚要素や山石の皴法も共通している。このことから、宋代において、南北問わず絵画のスタイルには共通の起源があったと推測できる。敦煌から喀喇浩特、さらに遼東半島に至るまで、道教仙山の図像が遊牧民族の仏教世界に浸透したことは、視覚イメージが言語やイデオロギーの障壁を越えうることを示している。この現象は、辺境少数民族の漢化の歴史にも繰り返し現れる。

極端な例では、人々が理想とする自然美の変化が歴史的経過に影響を及ぼすことさえある。1125年、女真族は金朝を建てた。驚くべきことに、漢文化との接触わずか数十年で、この遊牧民の美意識は根本的に変わり、北方湿地の雁や海東青は姿を消し、中国南方の青山緑水が好まれるようになった。1161年、南宋と平和に二十年を過ごした後、金朝皇帝完顔亮(在位1149–1161)が突然南征し、南宋都・杭州を攻めようとした。伝承によれば、彼の南征の本当の動機は杭州への憧れであり、柳永『望湖潮』に描かれた杭州の景色に魅了されたためである(図13)。[83] この逸話は、羅大経(1196–1252以後)『鶴林玉露』などの宋代筆記にも記されている。さらに、完顔亮が密かに使者を送り、柳永の詩情あふれる西湖を描かせたとも伝わる。この遠征は完顔亮の急死により中止となったが、破壊的な結果をもたらした。13世紀の詩人謝処厚はこの悲劇を次のように詠む:

誰か杭州の曲子をとりて謳わん、
荷花は十里、桂は三秋。
なんぞ知らん 草木は無情のものなれども、
長江万里の愁を牽き動かす。[84]

これらの伝承の真偽は不明である。しかし、この詩は後世の通俗文学や民間芸術の中で広く流布した。興味深いのは、詩画の中での西湖の「如画」(picture-like)性が、どうして金代の皇帝をこれほどまでに魅了したかという点である。

この時期は中国美術史における分水嶺であり、二大絵画流派がそれぞれ別の方向に進化していた。一方では、半世紀前に蘇軾が提唱した「詩画一体」の理念──詩と同様に画も作者の自己表現であり、「文人は書画で自らを楽しむ」という考え方──が存在し、『宣和画譜』でも芸術批評・鑑賞の基本前提として採用されていた。

他方、南宋宮廷画家たちは新しい表現方法を模索・確立し、北宋とは異なる審美価値を示していた。彼らは空間の虚実に注目し、陰陽が織りなす光影や雰囲気を重視した。この画風は後に「南宋院体」と呼ばれる。実際、院内外を問わず、文学的概念が「画意」(picture-idea)の共通源泉となって以来、多くの院体画の意象は当時の詩歌の中にも見出せるのである。

ここで注意すべきは、本稿で用いる「如画」(picture-like または picturesque)の概念は、18世紀末イギリスで用いられたものとは異なる点である。イギリスでは画面の粗さや不規則さを重視し、景観の変化が美を豊かにすると考えたが、中国ではこのような美意識は存在しなかった。中国の「如画」は廃墟や荒廃した風景を対象とせず、過去を悼む挽歌でもない。これは文人伝統に基づく独自の趣味であり、一般人より文士のほうが理解しやすい。階級的圧力に背くこともなく、イギリスの社会的蔑視とは無縁である。近代評論家から見れば、イギリスの「picturesque」は、田舎の貧しさや停滞を地方地主階層が美化した産物とされる。[85]

ウィリアム・ギルピン、ユーヴィデル・プライス卿、リチャード・ナイトと異なり、中国の学者は「粗糙」「不規則」といった特定の用語で「如画(picturesque)」を定義したことはない。[186]

実際、13世紀の画家・牧溪や玉涧の山水画では、もはや自然山水の細部描写に重点が置かれず、山水の形象は曖昧化や解体を経て、朦朧とした詩情と微かな基調を表現していた。北宋の学者蔡肇(1119年没)は、前辈李公麟に宛てた詩の中で、自らの漁船を画中に描き入れるよう懇願し、岸辺でひと休みする場を確保してもらおうとしている。詩の冒頭では次のような景を描いている:

鴻雁帰る時、水は天に拍つ、
平岡の老木、尚煙を含む。[87]

