西林昭一 中国書道簡史

   上古―戦国期の書 三国-東晉 南北朝 五代 北宋 南宋


上古―戦国期の書
 上古から戦国時代の書を概括すれば、文字の始まりから篆書が形成されてゆく時期である。戦国晩期には、各地における標準体と実用通行体が発達し、書体が分化しはじめる。
 陶器につけた符号 遡って、中国の新石器時代には、上の年表に掲げたように、各種の陶器――いずれも残片であるが――に符号のようなものが刻されている。これを陶文とか刻画符号(刻符)とよぶ。年々出土量が増加しており、約三〇〇〇件ほどが報告されている。そのうち、新石器時代末期の丁公村陶片・龍〓村陶片や、殷代中期の例えば江西呉城刻符には、甲骨文字と類似のものがみられるが、降って周・秦以降にも多くみられる刻符は、文字というより何らかの符号なのが主流である。

 甲骨文字
 亀甲・獣骨にも符号を刻した舞陽賈湖刻符があり、降って殷中期のものもある。しかしそれらは、ことばを記号化して綴られた文字ではない。したがって文字の使用の実例は、今のところ殷代晩期(安陽期)がもっとも古い。ただし殷晩期のそれらは、形象の抽象化が著しく、すでに相当発達した段階であるから、文字としての起源は、一段古い時期にあったことは想像に難くない。が、新石器時代から中国各地で異質の文化が発達し、諸文化が関連しあって古代の文明が形成された、という考古学的見地を考えあわせると、現在のところなお漢字の発達段階を知る手がかりはない。
 占卜と甲骨文字
 甲骨文は主として占卜(せんぼく)(うらない)の記録である。甲・骨への典型的な占卜法の順序は、まず裏側に浅い凹(へこ)みをほる(鑚)。そこへ扁桃形に深い凹みを接してほる(鑿)。ここに火をあてて焼く(灼)。すると反対の表面に「卜・兆」形のひび割れができる(挿図参照)。この亀裂の形状で吉凶を判断し、占った結果を亀裂のそばに書き刻む。甲骨文は殷代中期にも黄河下流域から出土するが、多量に出土するのは殷墟(殷晩期)からで、すでに十数万片におよんでいる。占卜の内容は、神に関する祭祀、農作の豊凶、戦争・狩猟の可否ほか多岐にわたる。主宰者は王であるが、王族・貴族のものもあり、それぞれ独立の貞人(ていじん)(うらないびと)がいた。占辞(うらないのことば)は、下書きはしたようだが、かたい材質に小さい字を刃もので刻む。したがって、おのずから直線的で細い硬質の点画となる(挿図)。
 甲骨文字の書風
 甲骨文字は、資料が多量にあるにもかかわらず、書風の類型が少なく、刻者の人数は少ないと考えられている。
 甲骨学者の董作賓は、甲骨文字を五期に時期区分する。その基準のひとつとして、書風の特徴を指摘している。第一期は雄偉(大きく肥厚。ただし、小字のものもある)。第二期は謹飭(大小がそろい均整がとれている)。第三期は頽靡(くずれて弱い。ただし、整ったものもある)。第四期は勁峭(やや竪長で、つよくするどい)。第五期は厳整(ひきしまって整っている)。書としては、第一期の大字がもっとも生彩に富むものです。第五期は、小字にもかかわらず、曲線的な点画もあり、技巧的な精緻さがある。ただし、第一期〜五期へと一元的に展開したわけではなく、占卜機関に属する契刻者集団のちがいによって、各期にもまた書風に差があり、また墨体の刻字もある。
 中国の青銅器
 中国における青銅器は、殷代前期(二里頭文化期)の実例がもっとも古く、殷晩期から秦漢期にわたり厖大な量があり、器種も多様で、世界美術史に冠たる一分野をなしている。ことに殷晩期から西周の祭祀用の礼器(鐘鼎彝器)は、超自然的な情念をみごとに形象化した壮麗な作が多い。なおこれら礼器や、戦国〜秦漢期の青銅製の武器などにつけられた銘文を金文と総称する。
 殷代の金文
 殷代中期(鄭州二里岡)の青銅器に氏族の紋章のような図象が鋳こまれた例がいくつかあり、後期の武丁の時の殷墟婦好墓伴出の青銅器に、多くの図象があるが、なお綴られた銘文ではない。やや降って、図象に加えて「宝尊彝」とか「作る」などの短文のものが出現し、甲骨文第五期相当の時代に、はじめて数十字におよぶ長文の金文が見られるようになる。ただし、伝世品の中には、図象や文章体の金文とも、殷代のものか西周初期に入るものかの判断のつかないものもある。これは殷周交替期には、書風の変化の区別が判然としないためである。ただし近年の考古学的成果により、例えば戌嗣子鼎銘・〓〓鼎銘ほかと比定し、殷末金文の実相が明らかになっている。
 周王朝と金文
 周の武王が殷を滅ぼして周王朝を立て、旧殷勢力圏に周の諸侯を封建した。続いて造られた洛邑(成周)は、東方経営のための政治的な都であった。周は、王室と諸侯との君臣関係を強め、王室の権威の象徴としての青銅器に金文を鋳銘した。このような目的で作られた青銅器には、臣下の功績に対して、王が金品や人間を恩賞として与えることを述べ、その家の子孫の永続を願う文が記されている。こうした金文を賞賜策命文と呼んでいる。西周の前期にはこの形式のものが多くあり、書としても優れたものが多く見られる。殷代の青銅器は、主として祭祀用礼器であるが、周代には政治的な意味をもって作られ、金文も長文となった。
 やがて、社会が安定に向かい、儀礼の制度が整えられてゆくにしたがって、総じて青銅器の作風が穏やかになり金文も険しさがなくなってゆく。また、王室の権威が衰え、諸侯が実力を貯えるようになると、諸侯が自力で青銅器を作るようになる。金文の内容も、土地訴訟の裁定結果を書くものや、貴族の嫁入りに際して作られたもの(〓器という)が現れる。
 中期以降、王室の権威がいっそう衰え、西戎や淮夷の侵入に悩まされるようになる。宣王のとき、王政が復興したが、それも一時的なもので、平王のとき宗周の都を捨てて、洛邑に移った。
 殷周金文の製作法
 安陽小屯で、青銅器の鋳造工場や鋳型の断片が多数発見されていて、鋳造工程のあらましは知られている。殷から春秋前期の青銅器は、粘土製の原型(陶模法という)を作るが、一塊の内范(うちがた)と数箇の組み合わせからなる外范(めす型。文様などをつけたもの)を用い、銅と錫とをまぜた溶液を内、外范のすき間に流しこみ、冷えてからとり出す。この際、范は砕かれてしまうため、器形や文様は同じものはあっても、同一の鋳型で作った器は一つもない。ただし、文様や文字をほどこす方法に関しては諸説あるが、近年、松丸道雄の実験にもとずく画期的な論証が出た。結論は、金文を施すには、内范の上に薄く柔かい粘土を塗布し、そこへ文字を刻(ほ)った鞣(なめし)皮を押しつけて作る‥‥という(詳細は『中国法書ガイド』―参照)。筆写した文字の肥痩曲直が、忠実に凹文で鋳(い)出されているのは、松丸説によって納得できる。
 西周金文の分期
 西周諸王の在位年代はなお確定されていない。したがって西周金文の編年についても衆訟あって定まらないが、約二八〇年間を三期に区分するのが一般的である。
 前期(武王〜昭王)
 ごく初期の金文は、殷晩期のものと区別がない。厳正で力強く大らかな中に流麗さがある。時代が降るにつれて長文となっている。その代表作に大盂鼎がある。この期の金文は、一般に行・字間を詰め、点画はかなり太いが、肥痩の差をつけ、一字の結構が整斉である。が、次第に点画にまる味を帯び、字の大小の差も少なくなる。
 中期(穆王〜孝王)
 器形が固定化してくるとともに、長文のものが多くなる。初期の金文より点画は細味で字粒は均一の傾向となり、行・字間を広目にとり、竪横のならびを整えるものが出てくる。全幅のまとまりがあり整然としてはいるが、筆力に乏しく弱い憾がある。代表作に史頌盤銘がある。
 後期(夷王〜幽王)
 器形は変化に乏しくなる。均一的な点画で字粒をそろえるが、結構に崩れが生じ、点画は一段と細味で、生気の乏しいものが増える。幽王期には衰退の極となり、乱雑で拙劣な作となる。〓季子白盤などはなお見るべき作である。
 覇権を争う春秋時代
 周が洛邑に移ってから、秦の天下統一までの約五五〇年間が東周時代であるが、これを二分して、前半を春秋時代、後半を戦国時代というが。区切りとする年について異説があるが、前四五三年の三晋の成立以降を戦国時代とするのが一般である。
 周王室の支配力は、西周中期から衰え始め、王畿(渭河盆地)以外では諸侯が独立的な性格を強めていた。そのことは、歴史書に見えるとともに、西周晩期の諸侯製作金文にも現れている。
 春秋時代は、その始めごろ、同姓の列国が黄河中下流域に一四〇餘も群立していたが、勢力の拡大を計って併合を繰り返し、しだいに、いくつかの領土国家に統合されていった。列国は一応周王室を宗主と認めているが、実権は斉・晋・秦・宋・楚の「五覇」に移った時代で、前七七〇年から約三百年近くにわたる。
 統合の成り行きを大局的にとらえると、黄河中下流域と長江中下流域のそれぞれで、いくつかの勢力に統合されていき、ついには南北両勢力が対立するという形勢になったと見ることができる。南の勢力を代表するのは楚である。北の国々は晋を中心として楚と対抗しながら、会盟(同盟)と侵略を繰り返した。
 このような政治情勢が、国々の重要な器としての青銅器に反映し、この時代の金文の書風は、複雑な様相を呈している。
 春秋時代は、下剋上の時代で、政治的には戦乱抗争がうずまいたが、経済的には鉄器が普及し始めて生産力が増大し、精神文化の面でも飛躍的な発展を遂げた時代である。春秋という呼び名は、孔子の編纂になる魯国の年代記『春秋』にちなむものです。孔子は諸国を遊説するが、覇権を争う為政者にその思想は十分には受け入れられなかった。春秋時代には、長江流域が歴史の表舞台となった。楚が北方に対して覇を唱え、周王室は鼎の軽重を問われる。楚に続いて呉と越が急速に力をつけて争った。
 春秋時代の書
 春秋時代の書の史料は、主として金文である。春秋戦国時代の青銅器を陳夢家は東西南北と中土との五系統に分類するが、白川静らは、これを金文にも応用し、書風の地域性を説いている。ただし、春秋後期以降については、だいたい当てはまるが、春秋時代の前期から中期にかけては、書風のうえに明瞭に地域的な特色を区別することができない。なお青銅器は相当量にのぼるが、諸侯国にわたって平均的に存在するわけではなく、また時期的なかたよりもある。
 春秋時代前期の国で金文が見られるのは宋・衛・杞・魯・費・薛・陳・許・胡・番・江・黄・〓・毛・〓・斉・紀・鋳・蘇・曾・呉・楚である。これらの国々の金文は、一般に西周後期以来の書風の延長線上にある。新しい傾向としては、薛の器に刻銘が現われたことで、その点画は細い針刻である。
 中期には、鄭・魯・陳・曾・紀・晋・斉・秦などの金文が見られます。覇を唱えた強国に新鮮で技巧的にも優れたものがある。たとえば、晋の欒書缶銘は、滑らかな点画に金象眼が美しく、斉の子中姜〓銘には、すでに長方形の結構で整斉な書風が出ている。秦の秦公一号墓石磬刻字および、秦公〓・秦公鐘・〓銘には、のちの篆書(秦篆)の原型を想起させるものがある。楚の王子午鼎銘は、流麗でかつ奇径な南方文化を象徴しているようである。これらは、春秋時代の中期から後期にかかる時期のものです。この頃から地域による特色がはっきりしてきた金文は一般に細い点画による繊細な文字であるが、技巧が進みすぎて、工芸的な文字もあります。
 前後するが、いま一つ重要なことは、西周期における王畿の器とは異なり、諸侯国の器であること、つまり、周王の賞賜策命を記念したものはなくなり、多くは諸国での自作の器であり、紀年も自国のそれを入れるようになったことである。文化の地方色が強まる春秋中期以降に、この傾向がいちじるしくなるのに比例し、金文も粗雑化の度を強めてゆく。
 装飾体と通行体の書
 工芸的な装飾性をつよく表現した金文が、越王句践剣銘に見るような鳥虫書である。総じて技巧をこらすあまり、点画を任意に増減し、まるで図案のなかに文字を組み込んだようなもので、書写した文字ではない。鳥虫書の実例は、剣や戈、戟などの兵器の銘に多く見られるが、ただし、兵器の銘には鳥書のものがあると同時に、普通の金文体のものもあり、刀刻で通行体のものもある。
 このような装飾体が現われる一方で、春秋時代には日常的な書写のための文字もあったと考えられる。いつごろどのような日常通行体があったか、まだ侯馬盟書以前の実物は見つかっていませんが、『韋編三絶』(孔子が読書して木簡を編んでいた紐が三たびも切れた)という書物に関する伝承からしても、それを書いた文字がなくてはなりません。それは、通行体であって、標準的な金文とは質的に差違があると思われる。
 実態をうかがう資料は、いまのところ晋の侯馬盟書・温県盟書の文字である。石または玉に直接毛筆で書いたもので、金文の字体を基本としながら、点画の書き方を簡略にし、点画の接し方や組み立てをゆるくしている。戦国時代の楚簡の文字と似ているところを見ると、春秋時代には、日用書体として普及していたとも考えられます。
 激動の戦国時代
 戦国時代とは、「五覇」の一である中原の晋侯の家老職にあたる韓・魏・趙が、前四五三年に晋の領土を三分して、それぞれの国をたてたことにはじまる。以後、東方の大国斉が田氏に乗っとられ、下剋上の風潮がますます高くなった。封建制は瓦解し、統制のとれなくなった列国は、抗争と同盟をくりかえしながら、小国は覇者(強大国)に呑まれてゆき、周王の宗主権は有名無実となり、いわゆる「戦国の七雄」(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)がそれぞれ王を僭称した。
 戦国時代は、政権争いのみならず、社会のあらゆる面で激動期であった。政治面では都市国家から領土国家へ、貴族制から官僚制へと移行し、経済面では鉄器の普及と農業生産力の向上、商業と貨幣経済の発達、文化面では、いわゆる「諸子百家」の思想家が輩出し、中国思想史上の黄金時代となったことなどが特筆される。
 戦国期の書
 社会の変動にともなって、礼器としての青銅器が形式化し、特異な例を除いて見るべきものがなくなり、金文もたがねでほる刻款が主となり内容が乏しくなる。しかし、その反面、文字を使用する場面が新たに出現した。たとえば符節、度量衡器、図書の写本、法律文書、遣策、貨幣の文字、璽印、戳記などである。文字は長い間、王朝の祭祀儀礼とつよく結びついた存在であったが、ようやく多くの人の目に触れるようになり、また私的な場面で用いられるようになった。このことは、歴史上大きな変化である。
 戦国時代の金文は、鄂君啓節・曾侯乙〓鐘・中山王方壷・鉄〓大鼎などが特に高度な技術で作られているが、一方、曾侯乙墓出土石磬・守丘刻石の通行書風があり、また<楚王の盤>のような刻款が多くなっている。刻款には、当時の通行体の文字で刻したと見られるものもある。
 戦国時代の通行体の文字は、長江中流域の例えば包山・郭店楚簡や帛書など楚国のものが、比較的多く見られる。貨幣の文字は、略体を多く用いている。このように用いる場面に応じて、書き方や字体が異なっており、戦国時代は、文字にとっても大きく変動する時代であった。
 秦の台頭と秦系文字 秦は、もと陝西省の西方から起こった国で、諸侯として認められたのは周が東の洛邑に遷った年であった。秦が強国になったのは、戦国時代中期からで、商鞅に代表される信賞必罰の法治主義を取り入れ、諸制度を改革して以降のことで、富国強兵を図り、つぎつぎと列国を破って、ついに天下を統一した。
 秦は、都を西周の故地である雍や咸陽に置いた。秦の金文は、同時代の他国の金文に比べて、少し西周風に近いのは、秦の地理的な位置に一因があるように思われる。このことは、篆書の成立にも影響しているのではなかろうか。戦国時代の秦の書は、正式書体の金文と石鼓文だけでなく、近年の発掘によって簡牘や瓦書、剣銘などのいわゆる「秦隷」という通行体の文字も見ることができるようになってきたのである。



