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 宋 米芾 虹県詩巻と呉江舟中詩巻

虹県詩巻について
行書虹県詩巻 紙本 31.2×487.7cm 東京国立博物館
七絶、律各一首、37行、125字 崇寧五年(1106)頃

 米芾の自作詩を晩年の枯れた行書の大字で書す。詩は、「旧題詩」では虹県の運河沿いの風光温雅なさまに高揚する心、「再題詩」では名誉ある任官のため都に上る途中、過去にいくたびも通った経由地点の虹県の船上で老年の感慨を述べる。
 前半の詩にみえる過去の華やいだ遊覧の心と、後半の老年に達した人生の経由点として暗喩される運河の船旅の感慨と、対照的な思いが同じ場所で時間的に積み重なり陰影をかもしだす。それにともない大字の書も、巻の展開の流れの中で、前半の粗と後半の密、虚と実、枯と潤が対照的に、変化の妙をつくしながら移り変り、詩の内容と交響し、米芾が晩年に辿りついた類いまれな深さをもった陰影をかたちつくっている。

虹縣舊題云:
快霽一天静淑氣, 快霽一天、淑気きよし
健帆千里碧楡風。 健帆千里碧楡の風
滿舡書畫同明月, 満船の書画と明月と
十日隋花窈窕中。 十日隋花、窈窕の中

再題:
碧楡緑柳舊游中, 碧楡緑柳、旧遊の中
華髮蒼顔未退翁。 華髮蒼顔、未退の翁
天使殘年司筆研, 天は残年をして筆研を司らしむ
聖知小學是家風。 聖知の小学これ家風

長安又到人徒老, 長安また到らんとせば人徒らに老ゆ
吾道何時定復東? 吾が道、何れの時か定めて復た東せん
題柱扁舟眞老矣, 扁舟に題柱す、真に老いたり
竟無事業奏膚公! 竟いに事業の膚公を奏するなし

「虹県」 安徽省泗県の旧名(北宋の淮南東路泗州)、汴水の上にある。米芾が汴京と潤州を往復する時に必ずこの地を経由した。(米芾略年表地図参照)
「碧楡」「隋花」「碧楡緑柳」 虹県を走る隋堤(隋陽帝が開いた運河)沿いの楡や柳を指す。
「滿舡書畫」 米芾は所蔵のお気に入りの書画を船に積んで「書画船」と呼んだ。
「天使殘年司筆研」 書画学博士に任ぜられたことを指す。(太常博士説もある)
「長安」 汴京を指す。
「奏膚公」 大きい功。小雅六月に「以奏膚公」とある。


虹県詩巻の原状
 「白綿紙」(呉升)といわれる横約50センチのやや褐灰白色の加工紙10紙をつないだ上に、濃墨の筆を走らせる。傷んではいるが大きな破損はなく鑑賞にさしつかえない。呉升は「宋印十一方」と述べているが、現在古印は3方であり、前後にやや欠けている所があったのだろう。
 以下、各紙ごとの行の構成と鑑蔵印のおよその配置をあげる。(「は、墨継ぎと見える個所を示す)

 (第1紙 47.1 約3センチほど短い)
 “済北詹氏珍蔵”“忠傑印”(半印)
 “世杰長寿”“世杰珍蔵”“竹銘 雲過眼之物”“王鴻緒印”“儼斎”
 “曹溶鑑定書畫印”“睫庵精鑑”
 “ 白章佳氏”“世杰之印”“竹銘所蔵書畫金石 堂”“王氏家蔵”“完顔景賢精鑑”

虹縣
舊題
云:快
 (第2紙)“竹銘”瓢印“米芾”朱文印“済北詹氏珍蔵” 以下各紙継ぎごとに同じ押縫印
 霽一
 天静
 淑
 (第3紙)
氣,健
帆千
里碧
 (第4紙)
楡風。
 滿舡

 (第5紙)
 同明
月,十日
花窈
窕中。
 (第6紙)“竹銘墨縁”
再題
碧楡緑
柳舊游
 中,華髮
蒼顔
 (第7紙)
 退翁。天
使殘年
司筆研,
聖知小
是家 (第8紙)
風。長安又到
人徒老,
吾道何
時定復
 (第9紙)
東?題柱
扁舟眞
 老矣,
竟無
 (第10紙 34.5 約15センチほど短い)


 公!“米芾”朱文印
  “ 高 斎珍秘”“伯謙寳此過于明珠駿馬”“霍丘裴景福伯謙印”
  “竹銘”“王氏家蔵”“ 珍”“鶚禮珍蔵”“曹溶珍玩”
  “世杰収蔵之印”“竹銘 雲過眼之物”“王與吾印”“慎庵”“竹銘”連印
  “竹銘墨縁”“竹銘眼福” 1印不明 “徳軒圖書之印”
  “味經書屋所蔵書畫印”(張燮1753-1808?)“子孫永保”“儼斎秘玩”“  秘笈”


 こうしてすぐわかる字の配置の構成は、第4紙まで各紙3行2字の大字を基本にしていたのが、第5紙で4行2字3字に転調し、「再題」の詩を書く第6紙以降は3字を基本に1紙5行ほどに切迫した高揚感をつくり、行間がゆるやかになりながら第9紙で再び4行3字2字に転調し、終息していくといった、空間と時間の展開があることである。
 また《呉江舟中詩巻》と違い、基本的に各紙にほどよく収まるように展開していることであり、後半の切迫した第7紙第8紙間の紙継ぎ部分に、例外的に「學是家」が跨がる。  墨継ぎを示した「の位置については異見もありえようが、各紙の字の配置の構成と呼応するように、第1紙は少なくとも各行ごとに慎重に墨継ぎをしながら始め、「舊題」の始まる3行目以降第2紙まで、突然息をながく墨継ぎをせずに「淑」まで、繊維のけば立ちの多いこの紙に特有なかすれをつくり、第1紙から第2紙にかけ、濃淡と潤枯との絵画のような印象的な効果を出している。その同様な濃淡と潤枯のリズムが第3紙第4紙では気持ち切迫し、第4紙の2行めのかすれから、3行めは今までにない濃墨で「書畫」を書く。
 以下「舊題」以降の後半は、時に行途中で継ぎながら、基本的に各行ごとの墨継ぎで行の下部を少しかすれさせながら、前半の粗の部分と後半の密の部分の濃淡の変化をつける。これも全体の絵巻のような絵画的な効果をつくっている。


西川寧「米元章の虹県詩」を読む
 この文章が『書品』に発表されたのは1964年であるが、今なお《虹県詩巻》についてのまとまった緻密な考察として重要である。かつ、一つの歴史的な書の名品に対して、どのように言葉のモノローグを展開するか、という点についての良い手本ともなる文章である。以下煩を厭わず引用しながら、書に対する分析の方法、鍵となるものを学んでいきたい。
 本文は
 「出あい」(書に対する主客の体験)
 「虹県詩のおもしろさ」(第一印象から入る書自体の造形的な分析)
 「晩年の合作」(書の史的な考証と位置付け)
 「その他のこと」(落款、跋、収蔵印、著録などについて)
 「米書の変遷」(作家の生涯での書の変遷) の五つに分かれる。