「水拍天」を南唐画家徐熙の技法「天水通色」と結びつけて考えると、どちらも平遠景を表現することを目的としていることがわかる。すなわち、水と天の境界を曖昧にするか、地平線を画面の外まで持ち上げる手法である。[88]このような平遠景は董源の『寒林重汀図』(図14)にも見られる。さらに、北宋末の著名な詞人周邦彦の次の二句からも、12世紀初頭の山水画の特徴が読み取れる:

煙中列峯青無数、
雁背夕陽紅欲暮。[89]

前句の色彩と構図は李唐(約1070–1150)およびその流派の画を想起させ、後句は後世の画家・馬麟の細やかで抒情的な筆致を連想させる(日本・根津美術館蔵『燕渡夕陽図』、図15)。

さらに興味深いことに、12世紀の記録に残る詩歌から、特定の描画要素が見つかる。それは絵画を語る詩に用いられるもので、明確な「如画」要素として機能している。筆者はこれを「一抹遥青」と呼ぶ。詩中に見えるこの表現が魅力的なのは、当時の特徴――粗い筆致、自然への親和的視点、雰囲気表現への新たな意識――を示すからである。詩詞を時系列に並べると、同一の「如画」概念に基づく絵画と詩歌が、まるで平行軌道上で高度に一致して発展してきたことに驚かされる。

例えば元豊三年(1080)、蘇軾の門人秦観(1049–1100)が江蘇・泗州を通過した経験を詩に記録している:

渺渺孤城白水環,軸舻人語夕霏間。
林梢一抹青如画,應是淮流転処山。[90]

この詩は、南宋絵画で常用される遠山や岸辺に淡青を加える技法を描いており、意外にも11世紀末には既に用いられていた。徽宗(1100–1126年)の即位以前の話である。

その数十年後、靖康二年(1127)、宰相赵鼎(1085–1147)は宋高宗とともに南京へ逃れる。渡江前夜、赵鼎は秦観の詩とまったく同じ景を目にする:

但一抹、寒青有無中、遥山色。[91]

このことから、当時までに「一抹遥青」は南宋人の集団的記憶に不可欠な要素となっていたことがわかる。発明者が画家か詩人かを特定することは困難である。

顕著なのは、詩歌意象は限られたものしか継続的に注意され、同様のパターンで加工されないという点である。時代の進歩、個人や地域の影響、視覚表現手法の変化が、同一の詩歌意象に異なる姿を与え、その隠喩や抒情内容を覆い隠す。地理や歴史の文脈の中で意象は絶えず再形成され、その変容を整理・把握することで、芸術史や思想史の研究はより説得力を持つ。

例えば、唐代道士張志和の『漁歌子』は文学史上最も敬愛される詞の一つである。後世の無数の詩人が模倣し、日本の嵯峨天皇(809–823)も編纂した最初の漢詩集『凌雲集』に収められた。現在でも小学生の必須詩となっている:

西塞山前白鷺飛,桃花流水鱖魚肥。
青箬笠、緑蓑衣,斜風細雨不須帰。

この詩は蘇軾の「散花洲外片帆微、桃花流水鱖魚肥」に影響を与え、元四家の一人・呉鎮(1280–1354)も「紅葉村西夕照余、黄蘆灘畔月痕初。軽撥掉、且帰欤、掛起漁竿不釣魚」と記した。[93]

ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の呉鎮『蘆灘釣艇図』(図16)は、現存する二つのバージョンの一つである。画中の平和な水墨表現は夕陽に反射して光を帯び、張志和の意図とは大きく異なる。唐の張志和にとって、絵画は表現主義的「行為芸術」であり、鼓笛の伴奏と共に制作されるものであった。同時代の顔真卿(709–784)や詩僧皎然(720–803)もその制作過程を目撃しており、楽の音に合わせて踊りながら「峰を攢じて雨のごとく縦横掃う」水墨を自在に振るった。この手法は後に「潑墨」と呼ばれる革命的・先駆的な技法として発展し、顔真卿の周囲の隠士画家たちによって最初に生み出された。

『漁歌子』を主題とする多くの変種を整理することで、「漁父」のイメージと表現技法の系譜が見えてくる。8世紀中葉の太湖地域の水墨山水運動から、蘇軾の友人・駙馬王詵、さらに元代四家に至るまで、漁父が湖沼を悠遊する姿は文人の漂泊精神の象徴となり、現実逃避の手段の中心に据えられた。漁父テーマの本質は自由であり、創作における芸術家の表現空間を広げる。しかし同一題材でも異なる表現手法による創作は、最終的に「雅俗」の問題を生み、士人の高雅と庶民の庸俗という評価差をもたらす。