 秦帝国の時代相
 秦王・政(始皇帝)は、前二二一年に天下の統一を果し、いわゆる“焚書坑儒”の思想統制を断行し、法家思想にもとづく官僚制を確立し、中央集権国家を樹立した。その一方、匈奴の侵攻を防ぐため“万里の長城”を修築し、阿房宮という大宮殿の建設に着手し、また自身の陵墓(秦始皇帝陵)や兵馬俑坑をつくるなどのために、全国から数百万人もの民衆を狩り出し、強制労働を課した。始皇帝が歿すると、民衆の怒りが爆発し、各地で秦打倒の反旗がひるがえった。その先鋒となった劉邦は、前二〇六年に秦都の咸陽を攻め、三世・子嬰は降伏した。その子嬰を殺して秦を滅ぼした項羽は、みずから西楚覇王と称して彭城に都した。劉邦は三秦(陝西省中北部)の地に勢力をのばし、項羽と天下を二分するが、数年の抗争のはて、〓下で項羽は自死し、前二〇二年、劉邦は皇帝位に即いた。
 文字の統一と秦代の書
 司馬遷『史記』始皇本紀に、「書同文字(書は文字を同じくす)」の語がある。これが文字統一を示唆する典拠で、この「書」の意味は、標準となる公文書をさす。
 許慎『説文解字』序に、「戦国期には、田畑の単位、車道の幅、律令、衣冠、言語、文字が各国でちがっていた」。そこで「宰相の李斯は、これらを統一するよう奏上し、秦国のものに合致しない文字を廃止した。李斯は『蒼頡編』、趙は『爰歴篇』、胡毋(ぶ)敬は『博学篇』を作った。これらは史籀の大篆を土台とし、あるものは少しく改定した。いわゆる小篆がこれである」という。ここにいう「小篆」とは『説文』の字目(親字)に伝えられているが、『漢書』藝文志には「いわゆる秦篆」という。この小篆・秦篆は、標準(公用)として用いる統一文字で、泰山刻石、琅邪台刻石がその代表例である。
 冷厳なまでに構築的な公用体の小篆の一方で、実用通行書の実相も明らかになっている。一九七五年出土の睡虎地秦簡をはじめ、二〇〇三年の里耶秦簡の出土にいたる六ヶ所の竹簡が、その代表例である。これらの書体は、泰山刻石に代表される小篆の結構、書風とはまったく異る“隷書”である。『説文』にはまた「(始皇帝のとき)裁判の事務が繁雑になったので、初めて隷書が使われて簡略化にむかった。云々」という。この記事は、統一秦以前の五〇年近い天水秦簡が、すでに隷書体に拠っていることから、正確な認識ではない。つまり天水秦簡〜里耶秦簡とも、国家の手で改められた書体ではない。
 以上のことから推して、始皇帝の文字統一とは、列国期の秦国で公的に使用されてきた、例えば秦公一号大墓石磬刻字にみるような篆書をもとに一部を改定して、公文書用の文字と定め、一方、日常的に用いる隷書には権力による統制は加えられず、自然のなりゆきにゆだねられたと考えられる。
 なお一点、付言すべきことがある。始皇帝は小篆の制定のほかに、経済の根幹をなす“度・量・衡(ものさし・ます・はかり)”をも統一した。それぞれに銅製の標準器をつくり、始皇帝の詔書を刻款させた。なお銅製のほかに陶製の円量があり、これには詔書を、四字で一組みにした印形を作って外周にツした。度量衡器の製作はごく短時間のうちに大量につくられたと思われる。公用の標準器であるから、もとより小篆を用いているが、挿図に見るような異体字が多いことは、つい書き慣れた通行書の隷書に根ざした字をまじえたものと思われる。
 こうした新出土史料が豊富に知られるようになったことで、「小篆から隷書が派生した」という、従来の認識は改めなければならないのである。