「出あい」では、少年時に拓本で「痛烈無比」の印象をもったことなどが語られる。西川寧自身にとって、この作品が少なからぬこだわりをもったものであった。
 私も東京国立博物館に希れに展示されるおり、そのすぐれたたたずまいが気にかかっていた。中国の書法史を代表する書家の晩年の大作であり、巻尾には金人の貴重な跋があるにもかからわず、重要文化財などの指定もなくひっそりとしてあるのを訝しく思っていた。
 あるいはここにあるような博物館に所蔵される前のいきさつのためもあるのだろうか。

「虹県詩のおもしろさ」
 まず全体の印象を、西川寧独特の鋭い感覚的な把握でつかみ出す。
この巻は、米書としては、むしろ、いつもの気負った熱っぽい筆と反対の、手放しのところから生まれるうらさびたものが底からうき上がってくる
 次に紙筆墨の最も物に即した基本の材料技法について洞察する。
やはり綿紙の一種 こうした紙で、筆は多分ややこわ目のものに、濃い墨を少なめにふくませて、例の快速で書いている。だから文字は細身でとかくかすれ勝ちになる。
 ついで作品の分析に入る。ここでも豊かな経験と研鑽に裏打ちされた鋭い感覚と一体になった理性が、江戸ことばのいいまわしをともなって活躍する。
1-3行「紙の上下もあけ気味に、少し不精無精に書き出し」「ややいじけたような字」「その無精そうな姿が大へんおもしろい
4-6行「ひどくかすれながら、急に張り切った筆力となり、最後の淑字は墨がおもいきってかすれたままに、一字で一行を占領する。ぐっと長く引いた縦の筆をはね返して、最後の点へ蹴あげる。そうした筆の軌跡が一本一本の毛すじで、きわどく現れている。」「まだいけるぞと意地を張った筆者の気持ちを想像してしまう
いままでが書巻の導入からはじまり、これから本格的に展開する。
さてここから米書特有の堂々たる気格が発揮されはじめる。七・八・九行は毎行二字、一字ごとに墨をつけたものか、墨と飛白の適度な諸調である。その次の「楡風」をかきおえると、次の「満航」の一行はまた墨をつけずに一気に続ける。次の「書画」は二字ともたっぷり墨をつけて、ほとんどかすれなしに黒々とやる。その次の第十三行でまた適度のかすれを出す。そして次の行から一行三字ずっとなり、これから十八〜九行というもの、もう今までのようにひどい飛白を見せず、ずっと適度のかすれと適度の墨色を絢いまぜ、やや行間をつめ、また時々無精に、しかしまた時々最も米法らしい理屈を見せながら一気に進める。そして再題の第二首の最後の段にうつろうとする所から、やや放埒な筆となり、再び一行二字ずつ、しかし始めの段とちがって紙の上下いっぱいに、行間ものびのびと筆を放って、四・九メートル(十六尺)に及ぶこの巻を終えている。
ここまで的確に全体の展開の具体的な諸相を記述する。以上の展開の特徴をまとめると;
字の形、こころ意気、墨の度合、字間・行間の配分などの、こうした変移は、この長巻の効果を全く一つの交響曲に仕上げている。もっともこれは自然におこる精神の躍動のうつし絵である。計算の上に組みあげた演出ではない。今の日本の書家がよくやる、ふみ違えた装飾趣味のいやらしさと全く反対のものであることを考えなければならぬ。
 空間と時間の展開である書巻の効果を「交響曲」に例えるのは魅力的であるが、今は深入りをしないでおく。天才の作に特有な細部にいたるまでもゆるがせにしない、変化の妙があり、それが米芾の理想とした「平淡天真」の作為のない境地でなされていることに注意を向ける。
 次に一字一字の特徴を観察していく。
最初の出からもう一度見なおしたい。「虹縣舊題」の二行は大分無精である。米書としては珍しい萎びた宇である。そのしなびた「虹」の宇など、じっと見ていると、つきもののように見える。「縣」の左肩の縦の筆が思いきり左にまがる。そこへ右傍の系がよれよれの身をせばめてぐっと依りそう。くず紐を掌中に丸めたような不思議なからみ合い。「舊」の第二の斜めの筆は、筆が立たぬうちにすべっていく。この浮いた筆はいつも見る米書にないめずらしいところである。「再題」詩のはじめにまた一つ「舊」がある。これが米法の本色である。この筆のすべった、気分の張らぬ所にかえってなつかしさがある。ところでこれが三行目から調子にのってくる。「快霽一天清淑」でいつもの米元章が目をさます。骨勢がはっし、はっしとつぽにあたる。底に米法の理屈が動いて見える。ただ一画の骨法とか、一字の構成上の効果を考えあわせた筆法とかいったものが、骨法として、筆法として表面に浮き出した所がない。
 一字の特徴を観察するといっても、「米法の理屈」といった法則を単独に切り離すことなく書全体のなかで表現が考えられている。
米法の理屈は一画を、一字を指導しながら、表面に浮き出さずに表現のなかに沈んでいる。この表現はそうしたものに支えられながら、それをふまえ、それを超えている。若き日の激しい気象は凛乎として高鳴りながら、もう何もいらないというようなこの人の心が静かに自然にゆらめいている。不必要な誇大なものがもう一筆も見えぬ。そうした表現がここに成立する。
群玉堂帖から自叙帖冒頭
群玉堂帖から自叙帖
字の大きさの似通うものとして、ここで群玉堂帖(『書跡名品叢刊』)の大字の部分を比較して見るとおもしろい。墨跡と刻帖のちがいはあるが、群玉堂には熱っぽい、ふてぶてしいもの、日本人にはいやらしく思えるほどの筆法の脂こさがみなぎっている。昔の人が誇張とののしった所、「仲由が未だ孔子にまみえざりしときの風気」とたとえた所である。これがこの巻では表現の下に沈んでいる。こうした姿がずっと続いていて「舊題」の一首をおえる。
終わりに近づくと一行三字だてとなり、行間もやや狭くなり、「再題」に入って、行間はずっとせまり、一字もやや小さくなる。「再題」のはじめの所では、かねての米法が強くあらわれる。しかも同時に理屈をなげた所がいつもつきまとう。「再題」のはじめの三〜四行、「碧楡緑柳舊游中」とか「蒼顔」のあたりには、ものさびた中にも米法としての身のかまえがりっぱに現れている。
しかし「緑」や「華」には扁平になった筆の穂をそのままに押し切る、昔の米書には見ぬ無精があらわれる。「未退翁」あたりからこの無精が横行しはじめる。「翁」「司筆研」「聖知小学是家風」などと皆それである。
ワ冠やウ冠のワ形は、群玉では、第一筆を左へ大きくはらませて強く下ろすと、一度右下へかいこんでから引き出す。時にはかいこんでから更めて強く筆をあてなおす。ここで一度はげしく力むのを常とした。この巻では、「学」も「家」も、この後の「安」も「定」も「膚」もこれをやらぬ。僅かに「家」で昔の面影を見せるが、筆はまことに簡素で、あのかまえた気負いは全くない。
「翁」や「司」の右側の縦画をはね上げる所などを群玉の肉・同・蘭・簡などと比べると大へんおもしろい。この他、風・筆・使・是・髪・老など、この巻と共通の字を比較して見るといい。
この調子は最後まで続く。「再題」の第二首はいよいよ手放しである。「吾道何時定復東」などのがたがたは実にいい。「復」や「東」のこの「充実した放埒」は極まれりである。そして最後の一句を全く手放しの流しものにしている。「奏」のかまえなど昔の米元章に到底考えられぬ投げ出しである。
 《虹県詩巻》にみえる晩年の書の特徴として、
1.扁平になった筆の穂をそのままに押し切る無精。
2.うかんむりの第2画の気負いがなくなっている。
(「米芾の“宀”には全体に波打つようなやわらかみがある。二画目が長く大きく、三画目は右上がりが目立ち、覆勢で書かれ、転折は緩やかな曲線を描き、転折部分の内部にやや大きめの空間がある。」塘耕次『米芾』(下記参考書)から《蜀素詩巻》《苕溪詩巻》の分析)
3.縦画のはねが、「一度左横へ筆をひっかてからはね上げ、かぎ形を作ったもの」(塘)から変質している。
 ちなみに前半部「舊題」の「縣」「霽」「清」の縦画のはねは、「いずれもいったん左へ押し出した後、次画へ向かう「二段ハネ」」、「天」の第三画は「二段ハライ」」であり、この二つは宋代以降、現代につながる基本的な書法となっている、と石川九楊は述べる。(『書の宇宙14』)
4.その晩年の特徴である変質、この「虹県詩のおもしろさ」は、「無精」「手放し」「充実した放埒」「手放しの流しもの」「投げ出し」といった、それこそ際どく常人にはまねのできない印象批評的な形容詞に摘出されている。
 そしてこの書の特徴について、再びまねしがたい「冬の日のように乾き、うらさびた詩情」という形容でまとめる。
宋の四大家の中では一番深く古典を学んで強い骨格をたもち、しかもいかにも宋人らしい気象に支えられながら、しつこい位脂きった肌で、きびしい筆をおろすのが米元章であった。彼の書として他に例を見ない珍しいこの巻の心は、そうしたものから遠く離れた、冬の日のように乾き、うらさびた詩情に他ならない。