中国美術では、漁父や雪景など、一部のテーマが特に雅・俗の二極化を呈する。これは、晩唐の詩人谷(約851–約910)や明代浙派絵画に顕著である。北宋でも、漁父伝統の異なる解釈が注目を集めた。『漁歌子』における「月光河」の意象は、黄庭堅に少女の微笑の比喩として用いられ(「女兒浦口眼波秋」[90])、三十年後には宋高宗によって水中の浮雲の悠然たる映像として(「水底閑雲片段飛」[71])隠逸生活への憧れを表すのに使われた。同一意象の運用は、黄庭堅には友人の蘇軾から茶化され、宋高宗には敬意をもって称賛されるなど、読者にとって非常に混乱を招く結果となった。


玄言詩:絵画空間と山水画の勃興

ここで少し立ち止まり、詩と絵画の概念が相互に融合してきた歴史の軌跡を振り返ってみよう。北宋の神宗や徽宗の時代には、中国画の技法と理論は日増しに成熟し、新たな歴史的挑戦と選択に備える準備が整っていた。文化発展のパターンは南北差の影響を受け続け、4世紀以降、中国画は南北の対立の中で独自の道を模索せざるを得なかった。例えば、北方の儒家・仏家が主導する宮廷・寺院伝統と、南方の道家が主導する山林伝統の対立、また長安の貴族文化と江南の素朴で反教条的な世俗文化の対立である。

盛唐以降、丹青(彩色絵画)と水墨画が独立して発展する状況が生じ、その調和が急務となった。同時に、荊浩(870–930 活躍)が指摘した問題があった。「呉道子には筆はあるが墨がない、項容には墨はあるが筆がない」と。山水画の大時代が到来し、集大成者である李成の手によって、筆と墨、北方の濃墨と南方の淡墨との対立がようやく解消された。

北宋末期、数世紀にわたる試行錯誤と不服の積み重ねの末、詩と絵画はついに蘇軾の天才的理論と実践によって合意に達した。蘇軾は、文人が「三絶」を理想的に理解し人格化する規範を提示したのである。

山水画は当初あまり重視されず、意識形態の「継子」としてその地位は危うかった。だが「言」「象」「意」の三者関係が明確に提示され、強烈な意識形態の衝突が生じると、山水画はようやく日の出を見ることになる。[100]魏晋哲学において、この三者の関係は非常に重要かつ核心的であり、玄学における最も有名な三理の一つとして、魏晋の名士たちによって幾度も激しく議論された。[101]

これらの議論は最終的な結論に至らず、王弼(226–249)と郭象(約252–312)を代表とする学派が段階的勝利を収めることで一応の落ち着きを見た。両者の主な論点は次の通りである。第一に、言語は心中の思いを完全には表現できない(言不尽意)、第二に、人は意味をすでに知っているなら、明言する必要はない(得意忘言)。

この観点から、劉宋王朝初期に純粋な山水画が登場し、玄言詩が衰退したことは密接に関連している。この時期、玄言詩は山水詩に置き換えられ、内面世界の表現により適する形となった。山水画は、人と道の調和を直接的に表現する手段となったのである。[102]

芸術史の観点から見れば、山水画の誕生は詩情の視覚化と直接関係している。山水画とは、詩情を抽出し、限られた空間――すなわち画面――に凝縮したものである。

六朝文人は、漢代儒家の教条主義からようやく解放された。嵇康(約223–約262)が述べたように、彼らは強烈な自我意識を持ち、伝統的礼法や社会的責任を超越したいという渇望を抱き、ただ山水に回帰し、自然の法則に従うことを望んだ。その結果、哲学的には孤独や憂鬱に傾く消極主義が生まれた。伝統的価値観の否定は必然的に空虚と不安を生み、桃花源や永生への憧れを育んだのである。

こうして、自然は伝統や規範を超えて美と喜びを得る新たな源となった。しかし、六朝期の南方風景は必ずしも想像通りの温和で柔らかなものではなかった。初期の山水詩人、謝霊運(385–433)の時代に、山水は初めて探求と注視の対象となったが、それでもなお畏怖すべき崇高さと予測不可能な危機に満ちていた。

乱世に共通するように、当時の政治は不安定で戦乱が頻発し、緊迫感と危機感、精神的自由への切実な欲求にあふれていた。このような要求から、広大無辺の絵画空間が発見され、魏晋期の中国で大きな反響を呼んだのである。画面は、人の精神を物質世界から解放し、果てしない理想の世界へと導いたのである。