 漢代概観
 漢は一時期、王莽の新(八−二三年)によって中断するが、ふたたび復興した。中断以前の一一世一五代と新を含めて二〇七年間を通常“前漢”という。中断以降の八世一四代の一九五年間を“後漢”とよぶ。中国では地理的にみて、前漢期は首都を長安(西安)に置いたことで“西漢”といい、後漢期は都を洛陽に定めたことで“東漢”とよぶ。
 前・後漢計四〇二年にもわたる漢代は、中国史上もっとも長命な王朝で、祖・劉邦は黄老思想により治世をはかった。戦乱のあとを、景帝・文帝は財政を整えて国家安寧の基礎を固めた。中期の武帝・劉(りゅう)徹(てつ)(前一四〇−八七在位)は、法治による政策をとるが、諸制度の根幹に儒学を据え、董仲舒を重用して礼秩序を基盤とする儒家体制を深めた。しかし、晩年には、ことに軍事面により財政を逼迫させた。昭帝・宣帝は、経済面の立てなおしを計るが回復しきれず、やがて皇帝は外戚に牛耳られて衰退にむかう。
 元帝の皇后の甥である王莽は、漢末の混乱を巧みにくぐり、二歳の孺子嬰から、天命によって譲位されたとする平和革命を装って、みずから皇帝となり、国を新と号した。この王朝は通常、前漢に併せるが、特色をもつ時期である。儒学の経典である『書経』『周(しゅ)礼(らい)』に記す古代の理想を実現させるべく、土地改革、貨幣の改鋳、統制経済を強行した。しかし、急激な理想化をはかったため、官僚の反発を人民の不振をかって、わずか一五年で滅亡した。
 王莽の新を倒した劉秀・光武帝は、前漢の皇族で、河南省南陽にあったが、各地の農民の反乱や、豪族の自立集団をも滅ぼして統一をはたした。かれはすぐれた儒学者でもあり、洛陽に遷都後、太学を建てて多数の儒学生を教育させ、学術を振興した。一方、行政官には、徳望があり節操のかたい者を抜擢し、清廉な政治を行った。明帝・章帝も、その志を継ぎ徳政を布いたことから、国力は充実した。しかし和帝のころから、内には外戚と宦官の政争が激化して、ついには“党錮(とうこ)の禍”をひきおこした。また外には農民反乱の“黄巾(こうきん)の乱”がおこり、国家の統制はみだれたため、霊帝の死後には、軍閥の董(とう)卓(たく)と豪族の袁紹らの力をかりて反乱を収拾し、また外戚・宦官の勢力を一掃したものの、すでに漢王朝の権威はすっかり失墜してしまった。漢末のこの数年は、数々の英雄豪傑がからみ、権謀術数の渦まくいわゆる“三国志”の時代に突入する。
 漢代の書
 二〇世紀以前、漢代の書は、ほとんどが石刻史料でしか知られていなかった。それも、前漢では数えるほどで、後漢では中期以降の碑碣が主なものであった。史料が多くなったのは、二〇世紀初頭に外国人による西域調査にともなう発掘によってであった。その後、戦争による中断、また国共内戦による混乱、さらには文化大革命により、大規模な考古学的発掘調査は、ほとんど行われなかった。文化大革命の終熄してしてのち、にわかに文化財の発掘報告の数量も多くなった。さらに一九八〇年代以後における改革開放政策にともない、道路や各種建設工事が加速的に大規模となったことから、考古調査と併行して、書の史料も飛躍的に増大した。もとより漢代のものだけとは限らないが、特筆すべきは、書体の変遷をうかがうに足る史料―簡牘・帛書・金文・石刻・瓦〓ほか、漢代のものがことに多量に出土し、書の歴史観を見なおさねばならなくなったことである。
 簡牘・帛書の出土
 二〇世紀初頭に、スタインが敦煌で漢代の簡牘を発見し、三〇年代には漢の居延の地から一万枚を超える簡牘が出土して、漢代の墨跡が脚光を浴びた。これらは主に下級官吏の事務書類で、すべて用済みの後に廃棄されたものである。古いものは武帝期に遡るが、それまで横画に波磔をもった隷書(八分)は前漢には存在しないとされた観念は、完全に打破された。例えば一九五九年、武威から出土した前漢末期の『儀礼』簡は儒学の経典であり、その書は後漢の碑刻の真跡を見るかと思われるものでした。
 七〇年代になると、考古的発掘がいっそう進み、多くの前漢墓から次々と簡牘類が出土した。まず一九七二年の長沙馬王堆一号墓の遣策に始まり、臨沂銀雀山簡、さらに、馬王堆三号墓から大量の竹簡書と帛書が、そして江陵鳳凰山からも多くの簡牘が出土した。しかも、これらはいずれも、それまで世界中のだれ一人として目にしたことのない武帝以前の肉筆ばかりである。この間にあって居延が再調査されて二万枚近い簡牘が発見され、武威からも新たに出土した。
 これにとどまらず、七五年には前述の睡虎地秦簡が出土したことで、肉筆資料が秦から前漢へと続き、さらに七〇年代後半から九〇年代にかけて、例えば張家山・儀徴・馬圏湾・尹湾で、前漢の簡牘類の出土はなお続いた。その内容は、書籍・公文書・詔書・日常記録・遣策・習字簡などさまざまである。
 この間にあって、他に類例のない重要な発見は、一九七三年出土の馬王堆帛書である。近年の整理では、『漢書』藝文志にならい、六類四四種に分類される書籍を主とするそれらの書風は、戦国楚簡の系統による「陰陽五行」篇、秦隷を一段と整斉にした「老子乙本」、「周易」等のいわば漢隷、「戦国縦横家書」の古隷、「老子甲本」「春秋事後」の草隷といった諸相がみられる。これらと前漢期簡牘によって、墨跡の大概が知られたことは、書の歴史上、一つの幕開けであった。
 肉筆の書
 全般的に簡牘や帛書の書を見るとき、きわめて謹厳な碑刻の書のようなものから、草率な草体にいたるまで、分類しきれないほどの多様性が認められます。これらを総称して「隷書」と呼んだのであろう。この多様な隷書の書法において、さまざまな目的に応じて、書写表現が試みられた。のちに八分と呼ばれる波磔をそなえた書体も、この書法の中で成育した。馬王堆帛書『老子』乙本、『周易』には、すでに八分書法がみられる。定県漢簡、それに武威の『儀礼』簡も八分です。これらは尊重すべき典籍への敬虔な思いがこの書体に昇華した。書籍に対する価値認識の相違は、結果的に、書相の相違となって現れる。
 日常の事務記録では、書きやすい速写体が用いられる。しかも、メモ程度のものと上級官庁への提出書類とでは書相が一変します。また葬送に用いる遣策の書には、記録の能率性、死者への思いの深浅などにより、筆の動きに変化が生じる。書かれる内容や状況により、肉筆における書法は極まりなく変化するが、漢代の気風は一貫している。その気風の中で後漢に入ると新しい時代の書、すなわち、行書や楷書の芽が胎動し、草書は一つの書体を形成する。
 章草はすでに前漢晩期にみられるが、後漢の章帝のときに、上表文は草書を用いることにした、との伝承がある。そうなると粗略な草書では威厳がないので、格式ばったものに整えられる。草率な草書にもおのずからこの波勢が内在していたのだが、それを様式的に顕著にしたのが章草であろう。書法の変遷には自然の変化と人為の変化がからみあって作用しているのである。
 金文の書
 漢の金属器は概括すれば、実用の什器である。ただし、依然として貴族や豪族の富の象徴であったから、中には戦国期の技法を継ぎ、金銀玉石の象嵌・金銀のメッキなど贅をつくしたものもある。
 漢代の金文に関しては、容庚撰『秦漢金文録』で大観うかがうことができる。漢代金文のほとんどは刻款(器を完成してのち銘文をタガネ彫り)の陰文であるが、鏡銘や洗・鍾・壷などは鋳款(作器の過程で鋳型づくり)の陽文である。
 著録だけでなく、出土のものも多い。遠くは新彊ウイグル自治区の寧夏、内蒙古自治区の伊克昭盟、あるいは南の雲南省にわたる。もとより陝西、河南、河北、山東、山西、江蘇ほかにも多く、年代も前漢初期から後漢の末期までおよぶ。書体は、みごとな小篆体によるもの、あるいは繆篆や〓印風のもののほか、当時の通行体にいたるまで、多様である。早い時期の新出土史料では、挿図の満城墓・茂陵一号墓銅器銘が象徴的である。
 なお漢代を通して時期的に特色のある金文は、王莽・新の度量衡器の刻款である。嘉量銘にみるような秦の小篆に拠るものの、点画に肥痩のない長脚風の様式や、承水盤銘のような大小・肥痩に差のある書風のものもある。ただし、総じて型にはまって生彩に乏しい。
 前漢の石刻
 前漢期の石刻は、新出土を含めても極めて少ない。それに前漢でもっとも早期の郡臣上〓刻石が、中期をさかのぼらない。その理由はなおはっきりしないが、文帝・景帝期に質素倹約を旨とする政策に関連するのかもしれない。石刻は一〇数種類ほどしかないうえ、碑碣形式は一つもない。また書体も小篆と古隷で、それもみるべきほどの作は、古隷の〓孝禹刻石・〓子侯刻石・金郷県刻石・連島刻石のほかは、署書体の最古の遺例としての鬱平大尹馮君孺久墓題記ぐらいである。
 後漢の石刻
 後漢の石刻を鳥瞰するとき、前・中期と後期にわけられよう。従来、後漢の書を“漢碑”とよんだりした。漢碑というそのイメージは、八分で刻された碑碣が主である。しかし、碑碣の形製をとるのは、後漢も後期に入る北海相景君碑以後である。
 初期の三老諱字忌日記をはじめ、中期ころの祀三公山碑や王孝淵碑にいたるまでの間に、完整な碑碣形製をとるものはない。また書体的にみても、篆書体の袁安碑や嵩山三闕、署書風の祀三公山碑のほかは、摩崖の開通褒斜道刻石等を含め、いわゆる古隷である。
 後期の石刻は碑碣で、用いられる書体の主流は八分である。文章内容からみると、記念碑と頌徳碑(大半は墓碑)に大別できる。しかもそれらは、桓帝・霊帝期にことに多い。その要因は、国家体制の根幹をなす儒学が、中期以後において、教条主義的な要素を強めていった点にある。儒家倫理の根本は、家族制度を支える“考”に据えられていた。親の死後、孝心をもっとも具体的に世間に示すのは、葬儀である。それは本来、親に対して心からなる敬愛が形に表れたかたちである。ところが、儒学が教条化の度を増すにつれ、考心よりむしろ、他人の目を意識し、競って喪儀を形式化し派手にする傾向を強めてゆく。墓前に死者を顕彰する頌徳碑も、時代が降るにつれて豪奢にになったであろう。のちに魏の曹操が「立碑の禁」という法令を公布したのは、当時いかに多くの巨碑があったかを示唆している。現存の漢碑はさして多くはないが、北宋代の『  ?  』ほかには、なお多くの漢碑を挙げているのも、それを物語っている。
 晩期は碑碣の最盛期で、用いられる書体は八分である。八分様式の萌芽は、すでに前漢初期に見られることは前述したが、石刻には、ほとんど用いていない。末代までの顕彰を意図する碑碣の石刻に、八分体を用いていることは、例えば乙瑛碑以後、礼器碑・鮮于〓碑・史晨碑・曹全碑ほかの八分は、すでに当時における公用の標準書体としての地位を確立していたことを物語っている。さらに八分書は、魏晋時代の標準書体でもあった。
 画像石題記
 画像石題記は後漢後期に多い。それはこの期に、前述した碑碣が多いのと同じく、厚葬の風潮に起因する。早くから知られる武氏祠画像石題字があるが、一九五〇年以後出土例がほとんどである。なおまれに地上の墓前に造る石祠堂に刻したものもある。が、主として墓室内に刻され、墓主名・墓葬の年月を記す。しかし、造墓の経緯を添えたもの、また長文のものの中には、例えば蒼山画像石題記のように、画像石の各画像を説明しているようなものもある。
 書体に小篆を用いたのは一例だけで、総じて陰刻の隷書を用いているが、書風には地方色がある。例えば、陝西省の綏(すい)徳(とく)・米脂のものには、牛文明画像石題記ほかゴチック風で装飾性の濃いものが多くを占める。また画像石題記中でもっとも古い鬱平大尹馮君孺久墓題記は署書風。後漢早期の張文思画像石題記は八分で、それも波磔を双鉤刻で強調している。こうした変り種以外は、浅刻で波〓の少ない八分であるが、多彩な書風があり、見のがせない。
 瓦〓の書
 ここでいう瓦〓は、瓦当と〓をさす。ともに作製は范(かた)に陰刻したものを、生乾きの粘土に形おしする。したがって文字はすべて陽文であるが、筆意はうかがえない。
 瓦当は、屋根の軒丸瓦の先端部をさし、古く戦国期までは半円形であったが、秦以後は円形のものがほとんどである。円瓦当のほとんどは吉祥句で、書体は篆書が主で隷書はまれである。ただしその篆体は、小篆はまれで、多くは〓印・繆篆を多様化した様式である。装飾的配慮をこらし、同一文字でも点画に増減がみられ、結構の変化をはかった精巧さが特色である。
 范〓は戦国後期におこり、墓の造営(〓室墓という)に用いたが、前漢期ごろまでは、空心〓(中心がから)にさまざまな画像や図案をほどこした“画像〓”であった。前漢の末ごろから実心〓(中味に空洞なし)が用いられるようになり、墓室用築材はもとより、地上の建築材としても使われた。実心〓は、用途に応じて長方形・方形・楔形がある。文字があるのは実心〓であるが二類ある。一は主として墓室用の長方形〓で、壁面に積みかさねた小口(こぐち)(側面)の一方に、多くは築造の紀年を入れ、まま工人名や地名を入れたものもある。書体の多くは隷書で篆書はまれである。いま一類は、方形(方〓)の平面の一方に、方格を施した中に主として吉祥句を入れる。書体はすべて小篆を用いている。
 刻字〓
 范〓に比して数は少ないが、長方形〓の平面・側面に刻字したものがある。早い例に一九五三〜六〇年に、広東省広州出土の後漢初期のものがある。ただし数例で、書体は古隷に属す。まとまった遺例は、一九七三〜七七年出土の安徽省亳(はく)県字〓で、後漢の末のものである。書体は隷書が多いが、章草・草書・行書体もある。なお伝世品に、公羊伝〓銘のような経書を書刻したものも少しくある。
 刑徒〓
 刻字〓の一類ではあるが葬〓で、数も多く書の歴史上特異なものなので、とくに刑徒〓とよばれる。端方・羅振玉・鄒安の著録で三〇〇餘が世に知られたが、一九五六・六〇年の発掘調査でおびただしく出土し、ごく近年も盗掘によって二〇〇箇ほどが出まわっている。これらはすべて、使いものにならない残〓のある〓を利用している。受刑者の死亡により草率の間に刻されたもので、字数の多小にかかわらず、書体は草隷である。総じて細く勁抜な点画であるが、曲直・肥痩など書風はさまざまで、独特の分野を占めている。
 漆書・針刻書・朱白書
 これらは数量も少なく、書の歴史上いわば脇役であるが、漢代の書を語るとき、見すごせない史料である。
 漆書のもっとも早い遺例は、戦国初期の二十八宿青龍白虎文字である。しかし漢代にいたるまでの出土例は少ない。馬王堆〓漢墓の〓・耳杯、満城漢墓の漆盤・耳杯、江蘇省〓江出土の耳杯、広東省南越国出土の漆器残片ほどしか挙げられない。いずれも副葬品で、二−五字の短文であり、ほとんどは当時の通行書風である。後漢のものでは、一九二五年に、日本の考古学者が発掘した“楽浪漢墓”(平壌(ピョンヤン)市石厳里古墳群)のうち、王〓(おうく)墓伴出の永平一二年(六九)製の漆盤銘が著名である。全文で二五字。蜀郡(四川省成都)の官製品で、「盧氏」が「千二百」器を作った一つであって、下地を三回も塗った「夾紵」製、云々と記している。書体は八分で、それも簡牘中でもあらたまって書いたものと近似の書風である。
 針刻書とは、主として漆器に先の尖ったもので刻みつけたものをさす。早い遺例に戦国晩期の銀錯飾木胎朱彩奩(れん)(サンフランシスコ・アジア美術館)がある。この外底の一隅に「長」と漆書し、まん中に四行で針刻している。この針刻は当時の通行体であるが、以後の針刻のほとんどもそうである。例えば、秦の雲夢睡地で出土した一八六件もの漆器のほとんどに、前漢の満城漢墓伴出の一一件の残〓した漆器には、通行体を急々に針刻している。ただし例外はあって、前述の“楽浪漢墓”で伴出した始建国九年(九)銘の漆盤は、小篆で針刻している。ちなみに、針刻とは異るが、前漢末〜後漢初の骨簽がある。これは小さな三角刀を用いたようだが、一刀偏入法による浅刻の小字である。
 朱白書とは、陶器の外面に、朱または胡粉(ごふん)で書いたものをさす。墨書のものもあるがごく少ない。時代は前漢末が上限で、ほとんどは後漢期である。内容から二類に分かれる。
 一類は“陶倉”(長目の筒形で肩をややふくらませた器)とよぶ明器で、蓋つきの器腹の外面に、器内に収めたもの(主に穀物)の名称を大字一行で、例えば「梁米万石」とか「小豆万石」と書いてある。まとまった例として、一九五三年、河南省洛陽郊外の焼溝墓伴出に、一〇〇餘箇の朱・胡粉・墨書の陶倉がある。また一九七二年、洛陽市内の金谷出土は二五箇中の二一箇に胡粉で、例えば「小麦百石」とか「〓米」と大書してある。書体は古隷・八分であるが、大らかで屈托ない書風や、整斉な結構の書もある。
 もう一類は、多字数の鎮墓文を器腹に書き入れたものである。著名なものに永寿二年陶瓶があるが、伝世品と近年の発掘品あわせ四〇件ほどある。すべて後漢後期のもので、外腹部に一周して書いている。内容を要するに、死者の冥福と遺族の吉祥を願うもので、漢末に流行した陰陽五行家流の厭(よう)勝(しょう)(一種のまじない)の意識による。文字数は約六〇〜二三〇と一定でないが、長文のものが比較的多い。なお朱書が主で墨書はごく少ない。問題は用いられている書体である。後漢晩期の簡牘に、まま行書がみられるが、これら鎮墓文は、すっかり隷書から遠い結構・点画である。字の左方をせばめて右方へ開き、用筆法も章草などとは異なり、のちの晋代木簡・残紙にみる行書にもっとも近い書体である。行書が隷書から派生した時期が、後漢後期であることを示唆する重要な史料である。