「晩年の合作」
 ここでは《虹県詩巻》が、晩年のいつ頃書かれたのかという史的な考証がおこなわれる。
同じ阿部さん御所蔵の行書三帖巻は、近年では『書道名品図録』にのったのをはじめとして、二つの『書道全集』にも『名品叢刊』にものり、その他にもよく引かれるので、この頃は誰にもしられている。あの三帖の第一は充実したもので年若い頃の作、署名の形からいえば四十歳以前、その他の李太史帖・張季明帖の二つの玲瓏たる姿は晩年期のものであろう。虹県詩の放埒はこれよりもう一つ先へいった状態を示す。この中に昔の米法の理屈が時々顔を見せるが、それは大字のためでもあろう。誰でもそうだが、ことに米元章は大字になると、この骨法を強くうち出す。このふかふかの紙に、毛がややこわくて墨の切れやすい筆でやるには殊にこの骨法は必要だったろう。さてこの巻は晩年のいつ頃書かれたのか。
 《虹県詩巻》が晩年のもであるという位置付けに続き、年代の手がかりを詩が書かれた場所からさぐっていく。
虹県は今の安徽省泗県である。この詩をよむと、この「旧題」というのはその昔虹県に行ったときの作、「再題」は後の作で、その間に大分時間の隔りがある。旧題にいう、

快霧一夫、淑気きよし、健帆千里碧楡の風。満紅の書画と明月と、十日隋花、窃究の中。

 まことに花やかで充実した気象である。泗県は安徽の北部の東境に近く、少し東すれば洪沢湖をひかえ、昔は汴河に臨む古い水郷である。昔の汴河は今の商丘から東南流し、夏邑・永城・宿県・霊壁・泗県を経て淮水に入った。隋の陽帝が江都との往復にはこれを通り、唐宋時代東南の穀物を運搬するにもこれを通って繁昌した水路である。この一帯の堤を隋堤という。隋堤には楡や柳を植えたと伝えるが、詩に碧楡といい、隋花というのはこれである。
 再題にいう。

碧楡緑柳、舊澁の中、華髪蒼顔、未退の翁。天は残年をして筆硯を司らしむ、聖知の小学これ家風。
第二
長安また到らんとせば人いたらずに老ゆ、わが道いずれの時か定めてまた東せん。扁舟に題柱す、真に老いたり、ついに事業の膚公を奏するなし。

 これは花やいだ風物を入れた前詩と全く違う白髪蒼顔の暮年の心をうたったもので、わずかに変わらぬ隋堤の碧楡緑柳に昔の思い出をはせている。さてしかし、米の今ある『宝晋英光集』を見ても、『宝真斎法書賛』その他近世の著録、或いは米の書画の今見得る印本、刻帖をさがしても、虹県に遊んだ時期を示す記事は何もないようだ。

 「旧題」の花やいだ詩に引きずられてか、虹県を遊覧の地ととっているようにみえる。「天は残年をして筆硯を司らしむ」が天子による任官を示唆することには、注目していないように思える。
米は四十二〜四歳ころ雍丘(今の河南杞県)の知事となり、四十七・八には漣水軍(江蘇漣水)に官し、五十三〜五歳には無為軍(安徽無為)の知、最晩年には准陽軍(江蘇邳県)の知となった。地理的に考えて、洪沢周辺の泗県あたりに遊びに行くには、漣水か准陽が一番自然である。
 米芾が虹県を訪れた直接史料がないので、虹県を含む泗州という地域の米芾との縁り、都梁の山について考証する。
ところで今の洪沢湖の南岸の盱眙(くい)県の第一山に米元章の題刻が三種ある。一は「張大亨。米芾。丙戌歳」と三行にほったもの、一は「第一山」の三字、一字約二尺に、「米芾書」「晋曲沃仇時古勒石」と款したもの、もう一つは中央に「第一山」の三字、一字六寸程、その左右に「京洛風塵千里還。船頭出汴翠屏間。莫論衡霍撞星斗。且是東南第一山。米元章」と四行に刻ったもの。この第三の詩について古く南宋初期の『苕渓漁隠叢話』に言う。