解放的第一歩と山水画の誕生
解放の第一歩は、詩情を無限に広げることである。後漢の文学者、東方朔(約前154–前93)の作と伝わる『宝甕銘』(実際には六朝期の作である可能性が高い)では、独立した山頂からの眺めが描かれている。これは中国詩において、鳥瞰視点による全景山水が初めて描かれた例と考えられる。

望三壺如盈尺,視八鴻如縈帯。[103]

唐代に入ると、この鳥瞰視点は詩人たちに空間に関する霊感を与え続けた。李白は特に「大鵬鳥」といった誇張されたイメージを多用し、白居易は夢の中で仙人となることを想像した。

半空直下視,人世塵冥冥。

東海一片白, 列岳五点青。[104]

解放の第二歩は、詩情の無限の拡張に限界を設けることである。つまり、無限に開かれた空間を視覚的に制限し、想像から画面として再構築するのである。この手法はすぐに実現され、当時の詩歌に十分に反映された。例えば、謝霊運は『山居賦』で「羅曾崖于戸里,列鏡瀾于窓前」と記し、門や窓枠を画面として山水を見る手法を確立した。[105]この方法は、同じく山水詩人の謝眺(464–499)にも受け継がれ、「窗中列遠峯」などの表現に見られる。[106]

文学の概念が絵画に移行すると、山水は新たな図像空間を生み出す。室内にいながら「臥遊」し、「披図幽対、坐究四荒」することが可能になった。宗炳(375–443)は、「竪画三寸、当千仞之高」と述べ、視覚の自由により想像力は制限されず、5世紀初頭の中国南方で発見されたこの図像空間は、ルネサンス期の透視法発明に匹敵する重要性を持つと考えられる。

ルネサンスは、ヨーロッパ人が物質世界を絶対的に表現できる手段を持つという神話を生んだ。一方、東晋から南朝宋初期の中国文人は、自然の再現には関心がなく、自身が道と一体になることを重視した。山水は宇宙や心に通じる最適の入口であり、山水画の視覚的イメージを通じて、玄言詩が言語では触れられなかった境地に到達できる可能性があった。[109]

これに比べ、秦漢期の初期叙事画は歴史や神話を装飾として描き、楼閣の壁を飾るものであった。六朝期の山水画は、主観的に創造された絵画空間によって理想世界への窓を開く試みである。山水が初めて絵画の主題として定義され、人の心の窓に浸透するまでには困難が伴った。

私は王維の詩を特に敬愛しており、動的な空間を表現した卓越した例と考えている。例えば「大壑随階転、群山入戸登」では、無限の山々が有限の想像に収められ、自然物象を主観的に変換して山脈や丘壑に動勢を与え、画面全体から「気韻生動」(謝赫六法第一法)が感じられる。

驚くべきことに、謝霊運の時代にはすでに自然の変幻や内心の波動を投影する考え方が実践され、鑑賞されていた。初期の山水画と山水詩では、時空の変化が急激かつ極端で、上方や遠近の変化が特徴的である。このことは、当時の動乱と緊迫感に満ちた時代背景と符合する。

周亮工は『書影』で謝霊運の山水詩を評価し、四文字で要約した——「登山涉水」。詩中にはこうある:

朝旦発陽崖,景落憩陰峰。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。
側径既窈窕,環洲亦玲瓏。
俛視喬木杪,仰聆大壑淙。
…[112]

この南朝宋元嘉二年(425)の詩では、詩人は一瞬前に山頂に登り、次の瞬間には深谷に落ちている。空間の変化が急で突発的であること——上下や遠近——は中国批評家だけでなく、西洋文学史家フランシス・ウェストブルックの注目も引いた。

根本的には、探求の躁動、時空を超えたいという願望、「忘言」への憧れ、「山水以形媚道」や「以一管之筆、擬太虚之体」への希求が、初期中国山水画の勃興を促したのである。画面内に複数の視点を同時に描く手法、例えば初唐・盛唐敦煌壁画で見られる「三遠」(平遠・高遠・深遠)の併置により、南朝や初唐の詩に存在する対立と均衡を活かして、二つ以上の相対的なイメージを統合したのである。

実際、前述の複雑な空間概念は、『楚辞』における南方の伝統や初期道家の天地観に由来する。また、謝霊運の詩のように突如として変化する空間は、古代の意識形態や言語現象を示すだけでなく、『詩経』における「賦比興」の「興」を継承しており、この変化の理論的基盤にもなっている。[115]