三国―東晋
 三国―東晋の書道的特色
 この期約二〇〇年間の書を巨視的にみたとき、第一に著名な書人が輩出すること、第二に“立碑の禁”の副産物として“墓誌碑”が出現すること、第三に三世紀の中葉に楷書の定型がみられること、第四に五胡の国に独自の様式が育ったこと、第五は“二王”の出現――、この五点を特色として挙げることができよう。この通史では以上の五つを柱として、概観してみよう。
 立碑の禁
 後漢末における書の歴史上での特色は、前述したが、八分体の大きな碑が数多く建てられたことである。しかし三国〜東晋の碑は、現在わずか一〇数種しかみることができない。実はこの現象には政治的な面にその要因がある。
 死後に武帝を諡られた魏の曹操は、漢の皇帝を傀儡化して政治の実権を掌握し、建安九年(二〇四)に〓(河南省臨〓県)を都として魏国を確立した。その翌年には、私讐を禁じるなどいくつかの政令を出したが、その一つに、厚葬ならびに石祠・石碑を建てることを禁止する一条が入っている。
 そもそも石祠や墓碑は、厚葬の一つの現れです。これも前述のように、前漢の武帝が国教と定めた儒教は、“五常(仁・義・礼・智・信)”と「君に忠、親に孝」が倫理の根本なのであるが、厚葬の営みは、孝の端的な表現であった。地下には画像石墓や壁画墓を築造し、生前遺愛の珍宝ほかを納め、地上には祭祀を営む石祠をつくり、また墓主の業績を顕彰する碑を立てました。
 儒教のテキストの一『儀礼』の葬礼篇には、葬儀に関して階層、身分にともなう形式的な規定がことこまかに記されている。ところが、時代が降るにつれて儒教の理念は置きざりにされ、全般に奢侈にむかった。漢末における立碑の盛行は、人々が形式的厚葬を競ったことの一環にほかならない。権力者や豪族が厚葬を競えば競うほど、その経費は、つまるところ民衆の負担となり国家の疲弊につながる。つまり“立碑の禁”は、単に派手な葬儀をやめよ、といった程度のことではなく、法家的思想を抱いていた曹操には、豪族の権威性を殺ぎ、民衆の活力を呼びもどす手段の一つであったと思われる。
 建安一〇年(二〇五)以後、南朝にいたるまでのおよそ三五〇年間、立碑の禁はおおむね遵守された。ただしこの間、改めて禁令が出されている。その一つは晋の武帝による“石獣・碑表の禁”、その二は東晋の安帝・義熙(四〇五〜一八年)の初めに、裴松之という学者が上奏して、立碑の禁がはかられたことである。ただし、かならずしも厳守されてはいなかったようです。
 魏の上尊号奏・受禅表・孔羨碑・正始石経・呉の天発神讖碑・禅国山碑、また西晋の皇帝三臨辟雍碑などは、いわば国家的行事に関わる立碑であり、石門の魏晋摩崖は土木工事の完成記念のため例外だとしても、魏の范式碑・曹真碑・王基碑、呉の谷朗碑、西晋の郛休碑・任城太守孫氏夫人碑や韓寿墓表、東晋の爨宝子碑といった個人の墓碑は、特例とみなせないのに立碑されている。これはなぜか。明確な答えはまだ出されていない。
 書人の登場
 三国期は、後漢末の動乱をひきずった時代であるが、学藝の火は消えてはいない。曹操やその子の曹丕・曹植は、ともに詩文の才をそなえ、“建安七子”に代表される文壇を育成した。両晋の文化も大局的には魏と同質といえよう。魏晋のインテリ高級官僚の多くは、実務は能吏にまかせ、日々サロンで高邁な哲学や学藝理論、すなわち“清談”に精力を傾けた。この代表的人物がいわゆる“竹林の七賢”である。かれらは、儒教的観念にとらわれない多様な価値観を認めたから、学藝の興隆をうながし、個性を振張する時代が到来した。こうした風尚は、書にもまた書き手の個性が強く意識され、ひいては書の芸術的展開が幅広くみられるようになる。
 もっとも、書の造型的な藝術性を人々が意識するようになるのは、すでに前漢末に芽生えている気概である。それは実用通行書体である草書が定形化する過程で培われてきたように思われる。いまその一々を挙げきれないが、もっとも象徴的な話は、後漢末の趙壹がその『非草書』において、後世、草聖と称えられる張芝が「忙しくて草書で書いている暇がない」といったのを槍玉にあげるとともに、当時の有識者が、張芝・杜度・崔〓らの草書を学ぶのに汲々としている風潮を排斥していることである。しかし趙壹の慨嘆は、別の角度からみれば、草書に美しさを競う風潮がいかに当時に蔓延していたかを物語るものである。
 後漢の末から三国にかけては、史游・蔡〓・史宜官・梁鵠・張昶その他の書が話題となり、かれらの書にまつわるエピソードが語りつがれるようになる。魏では古体の書にすぐれた邯鄲淳、また張芝・王羲之・王献之と四賢の一にあげられる鍾〓、書翰の書を称えられる胡昭、とりわけ大字の書にすぐれた韋誕、呉では章草の名手皇象、隷書の張昭、飛白書の張弘らがいる。
 西晋では索靖とともに草書で有名な衛〓、その子で古文・草隷をよくし書論の名著『四体書勢』をのこす衛恒、“竹林の七賢”の一人で草書をよくした〓康、鍾〓の書法に拠って王羲之の師となったと伝える衛夫人。東晋では王導・王〓・謝安・〓〓その他、枚挙にいとまないほどの書人が名をとどめている。
 鍾〓は信ずべき遺作がないにもかかわらず三国−西晋期きっての名人で、三体書(銘石・章程・行狎)にすぐれたと特筆される。中でも章程書つまり楷書でもっとも有名である。
 楷書の定立
 いったい楷書の楷とは、「八分の楷法」という表現があるように、楷則とか模楷、つまり規範の意である。したがってこの呼称は、行書とも楷書ともつかない通行体が、一定の書法を確立し、銘石書として公的に用いられるようになった唐代以後のものである。このいわゆる楷書(新書とも正書ともいう)書法の条件は、三過折(出典は『題衛夫人筆陣図後』)といって、一点画のうちに三折の筆法を用いて一字を構成する体をさす。こうした三過折の条件にかなった楷書の萌芽は、すでに 年出土で後漢末、長沙東牌楼簡牘中にうかがわれるが、いつごろ定形化したかについては、これまで衆訟があった。しかし、一九八四年新出土の朱然刺謁や、一九〇一年尼雅で出土していた詣〓善王検によって、三世紀中葉には、楷書体がすでに成立していたことが知られた。この二件は零細な史料ですが、一方、伝〓されてきた鍾〓の楷書に、これと共通の書法がうかがわれることから、鍾書の楷法を改めて見直す傍証ともなったわけです。
 魏晋における銘石書は、依然として八分体であることは実例が物語っている。ただし魏晋の八分は、漢隷のもつ波勢のリズムを切り捨て、冷厳なまでの形式美で押し出している。線質もきわめて硬質である。この点、西晋の皇帝三臨辟雍碑は、当時の人々が理想にえがたい銘石書の典型だったと思われる。
 墓誌碑
 ところで立碑の禁は、書の歴史上、思いがけない副産物を生んだ。“墓誌碑”の出現である。
 墓誌の起源は秦の瓦文まで遡らせることができるであろうが、いわゆる“墓誌”の定型(上下二石を用い、下石には誌文、上石には蓋題を刻して重ね合わせ、これを墓壙内に平置する)は、六世紀早期ころまで降る。西晋の墓誌も墓壙内に納めるが、いわば碑のミニチュアー版で、立てて置かれる。こうした形制の状態の墓誌を墓誌碑とよび、二石平置式の墓誌と区別する。
 墓誌碑の起源は特定できていないが、もっとも早いのは管洛墓誌碑で、西晋の武帝が二七八年に公布した“石獣碑表の禁”以後にあたる。なお東晋の墓誌碑は張鎮墓誌碑の一例で、南朝では急速に廃れた。一方、五胡から高昌にかけての北朝には、「〜墓表」と額題しているものの、形制は墓誌碑にほかならない梁舒墓表その他数種をみることができる。なお、東晋の墓誌は、その多くは仮葬の際のものであるため、形制も墓誌碑ではなく方版で、また〓製のものがほとんどである。書体も一見、隷楷の銘石書を用いている謝鯤墓誌、王興之墓誌もあるが、例えば、東晋では夏金虎墓誌・謝球妻王徳光墓誌、宋では謝〓墓誌ほか、などのように、当時の通行体を用いたものもある。また東晋と朝鮮のものしか発見されていないが、墓室内の壁面に肉筆で書き入れた霍氏墓誌(挿図B)などがあります。ちなみに、墓地を造営するに当って、厭勝(まじない)文や石や〓や金属に刻したり、また鉛の板に朱書して埋めるものがある。それらは民間の迷信による後漢以来の風習で、買地券とよぶ。これらは墓壙の築材に用いる〓に刻したり書いたりしてあるいわゆる刻字〓・范〓などと同様に、一、二の例外を除き、用いられている書体は当時の通行実用書である。
 五胡十六国
 西晋・武帝の歿後に起きた“八王の乱”に乗じて、中国の西北の地に移住をすすめてきていた五胡――匈奴・羯・鮮卑・〓・羌――は、随所で蜂起し、ついには首都の洛陽まで陥れ、西晋王朝は壊滅した。しかしこれよりさき、建業(南京)に避難していた皇族の司馬睿は、漢人の門閥貴族や江南の豪族の支持をうけて東晋王朝を樹て、南北対峙の時代に突入したのである。
 匈奴の漢(のちの前趙)を建国し北涼が滅亡する一三五年間、山東省から甘粛省にかけての黄河地帯をはじめ、四川省それに河西廻廊におよぶ広大な地域は、五胡が占拠した。漢民族の故地である華北が、異民族の支配下におかれたのは、中国の歴史上はじめてのことであった。が一方、五胡もこの間めまぐるしい興亡をくり返した。“五胡十六国”と総称される複雑に入りくんだ時代がそれである。
 五胡書法の源流
 拓跋族の代(のちの北魏)は、五世紀末まで漢人文化の流入を拒みつづけたが、他の民族は徐々に漢人文化を受容した。また東晋に入っても華北の地にのこった漢人豪族の中には、なお勢力を保った塢主とよばれるものも少しはいたが、その地の胡族に仕えた漢人もかなりの数にのぼった。こうした人々の中に、書人として名のある崔・盧の両氏がある。
 後趙の石虎の高官である崔悦と盧ェは、当時に書名を謳われていた。崔悦は西晋の衛〓・索靖の書を学び、盧ェは魏の鍾〓を学んだという。また崔悦の子の潜は前燕の慕容〓に仕え、孫の宏は後燕の慕容乗に仕え、ともに有名であった。一方、盧ェの子の偃と孫の〓は前燕の慕容儁と〓に仕えて書名があり、崔・盧の二氏ともに鍾〓・索靖・衛〓の書法を守り、歴代それぞれ家学として伝承した。崔・盧の書法は、北魏に入ってのちも重んじられたが、五胡書法の形成に大きな原動力を果したと推測される。ただ五胡の石刻は、前燕の〈元璽三年題記〉(挿図C)ほか五種しかみられないため、五胡の銘石書の実相はいま一息つかめないところがある。
 焉耆の書
 しかし、今世紀初頭以来、敦煌・楼蘭・吐魯番などの地で、西晋から五胡にかけての写経や文書の肉筆史料が数多く発見された。西川寧はこれらの同時史料に着目し、四世紀中葉から五世紀中葉にいたる五胡書法の様式を分析して、基本的な共通項を指摘し、西晋期における木簡・残紙にみられる漢人の書法とは別流の書法であることを論証しました。さらに重要な指摘は、楼蘭出土の三三〇年ころと推定される残紙のうちに、焉耆(中国名。いまのウイグル自治区の哈喇沙尓(カラシャール))人の手になる一連の文書(挿図E)があって、これらが、ケ太尉祠碑などにみる五胡の書との近縁性を示唆するもので、この“焉耆派”の書法が南派に対する北派の骨格だ、と結論する。もっとも、東晋期にあたる楼蘭出土文書のなかには、李柏尺牘稿をはじめ、超済文書のような漢人書法をうかがうものもあるため、通行書体の行草書は変化多端で、名のない人の書もすぐれた芸域をみせている。
 東晋の書
 東晋の一〇三年間は、政治的には五胡と対峙する緊迫の時代であった。政治面は寒門(家柄の低い官僚階層)出身者が権力の中枢を占め、本来は政治の責任を負うべき門閥貴族は、不安定な時代であるだけに、保身のため政権から距離をおき、伝統的な教養に磨きをかける一方、竹林の七賢の処世態度を理想として、なにものにも束縛されない精神の飛翔を希求した。東晋とその後の南朝は、こうした風潮が助長され、中国文化史上、比類ない貴族的文化の爛熟期をむかえた。詩人の陶淵明、書の王羲氏・王献之、絵画の顧ト之らも、社会的不安と焦燥の時代にその美を発揮したのである。
 東晋の書は、一方で王興之墓誌・爨宝子碑のような銘石書も行われている。「歴史とは現在と過去との対話である」という現代的観点で東晋の銘石書をとらえれば、爨宝子碑などはまさしく造型芸術としての感覚が横溢している。しかし、銘石書のもつ公用体としての役割り面から巨視的にみたとき、西晋期の銘石書より優れた書法とはいえないように思う。東晋の書は、むしろ通行体の行草書の世界において、漢魏のそれとは比較にならない洗練された芸術性をそなえているという点で、特筆すべきである。
 書法の典型―二王
 東晋の書を代表する人こそ、後世“二王”と並称される王羲氏(挿図G)・王献之であった。しかもこの父子の書は、単に東晋の象徴にのみとどまらず、書の芸術性に確固とした基盤をきずき、南朝以後、書法の普遍的存在として、歴代、師表と仰がれている。しかし、前述したように、大天才の二王も、豊穣な学芸尊重の時代に遭遇し、個性の伸長を育くむ文化的背景をもっていた時代であったからこそ、大輪の花が開いたのである。
 史書や南朝の書論を繙けば、その書について特筆されている人は、前代にくらべてにわかに数を増している。例えば、東晋王朝建国の功労者で王羲氏のおじに当る王導は、行書にたくみで当時に尊ばれました。その子の恬・洽も書人としての高い評価を得ています。王導のいとこ王〓は王羲氏の師であるともいわれる。また王羲氏の妻の兄弟である〓〓は、章草では羲氏につぐと評され、その子超の草書は二王に次ぐと評されている。王羲氏の友人で政界の重鎮であった謝安の行書、若いときは羲氏と同格とみられた〓翼……といった書人が輩出している。つまり、二王自身が意識するしないに関らず、きわめて良質な芸術的環境に恵まれていたのであった。
 ただし、二王ともに真蹟が一点も伝わっていないため、その実相はなかなかに捉えがたい。それでも王羲氏は喪乱帖・寒切帖、王献之は甘九日帖といった精巧な双鉤〓墨本や、歴代の集帖に収められている刻帖によって、おぼろげながらも手さぐりすることができる。しかし一体、二王――ことに“書聖”王羲氏の書の美の普遍性はどこにあるのか、というもっとも肝腎な命題は、なかなか語りきれないのである。


南北朝
 南北朝時代
 東晋滅亡の引き金は、いわゆる“〓水の戦”である。前秦の符堅は、東晋の覆滅をはかり、孝武帝の太元八年(三八三)、九〇万の大軍で主都の建康をうかがった。が、これを迎撃した謝玄の軍勢によって大敗し前秦は、以後、胡族統一の志も挫折し、華北は再び混乱状態に陥った。ただし東晋の方でも、桓温ら軍閥間の抗争が相つぎ、桓温の子の玄が安帝に禅譲をせまって帝を称した。が、これを討った劉裕が四一七年には漢族の旧都、長安を奪回した。名声と軍事力を背景に帝位につき、宋を建てた。これ以後、陳にいたる一七〇年間、首都を建康(南京)においた時期を南朝とよぶ。各王朝は次のとおりである。

〈王朝〉〈年代〉〈建国者〉
宋 四二〇−四七九年(八代六〇年間) 劉裕
斉 四七九−五〇二年(七代二四年間) 蕭道成
梁 五〇二−五五七年(六代五六年間) 蕭衍
陳 五五七−五八九年(五代三三年間) 陳覇先

 各王朝の建国者は、身分の低い出である点が共通している。また王朝間の交替は殺戮の結果によるものであった。ただしその間における、宋の文帝の“元嘉の治”(四二四〜五三)や、斉の武帝の“永明の治”(四八三〜九三)とよばれる時代、あるいは梁武帝の五〇年近くの時世は、文化の爛熟期であった。
 斉・梁時代には、仏教が栄えたが、たび重なる戦乱で、壮麗なその伽藍は、唐代すでに一つだに遺っていなかった。また帝王の陵墓も、いまはわずかに石獣・石柱Aで往時をしのぶほかはない。
 しかし、一時に花開いた文学作品や各種の芸術論は、その多くが今に伝えられている。例えば、元嘉の治を代表する謝霊運・顔延之の詩文、斉の永明年間に、竟陵王・蕭子良のサロンに会したいわゆる、“竟陵の八友”の文学作品、梁の昭明太子らの撰した詩文集『文選』、鍾エの詩論である『詩品』、劉〓の文学評論である『文心雕龍』という不滅の作品を生んでいる。
 また書論には、宋の羊欣の『古来能書人名』、虞〓の『論書表』、斉の王僧虔の『論書』、梁の武帝の『観鍾〓書法十二意』、〓肩吾の『書品』、〓元威の『論書』、袁昂の『古今書評』があり、画論に宋の宋炳の『画山水叙』、斉の謝赫の『古画品録』がある。これら書画論は文学論とも深く関わり、中国における芸術論の根幹をなす作である。
 一方、華北は〓水の戦のあと、前秦の衰退に乗じて代国が再興し、三八六年には拓跋珪が位につき、国号を魏と改め、都を内モンゴルのフフホトから平城(山西省大同市)に遷し、その年(三八九)帝位について道武帝と称した。
 北魏が他の胡族の施策と相違する大きな点は、漢族の専制的支配体制を積極的に取りこんだことおよび、漢人の有能な者は胡族と同じく要職につけたことであった。道武帝の孫の拓跋Z・太武帝(在位四二三−五二)にいたり、五胡の残存勢力を潰し、四三九年に華北を統一した。これ以後、北周にいたる一四三年間を北朝とよぶ。各王朝は次のごとくである。