准北の地は平夷にして、京師より汴口に至るまで並に山なし。ただ准方を隔てて南山あり、米元章その山を名づけて第一山となす。この詩は刻して南山石崖上の崖側にあり。

 この文によって、この山の第一山という名はそもそも米元章が名づけたものであることがわかる。この詩はまた『宝晋英光集』巻四にものせているが、それには「題泗濱南山石壁日第一山」の題がある。英光集にはまた「都梁十景詩」と題する七絶十首をのせるが、その第一にはすなわちこの詩を充てている。

 第一山懐古

 京洛風塵千里還,
 船頭出汴翠屏間。
 莫論衡霍撞星斗,
 且是東南第一山。

  「都梁十景詩」より
第一山懐古
 ちなみに都梁十景また盱眙十景とは以下である:

 第一山懷古、瑞岩庵清曉、杏花園春昼、玻璃泉浸月、清風山聞笛、
 龜山寺晩鐘、宝積山落照、会景亭陳迹、五塔寺歸雲、八仙台招隱。

都梁とは盱眙県の東南にある山の名だが、これがとりも直さず米の第一山であろうか。十景詩の題下の注に「十景は泗州にあり」とする。宋の泗州は今の盱眙の東北にあたり、今は洪沢湖に呑みこまれてしまったが、『宋史地理志』によれば、時の泗州臨准郡は泗州を中心として、ひろく宋の盱眙の西の准平県・招信県、北は臨准県・虹県までを含む地域であった。詩に泗州といい都梁というのはこの広い意味でいったものであろう。
 彼は余程この周辺の風物が気に入って、こうしたものを残したのであろう。ところで、右の第一山の題刻の第一にあげた丙戌とは崇寧五年(一一〇六)米五十六歳の年で、これは彼の歿する前年である。

 米芾が崇寧五年丙戌、都梁の第一山に遊び題刻を残していることから、考証はさらに崇寧五年の事蹟についてすすむ。
翁方綱の『米海岳年譜』では崇寧二年(一一〇三)に無為守米芾書と款する「蕪湖県学記」をひき、三年には無為の記事なく、四年には「守老来芾記」と款する無為軍の「仰高堂記」および無為でかいた「墨池」「宝蔵」の二石刻をあげ、五年には任地の記載がなく、その翌大観元年(一一〇七)に、某月、准陽郡の役所で死んだとし、その下に、今も広西の桂林に残っている方信孺撰『宝晋米公画象記』の「痒生於首。謝事不許。卒於官」の一条を引く。
 翁方綱の記載をあげ、米芾の無為任官時代を崇寧二年から四年以降とする。始めの年である崇寧二年について
「蕪湖県学記」は紀年がないが、翁方綱が崇寧二年とし、同時の銭大昕は、「其知無為軍。當在崇寧三年」(『潜研堂金石文』跋尾)と考えて、この記を崇寧三年とし、『金石萃編』もこれに従っている。
 これは翁説の方が正しい

とするが、崇寧二年が正しいという根拠は示されないまま、崇寧四、五年の考証にうつる。
が、それはさておいて、第一山の丙戌について、『金石萃編』はこの銭説を根拠としてか、「案丙戌爲崇寧五年。米芾以崇寧三年。知無爲。四年知准陽。大観元年卒於官。此正知准陽時也。」という。しかし四年にはまだ無為に守となっていたことは、『英光集』にのせた無為軍の「仰高堂記」に「守老楚米芾記」と款しているのに見ても確かであり、その年准陽に官したとする根拠は見当たらぬ。
 「仰高堂記」の「守老楚米芾記」款を根拠に、崇寧四年は准陽でなく無為にあったと考証する。
 続いて米芾が亡くなる一年前に赴任した准陽任官時代がいつかという考証にうつり、五十七歳という卒年齢から崇寧五年と推測する。
ところで翁方綱は五年の条に官のことをいわず、その翌年に准陽の官舎で死んだことをあげるだけで、准陽にいつ官したかに触れていない。方信孺の『画象記』は簡単なものだが、米年譜に引いた右の条も、方の本文はただ「知准陽軍。痒生於首…」とあるだけだ。ところで、米元章とごく親しかった蔡肇の撰した故禮部員外郎米海岳先生墓誌銘には、

擢爲禮部員外部。復以言者罷。知准陽軍。彌年瘍生其首。上書謝事不許。以某年月日。卒於郡廨。享年五十有七。

という。「弥年」というから任官一年にして死んだのである。死んだ月はわからないが、この五月には章吉老墓表を書いているから五月以後には違いない。准陽に官したのは多分その前年、崇寧五年丙戌(一一〇六年・五十六歳)のことではないのか。

 さらに晩年の政事帖(別名《春和帖》)をひき
ところで政事帖と称される米の手紙(『書品』一一八号)は「芾」字の形からも、文字の様式からも、ごく晩年と考えられるが、その中に、

芾幸安。春入沂水。想多臨覧之樂。只尺何時。從公游。臨風引向。

の語がある。沂水は山東を発して江蘇北の准陽(今の邳県)を通り、末は淮水に流れ入る。この手紙の語勢から見ると、ここに「入沂水」とは一時の旅行ではなくて、つまり准陽に任官したことであろう。「弥年」と思いあわせると、これは歿年の前の春、すなわち崇寧五年の春ではあるまいか。