『詩経』や『楚辞』では、上下・遠近・左右・前後などの方位は相対的であり、相対的であることが必ずしも矛盾を意味せず、そもそも方位そのものも固定的ではなく相対的である。これは漢・唐の装飾芸術にも見られる特徴である。『九歌』において屈原が視点の変化を多用して叙事するのも、幻想的な巫術世界では現実と想像、時間と空間の境界が明確でないためである。

この相対性の概念は、西洋語の発展においても古い中性語が後に相対的な品詞を与えられたことと類似している。そのため、最初に来華した宣教師マテオ・リッチ(1552–1610)は『天主実義』の中で、『詩経』大雅・文王篇の「文王陟降,在帝左右」が天国と地獄の存在を示すと指摘した。

これに対し、中国の学者である王国維(1877–1927)らはこれを否定し、「陟降」は天国と地獄を意味するのではなく、上昇・下降の方向は文脈次第であると述べている。これは、中国伝統における二元関連律名学が、初期山水空間概念における相対性に影響を与えたことを示す例である。

謝霊運の時間感覚の錯乱
謝霊運の詩『石門新営所住四面高山回溪石瀬茂林修竹』は、荒唐ながらも絶妙である。

早聞夕飆急,晚見朝日暾。[118]

詩中の早晩の錯乱は二つの解釈が可能である。第一に、詩人が意図的に時序を逆転させ、現実の合理性を覆した場合。第二に、別の評論家によれば「山中では常識の区別が曖昧になる」という場合である。いずれにせよ、上海博物館所蔵の錢選(1239–1299)《浮玉山居図》の古意あふれる画面を想起させる。

謝霊運の後、李商隠の『燕台詩四首』にも同様の時間錯位が見られるが、今回は都市が舞台である。

醉起微陽若初曙,映帘夢断聞残語。[120]

学者の葉嘉瑩は、この詩について「日没は現実、夜明けは幻覚。夢覚は現実、残語は幻覚」と解釈している。詩句の中で光と影は静かに移動し、複雑なモザイクのように無数の視覚・聴覚のイメージが組み込まれている。ただし、この時間の錯乱は詩人自身の意図によるもので、謝霊運の自然への没入や忘我とは異なる。

視覚イメージの形成には常に時間が関わる。目は視野の中で一箇所から別の箇所へと移動し、まるで旅をしているかのようである。したがって、視覚イメージは時空を測る道具としても機能する。中国詩人は季節の変化や時間の流れに敏感であり、六朝から唐宋にかけて、光陰の飛逝や人生の短さを表現する際、遠山に沈む夕陽「遠峰隠半規」が最も一般的な象徴として用いられた。

李商隠の「夕陽無限好、只是近黄昏」では、夕陽は一日の終わりだけでなく、天地の果てをも象徴する。李觏(1009–1059)の『郷思』も時間観察を含む詩である。

人言落日是天涯,望極天涯不見家。
已恨碧山相阻隔,碧山還被暮雲遮。[121]

すべての人は旅人であり、夕陽は長夜への中継点に過ぎない。仏教の浄土信仰において、落日は瞑想の対象であり、日想観は阿弥陀仏が韋提希夫人に勧めた十六観法の一つである。敦煌莫高窟172号窟の壁画(図17)では、落日が『観経変相』の一部として曼荼羅の左上に描かれている。

盛唐期には、落日は一般的なテーマであり、敦煌や日本正倉院所蔵の唐代琵琶、京都東寺の初期山水屏風などにもその姿が見える。詩において夕陽は想像上の故郷であり、絵画では平遠山水の地平線の消失点として天地をつなぐ役割を果たす。

私は『李成と北宋山水画の主流(上)—李成略伝』の中で、「平遠法」の背後にある儒家的影響を論じた。高度と深度を融合し、時間と空間を中和させた平遠山水には、儒家の「和」の美学理想が表れている。それは観者が無辺無際の空間の中で静寂を楽しみ、自身と宇宙との調和を体感することを暗示しており、道家が追求する「高遠」の浪漫や劇的演出とは対照的である。[123]


感覚の融合

大乗仏教が中国に伝来する以前から、中国人は異なる感覚を融合させることで文学に非凡な効果をもたらせることを認識していた。東漢の馬融(79–166)は、視覚を用いて音楽を描写した最初期の人物の一人とされる。『長笛賦』ではこう記している:

「爾乃聞声類形、状似流水、又象飛鴻。」[124]