〈王朝〉〈年代〉〈建国者〉
北魏 三八六−五三四年(一二代一四九年間) 拓跋珪
東魏 五三四−五五〇年(一代一七年間) 高歓
西魏 五三五−五五六年(三代二二年間) 宇文泰
北斉 五五〇−五七七年(六代二八年間) 高洋
北周 五五七−五八一年(五代二五年間) 宇文覚

 北朝もまた、血塗られた王朝の交替劇がくり返される。
 北魏は北辺の守備として六つの鎮(軍政管区)を置いたが、五二三年、遊牧民の柔然軍が侵攻して惹き起した、いわゆる“六鎮の乱”で大混乱に陥った。一方朝廷は、政治の腐敗と暗殺によって墓穴を掘り、ついに高歓の政権=東魏と、宇文泰の政権=西魏に分裂した。東魏は、高歓の次男の高洋が孝静帝の禅譲により北斉を樹て、西魏は、宇文泰の長子の宇文覚が恭帝の禅譲により北周を樹てた。北周の武帝は北斉を滅ぼしたが、しかし北周も第六代静帝の即位(五八〇)の翌年、政権を握っていた皇太后の父である楊堅に、帝位を譲らされた。これが隋の文帝である。
 北朝の文化は、北魏の孝文帝が洛陽に遷都して以後、積極的に南朝文化の摂取をはかっていたが、南朝ほどの高度な芸術事象は多くない。ただし仏教関係では、優れた文化財を遺している。いわゆる“石窟寺院”である。
 有名な敦煌の莫高窟(千仏洞ともいう)の草創は、前秦の建元二年(三六六)とされるが、現存最古の北涼窟のほか、北魏・西魏窟がいくつも開鑿されている。また草創が四世紀末とみられている甘粛省天水の炳霊寺石窟は、現存最古の西秦・建弘元年(四二〇)窟ほか、北魏晩期の石窟・石龕がある。が、もっとも壮大なのは、北魏が山西省大同へ遷都後の造営になる雲崗石窟Cである。これは僧・曇曜の発議で、和平元年(四六〇)に、道武帝ら五帝のため、いわゆる“曇曜五窟”を造営することに始まるものである。さらに孝文帝の洛陽遷都後には、北朝書道史上もっとも重要な龍門石窟が、伊水の西岸に開鑿された。そのほか北魏から北朝末のものに、義県石窟(遼寧省)、燿県石窟(陝西省)、鞏県石窟(河南省)などが開鑿された。
 さて、南北朝の書については、従来の書道史では、それぞれタテ割りにして見ていた。その考え方の根底には、南北両朝が政治的にも隔絶していたという認識によっており、書の面では阮元の「南北書派論」が大きく左右していた。しかし今日、歴史学者は政治はともかくとしても、思想や文化面では、想像以上の交流があったとみている。事実、書の面でも新出史料を俯瞰するとき、東晋と五胡、南朝と北魏は、これまで考えている以上に、影響しあっていることが知られる。
 ただ南北朝における書の現存史料を鳥瞰するとき、ほとんどが碑碣・摩崖・造像・墓誌の石刻類で、墨蹟はごく少なくそれも写経が主である。なお石刻類も北朝が圧倒的に多く、南朝のものはごくわずかでしかない。この点は、中国書道史上の一特徴である。
 碑碣
 魏晋以来の“立碑の禁”は南朝でも厳重に遵守された。その結果、今日見るべき南朝の碑は〈爨龍顔碑〉(図4)をはじめとして二、三にすぎない。それにひきかえ、北朝の碑は豊富である。ところで五世紀初頭には、楷書はすでに書法として確立しています。これまで“銘石書”(石刻に用いる公用書体)は、南北それぞれが書法的基盤を異にすると考えられていたが、新出土史料によって、南北は、共通した書法が脈流していることが明らかになった。したがって爨龍顔碑や北朝初期の太武帝東巡碑・中嶽崇高霊廟碑もじつは同一基盤の上に花開いた書といえよう。
 北魏も中期をすぎると、北方の鋭い気象と南朝の間架結構をうまく組みこんだ名品が出現する。北魏書の双璧とされる張猛龍碑と高貞碑がそれである。南朝はこのころ、梁の中期にあたり、代表的な作例に蕭景神道石柱題字や貝義淵の蕭憺碑があって、温雅な風趣をそなえている。ただし、張猛龍碑・高貞碑にせまる書格ではない。
 北朝の石刻は、北魏の永平〜正光年間(五〇八−二四)を頂点で、東・西魏、北周、北斉へと降るにしたがって、書格は低く、書法も固定化へと向い、格別の作例をみない。
 摩崖
 摩崖の書は、自然の岩場や巨石に刻されていることから、総じて気宇の大きい書風である。南朝では、梁の〓鶴銘が唯一の古刻として著名である。北朝では、西の地にある北魏の石門銘と、東に位置する鄭道昭の四山摩崖が、名蹟として評価されている。この三つの摩崖は、ともに遠心的な書法であり、南北共通の書法基盤がうかがわれる。ことに四山摩崖のい評価は、現在になお不変である。ただし、そのうちのいずれが鄭道昭の自書か、という点については、いまなお定説をみない。
 造像記
 造像記とは、だれが何の目的で仏像を造ったか、というその由来を書き入れた題記をさす。なお、単独の石に碑形を造って尊像と銘文を共有するものを造像碑とよび区別している。
 南朝にもわずかに造像記が遺されているが、北朝の盛大さにはとうてい及ばない。北朝の著名な造像記は多く石窟内に遺され、雲崗石窟をはじめとして、龍門石窟、義県石窟、鞏県石窟などの造像記が知られている。が、ほかにも北魏晩期の劉根等造像や曹望ニ造像などは、みごとな風趣をそなえている。また一九五五年には、河北省曲陽県から白玉像が出土し、また一九九六年、山東省青州市の龍興寺遺跡からも造像が多数出土した。それらの光背や台座には、北魏・東魏・北斉の造像銘も多数発見された。
 北斉・北周においては、仏教・道教が国家の施策を危うくするほど盛況をきわめたから、両王朝の命数に比べて造像記が極めて多いのは特筆されよう。ただし時代的特色というほどのものはうかがえない。
 書道史上ことに重要なのは、龍門造像記である。ただ龍門造像記は、北魏だけでも二〇〇〇種あまりある。一般的にはその内、書風に特色があり、字数も多い龍門二十品がもっとも著名である。ただし、書法の伝流からみるとき、留意すべき作例は、小品も含めて数多くある。
 墓誌
 墓誌のルーツは秦代にあること、立碑の禁が遵守された魏晋以後、墓誌碑が出現したこと、また東晋に墓誌のあることなどについては、前述した。ただし、墓誌の形製と内容が整い、盛行するようになるのは、北魏の洛陽遷都以後のことである。もとより南朝にも、古くは宋の劉懐民墓誌が知られており、新出土史料も謝〓墓誌ほか二〇点ほどがあるが、北朝の墓誌の六〇〇〇点近い数量の影にかくされてしまう。墓誌の形製は、東晋−梁では一例を除き蓋を伴なわない。が、北魏以後では、上下二石(上が蓋、下が誌)を合わせて平面に置くものが主流である。なぜ二石一対平面安置の風習が生まれたかの理由は明らかではないが、おおむね六世紀初頭には定型化しつつあった。
 誌石はおおむね小型であるから、良質な石材が整えやすいためか、書丹(肉筆)の書法が細大もらさず再現されているものが多い。南朝にも斉の劉岱墓誌、梁の王慕韶墓誌のようなすぐれたものがあるが、北朝では、ことに宣武帝・孝明帝期(四九九−五二八)にかけての王室である元氏の墓誌に、極めてすぐれた作例が多い。
 南北期の墓誌の書体は、楷書が主である。このことは石刻に入れる書−銘石書すなわち標準体が、この期にあってはすっかり楷書で定着していたことを物語っている。ただ、東魏以後、楷書をベースに篆書や隷書をまじえる雑体書がままみられるのは、書の歴史上特記すべき点ではある。ただし、雑体書のほとんど−碑碣・摩崖を含め−様式的に固定化し、生新な息吹きに乏しい。
 法書
 墨蹟として伝存する法書は、北朝にはない。南朝の宋・斉の貴族は、二王(王羲之・王献之)を学んでいるが王羲之の書は古風とみなされ、とりわけ王献之の縦逸さに魅かれていることが、書論書にみえる。羊欣・孔琳之・薄紹之・蕭思話らがそれである。梁に入ると、文化は爛熟をきわめ、書もまた百体書などという装飾体や遊戯的な書が流行した。ただ南朝の書で伝存する作例は、『淳化閣帖』等の集帖に刻入されたものがほとんどで、それらがどこまでが実相を伝えているかは、心もとない。わずかに唐代の双鈎填墨本『万歳通天進帖』中に収録の王僧虔の太子舎人帖、王慈の栢酒帖、王志の雨気帖によって、二王の書の伝流を知るのみである。
 紙文書
 紙に書かれた文書(ほとんどは残紙)や写経は、二〇世紀初期に、敦煌や新彊ウイグル自治区(吐魯番・楼蘭・庫車ほか)で発見された。それらは外国人の探検によるものがほとんどで、スタインがロンドン、ペリオがパリ、オルデンブルグがサンクトペテルブルグ、大谷光瑞が旅順ほか、といった公的機関に収蔵している。このほか西北科学院が発見したものは、北京の国家図書館にあり、またわが国の台東区立書道博物館ほかも所蔵している。
 写経
 紙文書の中ではことに写経が多い。その中には、五・六世紀のものも比較的多い。写経を鳥瞰するとき、五世紀の作は、西北地方――例えば北涼(三九七−四三九)における様式に脈流する作が目立つ。六世紀に入ると、西北様式から転化した造像記・墓誌に近似の写経と、南朝の通行様式による写経とには、書風の差がなくなってゆく。換言すれば、銘石書と写経類の様式が近似している。例えば、持世第一跋・司馬金龍漆画屏風題記は、謝〓墓誌ほか南朝・宋の墓誌と共通の書法によっている。また仏説菩薩蔵経第一と沮渠封戴墓表、勝鬘義記の標題・昭書と始平公造像記も、それぞれ共通の書法基盤にあることなどから、その一斑は知られよう。



 隋代概観
 隋は北周の名族であった楊堅(文帝)が、幼い静帝から禅譲のかたちで創建した王朝である。建国後八年には、南朝の陳を滅ぼし、三〇〇年近く南北に分かれていた中国を統一した。
 文帝は倹約を率先し、皇族や官僚の奢侈を禁じ、緊縮財政を実施して人民の負担を軽減する一方、仏教を奨励して人心の安定をはかった。また門閥制度を排除し、科挙を創設する一方、官制の整備、地方行政の簡素化をはかり、中央集権国家体制の確立につとめた。文帝によって整備された律令や諸制度中、租庸徴の確保と均田制などの施策が功を奏し、生産は増大し国庫も豊かになった。しかし一面、運用を急ぎすぎたことで、豪族たちの反発を招いた。
 文帝を継いだのは、歴史上に悪名高い煬帝である。頭脳は明晰で政治力もあったが、豪奢な生活を好み、そのため人民を酷使した。帝位につくと、長安から洛陽への遷都をはかり、二〇〇万人を徴発して宮殿・庭園を造営し、江南の奇石・珍木を運搬するのに、また一〇〇万人を駆り出して大運河を開鑿した。
 一方で煬帝は積極外交をすすめ、西域の国々を朝貢国として、南方の林邑国をも屈服させた。しかし、文帝からの課題であった高句麗征討では、一〇〇万もの大軍をあげて、三度にわたって遠征したが、いずれも敗北した。このため国庫は乏しくなり、また遠征にともない人民を強制労働させたことから、ついに全国的な農民暴動がおこった。その後、各地の群雄ともども争う動乱の時期となり、煬帝は孫の楊侑(恭帝)を都に置いて難を避けたが、その一年後、親衛隊の部下の一人に絞殺され、隋は四帝三七年で滅亡した。
 隋代の書
 隋は短命の王朝であったため、書の歴史では、一般に“隋唐様式”と一括して論じられることが多いが、楷書の発展において、隋代はことに重要な時期である。ごく大まかにみても、龍蔵寺碑・啓法寺碑・李和墓誌・蘇慈墓誌など、洗練された整斉な書法の一群、龍山公墓誌・□爽墓誌など、前代の書法に拠る守旧派の一群、また、〓〓碑など中間的な一群があり、こうした石刻をみただけでも、決して一色ではない。また曹植廟碑その他、楷書をベースに篆・隷・飛白体をまじえ書きする耽美的な“雑体書”は、北朝末期の流れを汲むもので、これも一書流を形成している。しかし、大きな潮流は、南朝の婉麗な書法が、北朝の寒倹な書風に融け会って、端正で清爽感をそなえた書法を形成した点にある。
 墓誌の盛行
 隋代は墓誌がたいへん豊富である。各王朝の存続年数に比例させれば、隋代は墓誌の黄金時代といえよう。またそれらの書体・書風も、なかなかに多様である。
 隋代墓誌中、いちばん早い作例の李和墓誌や、時代の降る元公夫人姫氏墓誌など、細味で俊敏な北朝風の一類、新出土の羅達墓誌など、緩やかな用筆でゆったりと構える南朝風の一類、馬穉墓誌・宋循墓誌など、北朝晩期の風尚をうけた八分書の一類がある。しかし、美人董氏墓誌・独狐羅墓誌など、南北の書法を融合して、端正な結構をそなえ、熟達した技法による清爽な書風の楷書こそ、隋代を象徴する作風であろう。この一群のなかにはまた、欧陽詢の若いころの作と見まごうほどの蘇慈墓誌とか、宮人何氏墓誌や、李静訓墓誌など、穏和で品格の高い作例に示唆されるように、初唐の名作が生まれる土壌は、この時期すでに、きわめて肥沃だったことが理解されよう。
 仏教奨励と写経
 北周・武帝の仏教弾圧のため荒廃した仏教界は、文帝の奨励と煬帝が仏教信者であったことから、各地の寺院が再興した。その数四〇〇〇、僧・尼は二三万人を数えるほどの隆盛をみた。『一切経』を主とする訳経事業も再開され、おびただしい数の写経が、経生とよばれる筆耕職人により大量生産された。現存する有紀年の隋経だけでも八〇種を数え、隋経も墓誌と同じく王朝の命脈にくらべ、のちの唐代より盛んであったことがうかがわれる。それだけにまた隋経は、例えばわが国にもたらされた賢劫経のような書法面でもすぐれた作例が多く、古風なものや北朝風のものもあって、多彩であるが、総じて清勁な趣をそなえている。
 隋の書人
 『隋書』『北史』に名をとどめる書人は、一〇人ほどでしかない。唐の竇〓『述書賦』には、房彦謙と盧昌衡を載せるだけである。また史陵がいて、唐・太宗・〓遂良らは、この人に書法を伝授されたという。ただし、右のいずれも作品は伝存しない。後世まで書名があり作品のみられるのは、智永と啓法寺碑の書者である丁道護だけである。
 智永は“退筆塚”とか鉄門限の逸話でもしられる、王羲之七代目の子孫にあたり、永字八法の創始者で、これを虞世南に伝えたともいう。張懐〓『書断』に、「王羲之の肉を会得し、多くの書体を兼ね善くしたが、とくに草書にすぐれる。格調は欧陽詢・虞世南に劣るが、精熟さでは羊欣・薄紹之を抜いている」と評している。智永の真草千字文はいまに伝わり、王羲之書法に根ざした習字の教則本として珍重されている。丁道護の事跡はよくわからないが、黄伯思『東観餘論』に、「古ならず今ならず。遒媚にして法あり」と評しているが、これまた南朝書法の脈流にある。ちなみに、顔之推『顔氏家訓』に、梁から北周に仕えた王褒は、瑯邪王氏の末裔で、この人の王法が北朝の書風を一新した、といっており、北朝末期から隋代の碑誌の書に、南朝風の楷書がある事情の一斑を示唆している。