 沂水と准陽は近く政事帖(別名《春和帖》)は准陽軍時代に書かれたものであろう。
然らば丙戌の年のある日、盱眙西南の所謂第一山に遊んで、この題刻をとどめたのは准陽軍時代となるのであろう。虹県は今の泗県であるが、もともと今の盱眙よりもっと東北にあった宋の盱眙などとともに、潅水……汴水一帯の同じ水郷であり、行政上でも前にいったように同じ泗州臨准郡に属していた。
 政事帖の記載と同様に第一山に遊び題刻をとどめたの准陽軍時代であり、《虹県詩巻》も同じく准陽時代の作であるとする。
晩年書に違いないこの巻に見える再題の詩は地理的に准陽からの清遊の作、あるいは第一山の題刻と同時の作であろうか。従って旧題の作はそれより約十年前の漣水軍時代(一〇九六〜一〇九八年・四十七、八歳)であるか。
 そして《虹県詩巻》が最晩年の作とみてよいという結論を導く。
何にしてもこの虹県詩巻の書写は崇寧・大観の交、米元章の最晩年の作と見ていいのかと思われる。
 《虹県詩巻》に記年がなく虹県を訪れた史料もないことから、盱眙第一山の丙戌題刻から、《虹県詩巻》が最晩年の作という論証を導くものであり、これを西林昭一も精緻な考証とされている(『書の文化史〈下〉』)
 その他、中田勇次郎は《無爲章吉老墓表》と書風が近いことから、最晩年あるいはそれに近い頃の作品とされ(『書道芸術』第六巻)、晩年の作であることにちがいない。
 しかしこれには同じ晩年としても微妙な違いをもつ異説がある。
 一つは徐邦達の、崇寧二年(1103)53歳、3月太常博士に任、汴京に赴く途上「虹県再題詩」を作り、これ以降《虹県詩巻》を書いたのではないかという説(『古書画過眼要録』330頁)。
 もう一つは富田淳の、崇寧五年(1106)56歳、書画学博士に任、汴京に赴く途上「虹県再題詩」を作り、《虹県詩巻》もほぼ同時期に書いたのではないかという説(大阪市立美術館編『エリオット・コレクションと宋元の名蹟』図録解説312頁、曹宝麟『中國書法全集38 米芾』518頁)。
 先にも西川寧の詩の読みの所で、太常博士あるいは書画学博士に任ぜられて赴く途次という視点が欠けていたかもしれない、とふれた。「天使殘年司筆研」をそう解釈する方がより妥当性があり、そこから本稿の冒頭にあげたように、この書の陰影をともなったより深い性格が理解さるのではないだろうか。()。
 太常博士あるいは書画学博士いずれかでは、より最晩年に近い書画学博士に赴任する年のほうが、書の「うらさびたもの」「冬の日のように乾き、うらさびた詩情」によりふさわしいように思える。
 書画学博士に赴任する年がいつかは、また問題が多いようである。
 まず書学博士か書画学博士かもはっきりしない。蔡肇「故禮部員外郎米海獄先生墓誌銘」には「書画学博士」とあり、米芾自らは《蔡襄謝賜御書詩跋》で「書学博士」と書している。徐邦達は「書画学博士」は誤りであるとするが、にわかには決められない。
 書画学博士にいつなったのか、については
崇寧三年(1104)54歳説(塘耕次、西林昭一、それぞれ前掲書)
崇寧四年(1105)55歳説(鈴木敬『中国絵画史 中之一』年譜)
崇寧五年(1106)56歳説(曹宝麟前掲書、富田淳前掲書但し「書学博士」)
と一年刻みで諸説混乱しているようにみえる。
 また西川寧の無為軍時代が崇寧二年から四年、准陽軍時代が崇寧五年から大観元年五月以後の死までという時期についても、異説がありえる。
 こうした晩年の一年ほどの諸説のずれは、卒年が大観元年(1107)か大観二年(1108)か、一年のずれのいずれかに、現在決しがたいことにも、一つの原因があるように思える。
 生卒年について皇祐三年(1051)生、大観元年(1107)57歳卒が、今日、日本ではおおむね通行している。(アメリカでは1052年生1107年卒が通行 『メトリポリタン美術館図録』など)
 しかし謝巍は、皇祐三年辛卯十二月(1052)生、大観元年丁亥(1107)57歳卒をいう。「今日の辞書や著録は、米芾が皇祐三年に生まれたとするが、未だ十二月に生まれたことに注意していない。西暦に直すとこれは1052年(旧暦「辛卯十一月二十六日」は西暦1051年12月31日)にあたる。」(『中国画学著作考録』148頁)
 旧暦と西暦とによる誤差は、伝記をあつかう時にままみられる(例えば金農、李方膺などの生卒年)。それが米芾にもないかどうか、そこで解消される問題がないかどう、確認する必要があるだろう。ただし塘耕次は、すでに「この年の十二月は西暦に置き換えると、実は一〇五二年の正月である。しかし西暦への換算は難しい問題もはらんでいるため(「西暦年への換算について」『中国研究集刊・荒号』阪大中国哲学研究室)、今は通説に従って一〇五一年としておこう。」(前掲書)と述べている。
 旧暦と西暦の換算とそこから派生する問題について、不得手な分野であり困難が予想されるが、今後の検討事項としたい。

「その他のこと」
 落款、跋、収蔵印、著録、拓本についてふれる。
 他に見られない「米芾」朱文印(約4.6cm四方)が末尾ばかりでなく、押縫印として各紙の継ぎ目三分の一下あたり9個所に押されている。押縫印は、所蔵者が裱装をしなおした時によく押されるが、作者自身が押したものは珍しい。あるいは「綿紙」というような扱いにくい紙に、裱装の時に意を凝らしたのだろうか。
 その他、西川寧の記述を参考にしつつ、鑑蔵印、題跋、来歴、著録について次にまとめていおいた。

鑑蔵印:
“済北詹氏珍蔵”“忠傑印”(半印)“徳軒圖書之印”は宋元の古印。その他は清人の諸印。

題跋:
金 劉景文(仲游) 大定十三年(1173)跋
  蔡松年にかけられた吏部侍郎田[穀;禾を王に]の冤罪を劉仲洙が晴らしたことについて
  元好問1190-1257 乙卯年(1255)跋 金第一の詩人の現存唯一の書
清 王鴻緒1645-1723(儼斎、松江人 行草書を善くする) 康煕五七年(1718)跋

来歴:
金 田[穀;禾を王に]→劉景文
明 不明
清 曹溶1613-85(嘉興人 著『金石表』)→王鴻緒…→那彦成(1764-1833 章佳氏、繹堂、諱文穀)文成家に数代→辛亥革命1911の混乱期に流出…完顔景賢1848?50-1927?29(著『三虞堂書畫目』1933)…→裴景福1854-1926(伯謙、安徽霍丘人) 馬世杰 馮公度
…→阿部孝次郎→東京国立博物館

著録:
明 張丑『眞蹟日録』二集
清 顧復『平生壮觀』巻二、呉升『大観録』巻六、呉栄光『辛丑銷夏記』巻二
民国 崇彝『洗學斎書畫寓目記』1921巻上、裴景福『壮陶閣書畫録』1937巻四


「米書の変遷」
 米芾の書風の変遷について、今にいたるまでもたいへん示唆に富む簡潔な要約である。

A─三十歳頃、欧陽詢の影響か、身をそばだてて、かたい姿をしている。
送提挙通直使江西詩 30歳頃
閻立本歩輦図観款 1080年30歳

B─三十歳代の末、米法は確立したが、まだ古法脱せず、また前のめりの奇側の姿で、しこりが強い。
蘭亭八柱第二題款 元祐三年1080年2月38歳
苕溪詩巻 元祐三年1080年8月
蜀素詩巻 元祐三年1080年9月

C─四十歳代、初期は苦渋の筆がまだ多いが、次第に体制が広がり、円熟を見せる。
後期にはいよいよ円熟を示す。米書の一頂点である。
拜中岳命詩帖 1092年42歳
楽兄帖 1094年44歳
草書九帖 1097-9年47-49歳
(名の芾は四十一歳以降使い出すが、この時期には横画を長く書いている。)

D─五十歳代の晩年期。次第に体制は解放されて、気象が清澄になり、五十四、五、六歳となると細身のすがすがしい軽妙を示す。
太行皇太后挽詞 1101年51歳
蘭亭序跋 1102年52歳
獲王略帖書 1103年53歳
王略帖賛 1103年53歳
論造紙書 1103年53歳
蔡襄謝賜御書詩巻跋 1104年54歳
政事帖 1106年56歳
欧陽修集古録跋尾跋 1106年8月56歳
(芾字の横画は歳とともに短くなり、最後の段階では起筆の位置が頭部・胴部とほとんど一直線になり、筆のつっかけが激しくなる。)