飛鴻(帰る鴻)は、初期中国の詩人が特に好んだ対象である。竹林七賢の首位、嵇康は戦地に赴く兄のために詩十五首を作り、その中で最も有名な詩において、優雅な士人が琵琶を奏でながら自由な姿勢で空を見つめる様子を描いた。[125]

この詩句を後に顧ト之が読んだ際、深く感動し、有名な画論を著した:

「手揮五弦易,目送歸鴻難。」[126]

「目送帰鴻」の難しさは「送」という字にある。視線が鴻を追う過程は、無数の場面からなる動的な場面を構成しており、これを描くには卓越した想像力と画技が必要である。東晋時代の顧ト之にとってさえ困難であり、宣和画院の画家にとっても容易ではなかった。

それでも、以降の数世紀、多くの詩人が挑戦を続けた。例えば唐代の詩人、錢起(約722–780)は、飛び去る鳥のイメージを用いて、夕風に響く鐘の音を想起させようとした:

「欲知声尽处,鸟灭寥天远。」[127]

錢起の視覚と聴覚の融合は、杜牧(803–852)の詩に比べると未熟である。杜牧は、飛び去る鳥を通して止めようのない時間を象徴させた:

「長空淡淡孤鳥没,万古销沉向此中。」

杜牧の詩では「長空」が時間の流れを象徴しており、前述の落日同様、一日の終わりや天地の尽きることを示す。仏教では感覚は相互作用すると考えられており(六根互用)、耳で色を感じ、目で音を聞く能力は菩薩や羅漢、一般修行者も潜在的に備えている。この考え方は『妙法蓮華経』の『法師功徳品』における論点の核心でもある。[129]

他の仏典、例えば『大般涅槃経』や『首楞厳経』でも同様の考えが述べられており、唐宋時代の仏教徒学者の多くもこれを理解していた。

視覚と嗅覚の文学的表現
それでも、明末の文人、張岱(1597–約1689)は、蘇軾の詩画理論に疑義を呈した。彼の根拠は王維の詩にある:

「山路元無雨,空翠湿人衣。」

雨や水気を描かずして、読者が湿り気を感じることができるか、という問題である。清初の評論家、葉燮(1627–1703)は可能と考え、『原詩』で杜甫の「晨鐘雲外湿」を引用して証明した。鐘の音は聴覚であり、どうやって湿り気を感じさせるのか。一部の人は誤写だと考えたが、葉燮は「雲を隔てて鐘を見ることで、音の中に湿りを感じる。妙悟天開、至理実事に従い境地を得る」と述べ、これは明らかに仏教の「六根互用」の発想に由来する。

文学には、視覚では表現できない「画意(picture-idea)」の例が多い。中でも嗅覚は最も視覚化が難しい感覚である。だが、現代心理学・生理学の研究によれば、絶対ではない。例えば、唐の詩人、盧照鄰(約630–約689)は蓮の開花を次のように描いた:

「浮香繞曲岸,圓影覆華池。」

「繞」という字は香が空間を流れる感覚を与え、「覆」は蓮葉の立体感を示す。嗅覚が蓮葉の丸い形を連想させるように、篝火の香りが黄石国立公園やアルプス山脈を想起させるように、香りが視覚を喚起するのである。盧照鄰の絶句は、19世紀ドイツ浪漫主義作家E.T.A.ホフマン(1776–1822)の音楽文学『クライスラーの音詩クラブ』を想起させる:

「その香りは花火の中できらめき、神秘的に円を描くように絡み合う。」[132]

盧照鄰は嗅覚で視覚を示し、ホフマンは嗅覚で音楽を示した。このような試みは中国とヨーロッパ両文化で何度も行われ、言語や聴覚を視覚と融合させ、普遍的な詩意と感覚を結びつけることが試みられた。

詩画融合の共通基盤
これら感覚の融合試みの多くは、創作の意図に照らせば成功は稀である。しかし、この失敗の多さこそ、次の重要な結論を示す:
・中国詩画の有意な関係は、両者の共通性に基づくべきである。
・この共通性は、漢代から元代にかけての発展過程で現れる「如画(picture-like)」である場合もある。
・宋代以降の院体画・職業画では、「画意(picture-idea)」が推進力となる。
・近代では王国維が『人間詞話』で提起した「境界」概念がある[137]。
・さらに「興(古典文学・芸術の最高原則)」も依然として完全には解明されていない[138]。





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 中国絵画の特質 詩書画一致について   2025.9.3作成 

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