 昌国の墓表
 昌国は、北魏が北涼を滅ぼし(四三九年)、その遺民が、いまの新彊省吐魯番を中心に建国したことに始まり、唐に滅ぼされる(六四〇年)、約一四〇年間続いた。住民の多くはイラン系であるが、文化全般にわたって中国風で、年号もそれに倣っている。
 昌国の墓表は、二〇世紀の初期に大谷探検隊や、西北科学考察団が発見し、また一九六〇代以降、現在にわたり、多く発見されており、『吐魯番出土磚誌集注』には二〇五種を挙げている。
 それらの墓表は四〇×四〇cm以内の小型の〓製である。基本的には卒年・官職名・人名だけの簡記であるが、〓面を多くは彩色(白・藍)し、肉筆(朱・墨色)なのが特徴である。書体は楷書。北魏書法の脈流が色濃く、総じて転折部を強調し、肥厚体で寛綽な書風に特色がある。



 貞観の治
 隋末に割拠した群雄のひとり李淵(唐の高祖)は、その子の李世民(太宗)のすすめで挙兵し、六一八年に即位して唐王朝を建てた。高祖の武徳時代は、一七にもおよぶ独立政権との戦いがつづき、不安定であった。唐王朝の礎をきずいたのは、二代目皇帝の太宗です。太宗は兄弟を殺し、父から力ずくで皇帝の位をかちとったことで汚点をのこすが、類まれな政治手腕をもち、度量が大きく、すぐれた人材は、その前歴をとわずに側近に集め、それぞれの才能を発揮させた。律令を体系化し、隋の科挙制度を導入して官制を整備する一方、税制改革で国庫を豊かにし、兵農一致の軍制を実行し、急速に平和な時代をもたらした。また高句麗ほかの遠征にも次々と勝利をおさめ、国威を内外に示しました唐三〇〇年の礎がきずかれた。太宗の世は後世“貞観の治”とたたえられ、太平政治の模範と仰がれた。
 また文化政策面では、孔穎(くよう)達(だつ)らに儒学の経典を再検討させ、『五経正義』を勅撰せしめたのは特筆すべきことである。
 太宗による書の啓蒙
 太宗は宮中に弘文館を制置し、上流貴族の子弟で、書の素質のある者は、虞世南・欧陽詢に楷法を学ばせた。また一方、科挙の試験で進士科を受った者が、任官に際して銓衡する四科目(身・言・書・判)に、書を加えたほど、書法を重視しました。ただしここにいう書とは、規範性を主眼とした楷書で、正しい標準体の普及を意図したものでした。なおのちのことになるが、張参の『五経文字』(七七六年)、唐玄度の『九経字様』(八三七年)が編纂され、経書を書く正式の体が定められた遠因は、太宗による書の啓蒙にあったとみてよい。
 初唐の楷書が隋代の書を基盤としながらも、一段と磨きがかかり、規範性をそなえた書風に昇華したのは、こうした唐初の文教政策の動向に、連動していたと考えられる。
 王羲之書法の権威化 太宗自身、書人としても一家を成しており、晋祠銘・温泉銘を遺している。ことに王羲之書法への心酔は、蘭亭序入手のエピソード一つをとっても、十分にうかがえるが、また臨書にもつとめ、「骨力神彩(表現を支える内面的な力とその輝き)」をつかみとっている。一方かれは、精力的に王羲之の書を収集し、それらを虞世南・〓遂良らに鑑定させた。貞観六年(六三二)には、宮中所蔵の王羲之ほかの書が一五一〇巻にも達していた。〓遂良の『右軍書目』は、そのうちの王書のリストである。また〈喪乱帖〉(巻四図111)〈寒切帖〉(同113)〈奉橘帖〉(同115)その他の王羲之の名蹟は、馮承素ほかの搨書手に精巧な複製を作らせ、欧陽詢や虞世南の名手には臨本を作らせて、保存と普及をはかった。
 太宗のこのような唱導によって、王羲之書法の規範性を高め、“書聖”の座を決定的なものに押しあげたのである。
 初唐の三大家
 “初唐の三大家”(虞世南・欧陽詢・〓遂良)は、太宗のブレーンでもあり、後世、楷書の規範となる名品をのこしていることによって、こう呼ばれます。
 虞世南は、太宗の政務の余暇に、学問や書について語り合ったというほど、太宗にその人柄と博識を愛されました。かれの代表作の〈孔子廟堂碑〉(図32)は、王法を根底にした精神的な高さにおいて、君子の風格にたとえられている。
 欧陽詢は、皇太子(高宗)御養育係を委ねられるほどの信頼を得ていた。書は「八体すべてに堪能だ」と称揚されているが、なんといっても楷書が第一で、その代表作の九成宮醴泉銘は、寸分の狂いもない非凡な間架結構は「楷法の極則」の名に恥じない。
 〓遂良は、太宗が臨終の際、皇太子に「長孫無忌と〓遂良がおれば、国事は心配ない」といったほどの人物である。かれの代表作雁塔聖教序の楷法は、変幻自在の用筆で「動中静」の気象をそなえている。楷書としての表現は、ここに極まったという風趣である。
 三大家それぞれの楷法の出自については、古来、衆訟あるが、隋代の書の肥沃な土壌の上に芽生えた書法である。各人の天分が秀れていたことはもちろんであるが、虞世南における〈智永千字文〉、欧陽詢における〈蘇慈墓誌〉、〓遂良における〈龍蔵寺碑〉の存在、といったふうに、それぞれの下地は、すでに隋時代に醸成されていたのである。
 則天武后の専政
 三代目の皇帝高宗は、帝位についた当初、無難な政治をおこなっていた。ところが、女官の武照(のちの則天武后)を寵愛し、王皇后を廃し、かの女を皇后にしたことから、武照の専横は日ましにつのり、ついには高宗・中宗・睿宗を牛耳り、六八四年には、国号を周と改め、みずから聖神皇帝と称し、唐王朝は一時、中断した。武后の死後、中宗の復位によって再興されるが、皇后の韋氏は、中宗を毒殺し、武后と同じ道をはかった。しかし、睿宗の第三子の李隆基(のちの玄宗)によって、韋氏一族は誅滅され、後世“武韋の禍”とよばれる時代は、終りを告げた。
 武后は即位後に、後世則天文字とよばれる新字体をこしらえた。武后期は、かの女の〈昇仙太子碑〉はもちろん、碑誌や私文書にいたるまで、この新字を使用させた。――わが国でもすでに、和銅元年(七〇八)の墓誌に「圀(国)」の字が使われており、また水戸黄門・徳川光圀もそれです――が、どの字にも規範性がなく、武后の死後には使われなくなった。
 行書・草書の流行
 隋代にいたるまで、行書・草書を石刻に用いた例はない。末代まで残れかしと希う石刻には、各代とも標準書体(銘石書)を用いたからである。楷書が公式書体の地位を確立した唐では、石刻に楷書を用いるのが通例である。ところが唐では、楷書の石刻のほかに、行書や草書を用いる風潮がおこった。
 行書を碑に用いたのは、太宗の〈晋祠銘〉に始まる。高宗の李勣碑、玄宗の石台孝経の末に入れた批答、あるいは李範の章懐太子墓誌は、皇帝または皇族が書くという特殊な現象であるが、一方、王羲之の字を集めて作った集王聖教序をはじめ、その他の“集王碑”は、王羲之書法尊重の風尚を象徴するものである。こうした行書碑流行時代に、これを数多く手がけた人に李〓がいる。なお時代は少し降るが、集王碑風の書で一世を風靡した呉通微の書が、幹林院内の書記の間で流行して以後、“院体”と称される俗書がはびこり、“集王碑”そのものまで顧みられなくなっていった。
 一方、草書の地位も向上した。則天武后の昇仙太子碑は、唯一、草書を碑に用いた作例である。また、荘厳に書かれるべき経典の類をも、草書で書く風が起った。賀知章の孝経は、その代表作な作例であるが、写経にも、則天武后の時代から玄宗期にかけて、にわかに草書写経が多く現れた。しかも妙法蓮華経玄賛のように、王羲之書法をふまえた作が、ままみられる。また王法の典範化は、通常の作にもみられる。その代表的な作例が、孫過庭の書譜である。
 こうした草書の流行は、玄宗期以後において、また新たな展開をみることになる。
 文化の爛熟
 睿宗をついで即位した玄宗の努力で武・韋時代の混乱はおさまり平和が回復した。また経済的にも、貨幣制の復活で繁栄し、玄宗の治世の前半は、“開元の治”と称えられる唐帝国の最盛期となった。しかし、内実は政治面でも社会面でも行きづまっていた。玄宗が太平に酔い政治を顧りみなくなった天宝期のころから、中央集権の弱体化が目にみえるようになり、地方軍閥の勢力が強まって、ついに、唐王朝瓦解の引き金となった安・史の乱(七五五年)が起こった。
 ただし、文化面では、玄宗期は爛熟時代にあたり、各分野で人材が活躍した。李白・杜甫の二大詩人の出現は、その最たる例であろう。書壇もこうした風潮と軌を一にして、新しい波が起こる。篆書・隷書の興隆、狂草の流行、顔真卿の登場がそれである。
 篆隷の復興
 玄宗〜代宗期には、八分隷と篆書が興隆した。そのピークが玄宗期である。玄宗自身も紀泰山銘・石台孝経で知られる隷書の大家であるが、梁昇卿・白羲〓・韓択木・史惟則・蔡有鄰・盧蔵用・徐浩・顧誡奢らが出た。漢隷を師表としながらも、あるいは豊麗あるいは整斉さで妍を競い、後世唐隷とよばれる書風を形成した。しかし、漢隷に比べると骨力に乏しく、様式に拘わって波勢のリズムに欠けるうらみがある。
 一方、篆書では尹元凱・李陽冰(一名、李潮)・瞿令問らがいる。なかでも李陽冰は、秦の李斯とともに“二李”と並称されている。様式は、清の嘉慶(一七九六−一八二〇)ごろまで、ずっと篆書の典型と仰がれ、踏襲された。
 張旭と懐素
 玄宗期にはまた、張旭が出た。張旭は酒豪で、興に乗じて縦横無尽に筆を揮い、ときには頭髪を墨汁にひたして走りまわって草書いたなどと伝えられている。また、かれの後をうけた懐素も、酔後に絶叫しながら書いたという。こうした異常な揮毫態度から、二人は「張〓素狂(〓佚の張旭、風狂の懐素)」と呼ばれる。しかし、二人の狂草がどのようなものであったか、確かな作が一つも伝わらない現在では、実相がつかめない。ただ顔真卿が「張旭は〓佚だが、書法はきわめて法度にかなっている」と評していることや、懐素の唯一の真蹟苦筍帖をみれば、王法を踏まえた連綿草であったようにも想像される。いずれにしろ張旭を旗手とする狂草は、懐素の出現をまっていっそう昂揚し、宋以後の超逸的な連綿草の根源となったことは、特筆される。
 顔真卿の登場
 安禄山の反乱に敢然と義軍をあげ、唐王朝の危機を救ったのが顔真卿一族である。唐への忠節を貫き、悲憤の最期をとげたかれは、忠臣烈士と称えられる歴史上の人物であるが、書の歴史でも一方に屹立する巨人である。かれの出現後、“顔法”とよばれるその書法は、王羲之書法と対峙して、「中国書法の二大潮流となった」とまでいわれるほど、後世に大きく影響した。
 ただし、唐代での書名は後世ほどではなかった。脚光を浴びるようになったのは、忠臣烈士としての人となりと二重写しにして、その書を重んずる傾向が昂まった北宋代からで、とくに蘇軾・黄庭堅が激賞して以来、決定的な評価となった。
 蚕頭燕尾と形容される顔真卿の楷書様式の源流は、要するに、北朝末期の大字書法――たとえば崗山摩崖――や、隋の曹子建碑などを基盤に、篆書の筆意を加えて成ったものである。また晩年になるにつれて、正字意識が強くなってゆく。それらは、直接的には顔氏伝統の篆籀と文字学の影響であるが、太宗以来の正字使用の潮流上にあったのかもしれない。
 無名人の墨跡
 「遒美な楷書」の書けることが、官吏の要件であったことから、唐代は規範性の強い書が重視され、楷法が広く浸透した。その実情は、名もない筆耕職人の写本――例えば、〈世説新書〉(図81)など――や経生の写経にも、みごとな作例があることによって窺えよう。
 唐代の写経・写本また文書は、厖大な量にのぼる。もっともまとまった一群は、今世紀の初頭に、敦煌の莫高窟で発見されたものであるが、このほかにも、新彊省吐魯番阿斯塔那古墳出土の一群がある。その中には、官府文書・戸籍簿・契約書・書翰・随葬衣物疏など、通行の行書で書かれてものがある。これらはみな無名人の肉筆であるが、辺境の地にまで、良質の書法が普及しており、民間における書法の水準の高さを示唆する作があって、興味がつきません。
 書の衰退期
 安・史の乱以後も、唐はなお一五〇年もの命脈を保つものの、内には国家経済の疲弊、宦官の専横と官僚の党派抗争、外では地方軍閥の乱立、周辺諸国の反抗等の悪条件があいついでおこり、没落の一途をたどった。中唐以後は、書もこうした情勢と軌を同じくして、衰退の時代に入った。
 篆隷の復興や、張旭・懐素・顔真卿の活躍で始まった新しい動向も、その後、これといった大家は出ていない。わずかに柳公権が出て、後世、“顔柳”と並称されるが、かれの書には、北宋の米〓に「柳公権が出てから俗書が世間にはびこった」と貶される俗気がどことなくにおう。一方、大勢をしめていた伝統派からは、張従申・沈伝師・呉通微らが出て、当時に名をはせたが、形式主義に陥って通俗化した。
 各種の書論
 唐代にも、孫過庭の書譜に代表される書論が盛行した。その他の主な著述は、張彦遠が撰録した『法書要録』一〇巻や、北宋の朱長文『墨池篇』二〇巻に収められている。張懐〓『書断』、竇〓『述書賦』はこのうちの代表作である。が一方、中唐以後には、“永字八法”をはじめ、実技面の通俗的な技法書が通行する。これも「唐人は法を守る」と貶される因襲化の一斑を示すものといえよう。