呉江舟中詩巻について
行草書呉江舟中詩巻 紙本 31.3×559.8cm メトロポリタン美術館
五言一首、44行、125字

 米芾の自作詩を比較的早年の若くみずみずしい行草書の大字で書す。詩は、呉江を通過する途上、鴬脰湖にさしかかった船で体験した出来事を活写する。
 風向きが変り、船が浅瀬の泥にとられ進まなくなった時の、船曳きの人夫たちの野卑で活力あるさま。交渉が成立し、人夫たちの気持ちを一つにし力を合わせた一引きで頂点に達する。船は風車のように動き、喚声が戦の雄叫びのように轟く。
 動き出した船からは鴬脰湖の広々とした眺めが広がる。さきほどまで泥にとらわれていた船と自分に比べ水の広がりの大きさを思う
 そうした宋人らしい卑近な生活人事と宏大な宇宙をあわせ見る視線をもった内容を、水気の多い筆で大字の書に書いていく。前半は文字の大きさ、角度、筆線を様々に変化させながら進め、一行に一字の大字「戰」で頂点を作り、後半の湖水が広がるにつれ、行間を開けまばらにしながら、最後の落款の文では2字づつひどく縦長にしながら終えていく。

昨風起西北、萬艘皆乘便。 昨風は西北に起き、万艘は皆便に乗じた
今風轉而東、我舟十五縴。 しかし今風は東に転じ、我が舟は十五の縴き手
力乏更雇夫、百金尚嫌賤。 力は乏しく更に夫を雇わんとすれば、百金尚お賤を嫌う
舡工怒鬭語、夫坐視而怨。 舡工怒り語を鬭わし、夫は坐視して怨む
添槹亦復車、黄膠生口嚥。 槹を添え車を復せば、黄い泥は泡を生じ
河泥若祐夫、粘底更不轉。 河泥は夫を祐ける若く、粘底し更に転ぜず
添金工不怒、意滿怨亦散。 金を増せば工は怒らず、意満ち怨は散ず
一曳如風車、叫噉如臨戰。 一曳風車の如く、叫噉すること戦に臨むが如し
傍觀鸎竇湖、渺渺無涯岸。 鴬脰湖を傍観すれば、渺渺として涯ない岸
一滴不可汲、况彼西江遠。 一滴も汲むことはできない、况や彼の西江の遠きにあっては
萬事須乘時、汝來一何晩。 万事須く乗らんとする時、汝は一に何ぞ晩く来たらん
 朱邦彦自秀寄紙、呉江舟中作、米元章
  朱邦彦が秀州より紙を寄す 呉江の舟中にて作る 米元章

現在の平望鎮と鴬脰湖
現在の平望鎮と鴬脰湖
「鸎竇湖」 鴬脰湖のこと、江蘇省呉江県の南にある湖、北は太湖に接する。「鶯脰湖、在呉江縣太湖之南、源自天目、東流至荻塘、會爛溪水、併出平望、淮于此」(續文献通考)「鶯脰湖、去呉縣四十五里、以湖形似鶯脰故名」(大明一統志)
 鴬脰湖は、現在鴬湖と呼ばれ平望鎮南に面し、さほど大きくはないが文人の詩にも読まれてきた風光明美な江南水郷の湖の一つである。平望鎮は宋時代にも運河の中継地点とし重要であり、現在も南北に京江大運河が、東西に太浦河が太湖に通じる要に位置している。


呉江舟中詩巻の原状
 朱邦彦が秀州(浙江省嘉興県)から届けたという横55センチほどの白色の加工紙10紙をつないだ上に、水気の多い筆を走らせる。全体に墨色はやや淡く最濃墨といえども、虹県詩巻ほどは濃くはない。  そこに行あたり4字3字2字と変化をつけて続けている。
 以下、各紙ごとの行の構成と、鑑蔵印のおよその配置をあげる。

 (第1紙)
  “晉府書畫之印”“石渠寳笈”“寳笈三編”“清河”
  “張氏 廬珍蔵”“司印”(半印)
  “顧洛阜”白文“漢光閣”朱文(江兆申刻)

昨風起西   “嘉慶御覧之寳”
北、万艘皆  “晉府書畫之印”
乘便。今
風轉而    “宣統御覧之寳”
東、我舟  (第2紙)
十五縴。
力乏更
雇夫、百
金尚嫌賤。
舡工怒鬭、 (第3紙)
語、夫坐視
而怨。添
槹亦復
車、
黄膠生口  (第4紙)
嚥。河泥
若祐夫、
粘底更
不轉。添金
工不怒、意 (第5紙)
滿怨亦散。
一曳如風
車、叫
噉如臨
戰。    (第6紙)
傍觀鸎
竇湖、渺
渺無涯
岸。一滴  (第7紙)
不可汲、
况彼西
江遠。
萬事    (第8紙)
須乘時、
汝來一
何晩。
 朱邦   (第9紙)
 彦自
 秀寄
 紙、呉
 江舟   (第10紙)“晉國奎章”
 中作、
 米元    “嘉慶鑑賞”
 章     “漢光閣主顧洛阜鑑蔵中國古代書畫之章”朱文(王壮為刻)
(隔水押縫印)“敬徳堂章”“張文魁”“ 廬鑑蔵”“乾坤清玩”
(孫鑛跋上) “文融”“孫鑛之印”“游心太玄”“張氏 廬珍蔵”
  “三希堂精鑑璽”“宣子孫”“宣統鑑賞”“無逸斎精鑑璽”