五代十国
 五代十国
 唐末は、律令体制を支えていた貴族社会や荘園制度がくずれはじめ、各地の節度使が軍事と財政を掌握して、互いに抗争をくりかえした。貴族や節度使の収奪にいためつけられ、またあいつぐ飢饉によって爆発した農民の怒りは、乾符元年(八七四年)、ついに“黄巣の乱”に糾合され、この勢力が唐王朝を瓦解させる導火線となった。しかし、各地を席捲した黄巣集団も破壊と略奪で墓穴を掘り、節度使らの反撃で壊滅した。
 黄巣の部下であった朱全忠は、宦官や高級官僚を粛清し、ついに唐・昭宗から禅譲の美名のもとに帝位を奪い、後梁を建国した。その機に乗じて、有力な節度使も独立国を建てた。のち約五〇年間は、図示したように、華北の中原では五つの短命王朝が興亡し、また四川省や江南では一〇の王朝が交替した。後世「紛々たる乱離」といわれる、乱世の時期であった。
 五代十国と総称される時代相は、きわめて複雑であるが、巨視的にみれば、いわゆる中原の地における五代は、動乱に明け暮れたのに対し、四川・江南の十国は比較的平穏であった。十国のうち、建業(南京)に都した南唐は、豊かな経済力を背景に、唐代の貴族文化が温存された。ことに書画・音楽を善くし、また書画の収蔵に富んだ李Uは、澄心堂紙・李廷珪墨を作らせたことで名があり、いまになお有名な宣紙や徽墨の歴史は、この南唐に淵源するのである。一方、四川省成都に都した前蜀は、豊かな農産物と絹織物によって国庫は潤沢であったため、十国中もっとも繁栄した。文化面では、亡命した唐王室や貴族たちの影響にともない、儒学の経典の石刻である蜀石経や、木版刷りの経書を出版しているのは、特筆される。
 乱世の書人
 五代の書人としては、李Uと楊凝式があげられる。ことに楊凝式は、五代の各王朝に官として歴任し、乱世を生きぬく保身のためであろうが、狂人を装おったと伝えられる。その書は北宋の欧陽脩をして「五代十国で特記する人物」に挙げる傑出した書人である。蘇軾・黄庭堅・米〓は、その書を顔真卿の革新的書法面の継承者として評価し、明の董其昌は、顔真卿・懐素と蘇・黄・米をつなぐ結節点にあると位置づけている。


北宋
 北宋初期
 北宋の建国者は、趙匡胤(太祖、九二七−七六)である。かれは五代・後周の禁軍(近衛軍)の司令官であったが、部下に推戴され、恭帝を廃し、九六〇年に即位した。いち早く政治改革をおこない、軍閥政治を解体して文官を重用し、中央集権的官僚体制を整備する一方、唐代には形骸化していた科挙制度を整備拡大して、人材の登用をはかった。そうした新興官僚の邁な理念は、政治・経済・文化面に反映された。太祖の手堅い施策は、太宗が着実に引きつぎ、九七九年には北漢を滅して全国統一をはたし、つぎの真宗期にいたって、北宋王朝九代一三五年間の基礎が固まった。
 太宗の文化面での顕著な業績は、百科事典の『太平御覧』一〇〇〇巻、説話集成の『太平広記』五〇〇巻、歴史事典の『冊府元亀』一〇〇〇巻を編纂させたこと、また首都の開封には、翰林院(皇帝直属のアカデミー)に図画院を制置し、例えば李成・范寛ほかの巨匠を活躍させた。(※荒井:李成・范寛は在野の画家です)
 淳化閣帖 北宋前期の書で特筆すべき事象は、太宗の勅撰になる『淳化閣帖』一〇巻である。この集帖は、上古から唐人に至る、約三三〇種を「〓勒上石」したいわば歴代書蹟名品集成であるが、うち五巻計二二四帖が王羲之・王献之の書で占められている。王著の編次が杜撰で、偽蹟も多くまじっているという〓点もあるが、二王の書を後世に普及させた功績は量り知れない。原刻完本は伝世しないが、清代に至るまで多くの翻刻本が作られており、個性派と目される書人もみな一度は『閣帖』を臨書している。
 篆書の復興 宋初の顕著な現象のいま一つに、古文字研究にともなう篆書の復興が挙げられよう。その前縦は南唐時代にあり、王文秉が著名であったが、ことに徐鉉・徐〓兄弟の業績が光っている。徐鉉は当時異本の多かった『説文解字』の校訂に力を注ぎ、また〓山刻石を〓刻した。徐〓は『説文解字繋伝』を著した。後漢から宋に再仕した郭忠恕は篆書で著名で、三体陰符経碑が現存し、『汗簡』はかの専著がある。また僧の夢英に、篆書千字文・篆書目録偏旁字源碑の石刻が現存する。
 北宋中期
 北宋中期の仁宗〜神宗期(一〇二一−八五)は、官僚層における旧法党と新法党との激しい政争の時代であった。
 仁宗の治世は、後世“慶暦の治”といわれ、范仲淹、欧陽脩らのすぐれた官僚が活躍した清新な時代であった。しかし、仁宗治世の末から次の英宗期は、西夏との抗争により財政が窮迫したうえ、革新派の官僚間でも意見がまとまらず、政策がゆきづまった。二〇歳で即位した神宗は、王安石を抜擢して宰相に任じ、青苗法その他、十指におよぶ“新法”を実施した。しかしそれは、官僚地主階層を突きくずす大変革であったため、保守派との激しい政争をひきおこしたのである。
 変革期の宋代中期の書も、大局的にみれば、依然として旧派の時代である。范仲淹、蘇舜欽、文彦博、欧陽脩らがそれで、王羲之やその書法の脈流にある唐人の書に拠っている。が、中でも欧陽脩の業績が光っている。旧法党に属すかれは、科挙試における美文調の
“四六駢儷文”の答案を斥け、実質的な“古文体”のものを採ったことが、いわゆる古文復興運動の契機をつくった。後世かれも“唐宋八大家”の一人に数えられるが、北宋学藝界の大御所で、門下に蘇軾・曽鞏らの逸材を排出させた。また欧陽脩は、書の歴史上、金石学の嚆矢となる『集古録跋尾』の業績で特筆される。
 文人趣味
 激しい政争を生む官僚は、一面でい教養をそなえた“文人士大夫”でもあった。かれらは琴・棋・書・画にも通じており、士大夫間での風流なサロンが形成され、また文人趣味的な著作も生まれた。欧陽脩の『洛陽牡丹記』、蔡襄の『茶録』といった花の鑑賞、喫茶の趣味といったほかに、筆墨紙硯の概説書の蘇易簡『文房四譜』などがある。蘇易簡のことばとして伝わる「明窓浄机、筆硯紙墨、ともに精良。こうした書斎こそ、またおのずから人生の一楽」は、文人生活の理想を象徴している。
 北宋晩期
 神宗は三八歳で崩じた。わずか一〇歳で即位した哲宗に、皇太后が摂政となると、章惇らの新法党は政権の座を追われ、再び旧法党が政治の中枢を占め、青苗法ほかの“新法”は廃止された。しかしそれも九年間で、太后の死で親政を執った哲宗は、ただちに旧法党を一掃し、新法党で政権を固めた。ただしこのころには、新法党も王安石の改革理念はうすれ、施策にあたる人物の度量も小さく、旧法党の弾圧に終始した。一方、旧法党も三派に分かれるなど、政局は混乱の度を深めていった。つぎの徽宗期も、新旧両派の党争で政権は目まぐるしく交替した。しかも両派とも、門閥・地縁、また科挙試にともなう師弟関係で、さまざまな派閥が生じたため、政治の混迷は加速化した。徽宗は、藝術的資質と文化施策は帝代帝王中でも屈指で、「風流天子」ともいわれた。が一方では、政治理念のない蔡京や宦官の童貫ほかの侫臣に政治をゆだね、また国庫を宮殿・道観、さらには庭園の造営に費やし、ついには亡国をもたらした暗愚な帝王として、「玩物喪志」と筆誅されてもいる。
 徽宗の文化施策
 徽宗は詩や音楽にすぐれたが、ことに花鳥画に新生面をひらき、書は独自の痩金体によって書の歴史に別幟を樹てている。文化施策面では、翰林院の画院・書院制度を整備する一方、書画古器物の収集をはかり、米〓らに鑑別整理にあたらせ、『宣和博古図』『宣和書譜』『宣和画譜』のほか、『淳化閣帖』より良質の『大観帖』をも勅撰させ、文化の精粋を後世にのこした。
 宋の四大家
 北宋晩期は変動の時代であるが、書の歴史上、新しい息吹が現れた。その象徴が、宋の四大家すなわち蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米〓である。蔡以外の三人の書風は、その後の書の歴史に、蔭となり陽となって多大な影響をもたらした。蔡襄はあらゆる書体をこなしたというが、草書にもっともすぐれ、放恣に流れず颯爽とした書風である。蘇軾は号の東坡で親しまれる文豪であるが、書は行書を特意とし、諸家の長所を吸収しつつ個性の発露を第一義とした気宇の大きい書風である。黄庭堅は書の実作者としての面が色濃く、楷・行・草書ともに筆力をそなえている。ことに草書は、張旭・懐素・楊凝式の新様式をふまえ、骨気をそなえた脱俗の書風である。米〓は二王ほか晋人の書を習いこみ、楷・行・草書とも、四大家中ではもっとも熟達しているが、晩年の行草体には、かれの理想とした「平淡天成」の風趣が横溢している。