呉江舟中詩巻の制作時期
 徐邦達は、この巻の制作時期について以下のように、《苕溪詩巻》《蜀素詩巻》を書いたのと同年の元祐三年(1088)38歳湖州に帰る途中、呉江を経た時《呉江舟中詩巻》を書くか、と按じている。
「この詩は『山林集拾遺』に未収録。自識に呉江舟中で作るとあるのは、元祐三年(1088)湖州に帰る際に、呉江を過ぎた時の作であろうか。書法の蒼率恣縦さは《苕溪詩巻》とは異なるが、字形の筆法は欧陽詢と似ている。元豊三年(1080)《方円庵記》との類似から、早中期の筆に違いない。当時、米芾は軽く筆をとりがちだったが、子細に見ると晩年の蒼率老健とは異なっている。」(『古書画過眼要録』)
 また曹宝麟は、元豊五年(1082)32歳、漫遊し杭州へ赴く途中、蘇州を経た時《呉江舟中詩巻》を書いたかと、次のように推測している。
「この詩は猶お多く長沙の習気を残している。例えば『走之底』(「起」字の捺)、『木旁』(「槹」字の木)、『浮鵞鈎』(おつこう、「况」「元」字の勾)などの写法がよく似ている。「來」字の末の点を略している点、および「門」の框えは、《道林詩帖》の「林」「閣」字と同一の機微をもつ。
 呉江の舟中で書いており北へ帰るのは甚だ明らかである。詩はあるいは、元豊五年(1082)劉痒の幕に入ろうとして未だ成らなかった後、漫遊した時の作か。初めは杭州へ赴く道で蘇州を経た時の作かと疑ったが、杭州時代の書と推定される《方円庵記》とはだいぶ違っている。」
(原文:此詩猶多長沙習気。若『走之底』『木旁』『浮鵞鈎』等寫法全似。『來』字末點及『門』之門框,與《道林》之『林』『閣』字直是同一機杼。然既作於呉江舟中,則已北帰甚明。詩或元豊五年(1082)入劉痒幕未成後漫遊所作。初疑赴杭州道經蘇州,但與《方圓庵記》畢竟差遠。 『中國書法全集37,38 米芾』)
 また所蔵者側のメトリポリタン美術館図録解説では、元祐六年(1091)41歳頃ではないかとし、「四十代の作品に典型的な、首尾一貫した円滑さ、円みを帯びた運筆、および優美な字形や、五十代の作品の伸びやかで緩やかな字形が認められないことから」という理由をあげ、この時期、「元祐三年から元祐七年は、米芾が「舟中詩」のような卓越した作品を制作する余裕と自身を持っていた時期である」であるとし、「「呉江舟中詩」は、米芾が開封付近の雍丘の知事となった元祐七年の夏、すなわちこの牧歌的な時期が終る以前に作られたものと考えられる」とする(図録解説312頁)。なお西林昭一も40代前半頃と推定される(『書の文化史〈下〉』)
 またさらに中田勇次郎は、葉恭綽が延光室の影印本に付けた解説の45歳頃とする説を支持する。その根拠は《珊瑚帖》《学書貴弄翰帖》《天衣禅師碑稿》との類似である。(「米芾《呉江舟中詩巻》の書と詩」『言葉とイメージ:中国の詩書画』“Words and Images: Chinese Poetry, Calligrapy, and Painting” p.102)
 以上、あげた四つの主要な説には、十年以上の違いがあり、制作期を推定する困難さがわかる。
 この内、私には曹宝麟のいう元豊五年(1082)32歳の頃、まだ長沙での唐人の行書への探究から抜け出ていない時期に書かれたのではないかという説が、《呉江舟中詩巻》に感じられるある若いものと、長沙時代のものと考えられる《三呉帖》《道林詩帖》《法華臺詩帖》《砂歩詩帖》との類似から興味深く、さらに追求するに値するように思える。
 米芾の長沙時代として、米芾が楚の国をとりわけ意識したことと共に、さらに考えたい。


題跋:
葉恭綽1881-1966題簽
前隔水:王鐸1592-1652の1643年跋
明 孫鑛1542-1613の1591年跋 項子長1521-86(項元汴1525-90の長男)
 孫鑛、字は文融、号は熱在、化之など、浙江餘姚人、王世貞の弟子、行書に秀れ『書画跋跋』を著す。

鑑蔵印:
“晉府書畫之印”2“晉國奎章”“司印”(半印)“清河”(半印)“敬徳堂章”“乾坤清玩”
清嘉慶内府“嘉慶鑑賞”等5璽、“寳笈三編”
“張文魁”“顧洛阜”白文“漢光閣”朱文(江兆申刻)“漢光閣主顧洛阜鑑蔵中國古代書畫之章”朱文(王壮為)
来歴:
明 朱棡-1398洪武内府(1373-84)…→李白玉→孫鑛→郭公望→…
清 清内府→溥儀により流失…→沈陽書肆…広東葉恭綽→香港張文奎(“張文魁”印)→紐約顧洛阜(John.M.Crawford)

著録:清 『石渠寳笈三編』延春閣
   葉恭綽『米南宮書呉江舟小詩真迹』影印本 台北1972年


呉江舟中詩巻の書の分析
善畫者只有一筆,我獨有四面 筆法 間架結構 分間布白 章法
米襄陽學段季展,得其刷掠奮迅,故作大字悉祖之 元 袁桷『清容居士集』
段季展 唐 代宗時代の人。劉晏サロンの一人、《禹廟碑》韓愈撰《李元賓墓銘》が知られる。

虹県詩巻と呉江舟中詩巻の比較
雲山図の墨戯 米法山水 紙筋子(紙の繊維)蔗滓(甘蔗のしぼりかす)蓮房(蓮の実を包む外皮)を用い礬水(どうさ)をひかない生紙(にじみやすい)に描く(趙希鵠『洞天清録集』)
米芾と楚国とのつながり
 (未完)



米芾略年表について
 以下の簡表は、曹宝麟編『中國書法全集38 米芾』の年表を基に、徐邦達、西川寧、中田勇次郎、西林昭一などの諸家を合参して作成した。
 西川寧「米書の変遷」のABを「七遷時代」(蔡肇「墓誌銘」にちなむ)、潤州に居を定めてから以降、Cを「潤州時代」、Dを「宝晋斎時代」とし、さらに任地により小さな時代を区分した(任期は推定がある)。
 卒年の大観元年説と二年説(曹宝麟説。大方は元年説だが、現時点では二年説も完全には否定しきれない)、書学博士か書画学博士か、また任命されたのはいつか、など問題は数多い。
 書風の展開をつかむ目安として折々に挿入した代表作の年代はだいたんな推定(曹宝麟説)が多く、諸家の意見も多々別れる。今後引続いて検討したい。

米芾 略年表
米芾、字元章、号襄陽漫士、鹿門居士、海岳外史等 礼部の官にちなみ米南宮とも呼ばれる
著『山林集』100巻は逸失、『宝晋英光集』『書史』『画史』『宝章待訪録』『硯史』が伝わる
先祖はシルクロードの米国(マイグルム)から移住したイラン系ソグド人ともいわれる
皇祐三年(1051-2)「辛卯の年、辛卯の月、辛丑の日」(《跋謝安帖》)に生
 湖南省襄陽人、本籍は山西省太原、父は左武衛将軍米佐
 母閻氏は宣仁皇后の藩邸に侍した乳母でありその恩蔭を受ける

米芾行踪示意図
『中國書法全集37,38 米芾』より 七遷時代 米黻時代

広東時代
煕寧四年(1071)21歳 母の恩蔭により秘書省校書郎に補せられる(18歳説も)
含光尉として含光(広東省清遠)へ任官
長沙時代 書風確立期
顔真卿、柳公権、欧陽詢、褚遂良、沈伝師、段季展など唐人の行書を吸収する
煕寧八年(1075)25歳 長沙掾として長沙へ任官
元豊三年(1080)30歳《閻立本歩輦図観款》、長沙での作として他に《三呉帖》《道林詩帖》《法華臺詩帖》《砂歩詩帖》
元豊四年(1081)31歳 長沙を去り恵州、廬山などへ
元豊五年(1082)32歳 黄州雪堂で蘇軾と会い晋人の書に開眼する。南京で王安石に謁す
 劉庠(りゅうしょう)の幕に入れなかった後、漫遊し杭州へ赴く途中、蘇州を経た時《呉江舟中詩巻》を書くか(曹宝麟説)
杭州時代
元豊六年(1083)33歳 杭州にて観察推官 4月《方円庵記》
元豊八年(1085)35歳 丹徒にて毋亡くなる 以降二十五月の喪
元祐元年(1086)36歳『宝章待訪録』 《相従帖》《張季明帖》《秋暑憩多景楼詩帖》
淮南時代
元祐二年(1087)37歳 喪があける 汴京から江南に帰る。揚州淮南幕府に
 《李太師帖》《武帝書帖》《好事家帖》《張顛帖(論草書帖)》《知府帖》
元祐三年(1088)38歳 湖州知県林希のために8月《苕溪詩巻》9月《蜀素詩巻》
 南游 湖州に帰る途中、呉江を経た時《呉江舟中詩巻》を書くか(徐邦達説)

潤州時代 壮年
元祐五年(1090)40歳 この頃、潤州(江蘇鎮江)に居を定め「海岳庵」を建てる
元祐六年(1091)41歳 名を黻から芾に改める 《閏月帖》《筐中帖》(劉景文-1092宛)
 この頃《呉江舟中詩巻》を書か(メトリポリタン美術館図録解説、40代前半西林昭一説)
雍丘時代
元祐七年(1092)42歳夏、雍丘(河南杞県)知県に
元祐八年(1093)43歳 《歳豊帖》
元祐九年紹聖元年(1094)44歳 《粮院帖》《拜中岳命詩帖》雍丘を離れ汴京に 《留簡帖》
 紹聖年間《元日帖》西説
紹聖二年(1095)45歳 この頃潤州に 《逃暑帖》(メト図録解説は1094)
漣水時代
紹聖四年(1097)47歳 漣水軍(江蘇漣水)に官 《徳忱帖》《伯充帖》
紹聖五年元符元年(1098)48歳 《中秋詩帖》《海岱帖》
 この頃「虹県旧題詩」を作(西川寧説)
元符二年(1099)49歳 (《元日帖》曹説) 6月漣水を去る 潤州に

宝晋斎時代 晩年
建中建国元年(1101)51歳2月《謝安帖》入手、居室を「宝晋斎」と名付ける
 この前後江淮に官、《向太后挽詞》《紫金研帖》《多景楼詩冊帖》
 この頃「虹県旧題詩」を作(徐邦達説)
崇寧元年(1102)52歳 この頃初めて画を作る(画史) 《研山銘帖》
崇寧二年(1103)53歳 3月太常博士に「虹県再題詩」を作
 これ以降《虹県詩巻》を書(徐邦達説) 《彦和帖》《値雨帖》《清和帖》
 5月劾せられ潤州に帰る
 《適意帖》《丹陽帖》《賀鋳帖》《蘭亭序跋》《王略帖賛》《破羌帖題賛》
無為軍時代
崇寧三年(1104)54歳7月無為軍(安徽無為)知県に(《復官帖》曹説
書画学博士時代
崇寧三年(1104)54歳宋喬年1047-1113の後を受け書画学博士に 《蔡襄謝賜御書詩跋》(ほどなく辞め無為軍知県に)
崇寧四年(1105)55歳書画学博士、子米友仁《楚山晴暁図》を献上し御書画扇各二を賜る(蔡肇「墓誌銘」)
崇寧五年(1106)56歳書画学博士に任、5月《呈事帖》8月《欧陽修集古録跋尾跋》
 汴京に赴く途上「虹県再題詩」を作《虹県詩巻》もほぼ同時期に書(富田淳説)
准陽軍時代
崇寧五年(1106)丙戌56歳春、准陽軍(江蘇邳県)の知 7月《復官帖》
 《政事帖》 盱眙西南第一山に遊び題刻
 崇寧・大観の交《虹県詩巻》を書くか(西川寧説、西林説)
大観元年(1107)57歳5月《無爲章吉老墓表》(中田《虹県詩巻》と書風が近い)を書
 某月、准陽郡の役所で死
(大観元年(1107)57歳礼部員外郎に選ばれ、准陽軍(江蘇邳県)知に任
 1月《書院帖》5月《無爲章吉老墓表》6月《経略帖》《少時帖》
 《崇国公墓誌銘》12月《臘雪帖》《公袞帖》を書
 大観二年(1108)58歳3月准陽軍の知にあって卒(曹宝麟説)
  「知准陽軍米芾 二年三月賻以百縑」『宋会要輯稿』第34冊礼44賻贈 を根拠)
大観三年(1109)6月丹徒(江蘇鎮江)西南、長山下に葬られる(蔡肇「墓誌銘」)



参考書
宋 蔡肇「故禮部員外郎米海獄先生墓誌銘」 『清河書画舫』
清 翁方綱「米海獄年譜」 『粤雅堂叢書』
劉九庵「論談米芾自書帖與臨古帖的幾個問題」『文物』 1962年第6期
西川寧「米元章の虹県詩」『西川寧著作集第二巻』 二玄社 1991年
 初出は『書品』第153号 1964年
西川寧「宋 米元章 虹県詩巻」『西川寧著作集』第二巻 二玄社 1991年
 初出は『書跡名品叢刊』 1964年
中田勇次郎『書道芸術』第六巻 中央公論社 1980年
中田勇次郎『米芾』研究篇 , 図版篇 二玄社 1982年
中田勇次郎『中田勇次郎著作集』第三巻 二玄社 1984年
中田勇次郎 米芾《呉江舟中詩巻》の書と詩
 『言葉とイメージ:中国の詩書画』 メトリポリタン美術館 1991年
鈴木敬 中国絵画史 中之一 吉川弘文館 1984年
徐邦達『古書画過眼要録』 湖南美術出版社 1987年
L.レダローゼ『米芾[人と芸術]』塘耕次訳 二玄社 1987年
『中国法書ガイド48 米芾集』 二玄社 1988年
曹宝麟編『中國書法全集37,38 米芾』 北京榮寶齋 1992年
廣岡喜久子「虹縣詩巻の研究」『国語と教育』19号小倉一富先生御退官記念号 長崎大学国語国文学会 1994年
謝巍『中国画学著作考録』 上海書画出版社 1998年
石川九楊『書の宇宙14 文人の書 北宋三大家』 二玄社 1998年
西林昭一『書の文化史〈下〉』 二玄社 1999年
塘耕次『米芾 宋代マルチタレントの実像』 大修館書店 1999年
『エリオット・コレクションと宋元の名蹟』図録 大阪市立美術館 2003年


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 宋 米芾 虹県詩巻と呉江舟中詩巻   2003.7.1写 

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