南宋
 南宋時代
 宋末の政治的混乱と国力の疲弊をねらい、遼を滅ぼして建国した金の侵攻を招いたため、徽宗は「己を罪するの詔」を発して欽宗に譲位した。が、再度都に侵入した金軍に、欽宗ほか宗室ともども北辺の地に拉致され、虜囚の末最後を遂げ、ここに北宋は滅亡した。この“靖康の変”の際、宮中の収蔵文物の大半が金に奪われた。
 靖康の変でただひとり、康王・趙構(宗)だけは難をのがれ、哲宗の皇后の指名で皇帝位に即いた。その後も有為転変はあったが、一一三八年、浙江省杭州に都を定めた。その後の約一五〇年間を南宋とよぶ。
 南宋新政権は、姦臣の秦檜に掌握され、執拗に南侵をくりかえす金軍に苦しまされた。主戦論者の岳飛は粛清され、一一四二年には金との講和が成ったが、宋は金に臣下の礼をとり、かつ莫大な歳幣を支払うという屈辱的な条約であった。が一方、江南の地は開墾されて急速に経済力を増し、政治も一応は安定した。ただ宗には子がなく、一一六二年、養子の〓(しん)(孝宗)に譲位したが、その後の二五年間を文墨生活を送った。宗の特筆すべき面は、書を文化的施策の具と考えていたことにある。北宋末の動乱で散佚した内府の文物の回収につとめ、また御書石経を書刻したことがその現れであり、その『翰墨志』に、書の振興を吐露している。
 孝宗治世の間は、南宋の最盛期であった。緊縮財政をはかり、金との条約は両国を叔〓(おじおい)の関係に改定し、歳幣も削減させた。しかし、その後の光宗・寧宗期は、また官僚間の権力争いが熾烈火したことなどから、国力は次第に退潮へと向った。
 南宋の書
 宗は徽宗の藝術的資質をうけ、書画に秀でた。ことに書は「成人してから五〇年間、書作しない日は一日もなかった――。晩年には書の美を理解した」と述懐しているとおり、二王や米〓を根底として、格調い諸作を遺している。孝宗も直接、宗の指導をうけ、正統的な書風をうけついでいる。両帝の書の愛好は、書の土壌を豊かにして、見すごせない書人が輩出している。米友仁・王升・楊无咎・呉説・呉〓・張孝祥・范成大・陸游・朱熹・張即之らで、二王や黄庭堅・米〓に私淑しつつも、また独自色を出している。ことに呉説の游糸書・張即之の行書味がかった楷書は、前後に例をみない書風である。
 法帖と金石書
 南宋では宗勅撰の『閣帖』の翻刻『紹興国子監帖』があり、孝宗勅撰の『淳煕秘閣続帖』がある。また一家の収蔵から集刻したものとしては、すでに北宋代に米〓の『宝晋斎帖』があったが、韓〓胄の『群玉堂帖』が知られるなか、また専帖(一個人の書蹟の集刻)がある。顔真卿の書を劉元剛が『忠義堂帖』に、蘇軾の書を汪聖錫が『西楼帖』に、米〓の書を岳珂が『英光堂帖』にと刻した。ただし、いずれも原刻完本は伝わらない。
 金石の著録は、『集古録跋尾』の体裁に〓った趙明誠『金石録』をはじめ、洪〓『隷釈』・『隷続』、それに陳思『宝刻叢編』、無名氏『宝刻類編』がある。採録の石刻にはすでに亡佚したものも少なくなく、金石学の基礎資料として重要である。
 書論書・題跋
 書画に関する研究は、宋代でも顕著である。米〓の『書史』『宝章待訪録』は鑑賞の記録であるとともに研究書でもある。黄伯思『東観餘論』『法帖刊誤』は孝証が中心であり、姜〓『続書譜』、趙孟堅『論書』は純善たる書論書であり、歴代の書論書を集成した陳思『書苑菁華』もある。また岳珂『宝晋斎法書賛』のような鑑賞中心のもの、桑世昌『蘭亭考』のように蘭亭序だけの研究書もある。
 宋代では、書画の収集にともない、個々の作品を鑑賞した感想を巻末に書きそえる風習が盛んとなった。いわゆる題跋である。文人の文集には題跋も収録されているが、また後人がかれらの題跋だけをまとめた著録もある。例えば、蘇軾『東坡題跋』、黄庭堅『山谷題跋』、陸游『放翁題跋』、董〓『広州書跋』がこれで、それぞれ一家の見識による随想には、書画の研究に資する内容が多く含まれている。
 遼時代
 遼(九一六−一一二五)は、契丹族が蒙古・満州・華北の一部を領有し、二代目の耶律徳光(太宗)が、宋の燕雲一六州を奪い、国号を遼と唱えた(九三六)。第六代の聖宗・統和二二年(一〇〇四)には宋帝を兄とする関係および、銀一〇万、絹二〇万匹を蔵幣として取る条約(〓淵の盟)を結び、遼が滅ぶまでおよそ一二〇年間、宋に約条を守らせた。
 遼は多くの漢人をその傘下に入れ、中国の制度を容認し、漢字の使用を制限しなかったが、統治の根幹は民族国有の制度を維持し、中枢は契丹人が掌握した。建国後には独自性を示すため、太祖(耶律阿保機)は“大字”、その子の耶律迭(てつ)刺(し)は“小字”の契丹文字を制定した。
 遼代には書人として名を成した人はいないが、墓誌の中には多少ともみるべき作はある。
 金時代
 金は女真族で、長く契丹族の支配下にあったが、一一一五年に阿骨打(アクダ)(太祖)が自立して帝位につき、五年後に宋と同盟を結び、第二代太宗・天会三年(一一二五)に遼を滅した。第三代熙宗にいたり、南宋と講和を結んだことは前述したが、その前後から政治・経済・文化面で、宋の強い影響をうけ、次第に中国的国家体制へと変容した。ことに文化面では、第六代章宗の時代が最盛期で、章宗みずから書画をよくし、また文物の収集につとめた。その後、財政の破綻をきたし、外には蒙古系遊牧民の侵攻や西夏との交戦が頻繁となり国勢は急速に衰退へと向い、ついには蒙古と宋の連合軍によって、金は一二〇年間の命脈を閉じた。
 金代の書は、主として章帝期の前後に著名な書人が出た。概して蘇軾・黄庭堅・米〓の影響が強いが、中でも党懐英の篆書、王庭〓の沈雄な行書、趙秉文の豪勁な行書が特筆されよう。



 元時代
 元朝の起源は、一二〇六年にテムジン・チンギス汗が王国の誕生を宣言したことに遡る。かれは遊牧の諸部族を懐柔しつつ力を蓄え、鉄の統制で固めたその軍団により、一二二五年にはアジア大陸の東西にまたがるモンゴル帝国を築いた。その子のオゴタイ汗は、一二三四年に金を滅ぼし、内外の諸問題に目まぐるしく対応しつつ、傑物フビライ汗の時代に入った(挿図@)。
 一二六〇年、皇帝位に即いたフビライ(世宗)は、一二七一年に国号を大元と称し、その八年後には南宋をも滅し、名実ともに中国歴代王朝を継承する元朝を樹立した。その後の成宗・武宗期(一二九四−一三一一)には、モンゴル帝国の四汗国(挿図A)と国交をひらき、東西交易が発展した結果、中国史上最大の版図となった。
 仁宗・英宗期(一三一一−一三二三)には、儒教への傾斜を深め、科挙制度を復活するなど、漢人の文化を吸収して、黄金期をむかえた。しかし、いずれの王朝の交替期と同様、元朝も支配者層の権力闘争がおこり、また政治腐敗によって国家財政が乏しくなることから、人民への苛斂誅求となり、政治不信をつのらせた。さらに、抑圧されつづけた漢族の不満も倍加し、順帝(一三三三−六七在位)の初期ころからは、白蓮教(弥勒菩薩に頼る一種のメシア信仰)の徒が、紅巾軍を組織し、一三五六年、反乱を起した。しかし組織化が機能せず、元軍に敗れた。その後張士誠ほかの群雄は各地に分散して覇を競ったが、朱元璋によって破られ、一三六八年には、かれが元の首都を陥し、元室を北辺の地へ追いやって帝位につき、元朝は滅亡した。
 冷遇された漢民族 元朝は、領治下の諸民族を政権に帰属した順序に従って、四つの身分階層に分け、それぞれを別個の法体系で統治した。最上層に蒙古人を置き、その下に色目人(西方系の諸部族)、そのまた下に漢人(旧金朝領治下の中国人・契丹人・高麗人・女真人)を置き、最下層に南人(最後に征服した南宋の中国人)を置いた。この身分制によって、南人は人口も多く、圧倒的多数のエリートを擁しながら、あらゆる面で苛酷な差別を受け、官僚への道も基本的に閉ざされた。元の書は、こうした南人、とくにいわゆる江南の出身者が主流であった。
 元代の書
 元の書は、総じて復古的である。その根本的な理由は、“南人”の知識人が、異民族支配を受け――あるいは抑圧を受けたからこそ、漢族文化の伝統を護持する思いを強くした、と思われる。その象徴的な人物が趙孟〓である。
 かれは南宋遺民の硬骨漢や後世の民族主義者に、南宋の皇族でありながら、異民族にへつらった節操のない人物と非難されるが、南宋皇族を中心に継承されてきた、王羲之に淵源する正統書法への回帰を実践した。かれの復古的書法は雅びではあるが、一面では通俗的要素をはらみ、一般人に理解しやすい書風であったことから、当代をはじめ後世にまで多大な影響を与えた。
 なお当時、趙孟〓と書名を競った鮮于樞・ケ文原も、二王を核とする晋唐の正統書法に根ざしたが、鮮于樞の死後は、趙の書の様式が一世を風靡した。
 なおまた、復古的風尚は、一面で篆隷や章草へも関心をうながした。例えば、趙孟〓は千字文を五体で書いたり、章草による急就章を書くケ文原らが出たのも、元初以後の一特色である。
 元の中期では、虞集・柯九思・掲〓斯・康里〓〓・張雨らが著名であるが、張雨を除けば、すべて文宗が設立した奎章閣学士院にかかわった人たちであった。この時期の書は、趙孟〓の復古調を根ざしながらも、趙の天雅温潤の趣が薄れて、しだいに厳しい気象を具えるようになった。虞・柯・掲ほか、欧陽詢風の楷書を好むようになったこともその現れである。とりわけ康里〓〓・張雨の書にその傾向が顕著である。二人はともに元の中国統一後に生まれた。その意味では、元代固有の風気を具現した書風は、この二人に始まるといえよう。康里〓〓は、章草の筆法を生かして激越の気象を、張雨は険勁の筆致によって清挺の趣を示し、ともに野趣清新の風を代表する。
 元末に気をはいたのは楊維驍ニ倪〓である。楊維驍ヘ章草の筆法を取り入れた特異な行草、倪〓は閑寂清峭の小楷で特筆されるが、ともに中期に芽生えた野趣清新の風趣を継承している。また兪和は、趙孟〓に追随して肉迫したが、時代の風気であろう、露鋒できびしく運筆し、趙の温潤な趣とは少し開きがある。
 文人主義の台頭
 元では、科挙試による公平な選抜はほとんど実施されず、高級官僚の地位は、蒙古人・色目人に独占された。教養のある南人でも、官界に入る場合は、下級の事務官から始めなければならず、しかも長い間務めても、政治の中枢に参画する地位をうる望みは――耶律楚材・〓経などの例外を除き――、ほとんどなかった。したがって、元末には知識人の中から、官界に背を向けて自由人となり、在野で文学藝術に心を寄せる人が多く出て、文人主義が起った。道士となった張雨、画家で“元末の四大家”に数えられる呉鎮、倪〓・王蒙は、その代表的な文人である。かれら文人の精神は、明代の文人主義に受けつがれていった。



 明時代
 漢民族王朝を復活させたのは朱元璋(太祖洪武帝)である。かれは托鉢僧から紅巾軍に身を投じて次第に頭角をあらわし、ついには張士誠ほかの群雄を伐ち、また元室を北方へ駆逐して一三六八年には南京で帝位に即き、国号を明と称した。元朝約一〇〇年間のモンゴルの支配から、ここにふたたび漢民族の国家が蘇ったのであるが、貧農階層から皇帝にのぼりつめたのは、中国の歴史上、朱元璋ただ一人である。
 洪武帝(朱元璋)は、政治の理念を儒教に据える伝統的な教化施策を徹底して実行した。一方、農村の経済復興の基盤に、里甲制(一一〇戸を単位として連帯責任をとらせる)ほかをはかった結果、建国二〇年後には早くも国庫は潤った。
 ただし洪武帝は、中央集権の強化をはかり、みずから宰相の権限を兼ね、中央はもとより地方の官僚・学者にいたるまで、一種の秘密警察を使って監視し、君主独裁体制を完遂した。この体制の根幹は、明朝二二七年間のみならず、清朝にまで影響する大改革であるが、かれ一代で構築したのである。
 洪武帝の死後、嫡孫の建文帝が皇位を継いだが、諸王の権限を抑制しようとしたことが原因で内乱(靖難の変)となり、結局、次男の燕王朱棣(永楽帝)が南帝を隠して皇位を奪い(一四〇二−二四在位)、北平(北京)を首都と定めた。その後、第一〇代の弘治帝(一四八七−一五〇五年在位)ころまでは、一応、平和で豊かな時期であった。
 明代中期は、第一一代正徳帝が暗愚であったため、政治は宦官に握られ、これが導火線となり、次の嘉靖帝(一五二一−六六年在位)期まで、農民の反乱が各地で起こり、また北方はモンゴル族韃靼部に、東南沿岸は倭寇に侵犯されるなど、政治は紊乱した。
 明の滅亡も官僚層の亀裂に端を発した。ことに万暦帝(一五二七−一六二〇)は、政務を怠って悦楽に溺れ、政治の弛緩が社会の放埓を招いた。さらには、その後期における“閹党”(宦官とこれに結託した官僚)と、“東林党”(反宦官派の官僚ほか)の抗争が泥沼化して内政は混乱した。加えて兵士の反乱・農民暴動、さらに女真(のちの清)の外圧などが重なり、天啓帝・熹帝(一六二〇−二七)以降は衰退を加速化し、ついには李自成によって、一六四四年に明朝は滅んだ。
 明代の書の背景
 洪武帝の文教政策は、元朝統治下の南人が標榜した伝統文化への回帰と合致した一面がある。永楽帝(一四〇二−二四年在位)勅撰の『永楽大典』二二八八五巻におよぶ書籍の収集は、その象徴である。
 明代初期の書も、元代の復古路線を継承するかたちで始まっている。が中期には復古路線を踏まえた古典尊重の立場でありながらも、学書の対象が拡大し、表現も多様化する。中期の書人は、過去の書の歴史を客観的に展望し、さらに個々人の好尚によって、古典を選択するようになったのである。しかも表現の多様化を支えたのは、書人の活動基盤が官から民に移行したことによって生まれた、自由闊達な気風にも一因がある。
 さらに明中期以降には、生産の分化、交通の発達、貨幣の流通などにより、商業が繁栄して全国的市場が生まれた。これにともなって、書画の商品化が急速に進み、知識人の間に、書画を売って生計をたてる生活様式も生じた。
 また作品の形式も多様化した。詩文を大書して巻子本に仕立てる風は宋代にあったが、明では巻子本のほかに、条幅や扇面が流行し、対聯も明末から一形式となった。さらに素材とする紙・絹の種類も増え、表現の多様化をすすめた。なお中期以降には、民間での収蔵・鑑賞が盛んに行われるようになったことも、書人の視野を広める一因となった。
 鑑蔵と集帖
 明代中期以降の正徳・嘉靖・万暦の時代は、文化の爛熟期に当り、文房清玩の風も盛況をきわめた。
 内府の収蔵は、洪武帝のとき元の奎章閣学士院の旧蔵品を中心に、相当な数にのぼったが、中期以降、しだいに民間に流出した。そうした時期、莫大な富を背景に、文物収蔵の豊富さを競う風潮の中で、華夏・文徴明・項元〓・王世貞・韓世能・董其昌ら名高い鑑蔵家が多数現われた。かれらの多くは家蔵品をもとに、技術の粋を尽くして集帖を刊刻し、書学の進展に多大の貢献を果した。集帖の主なものに、華夏の『真賞斎帖』、文徴明の『停雲館帖』、呉廷の『餘清斎帖』、董其昌の『戯鴻堂帖』ほかがあるが、なかでも王肯堂の『鬱岡斎墨妙』、『真賞斎帖』は名帖と称えられている。また『淳化閣帖』の翻刻も盛んで、泉州本・王泓館本・潘氏本・粛府本などがとくに普及した。なお、過眼した書画や家蔵品を記録する書画録の体裁も整ったほか、書画に関する著述も数多く出版された。なかでも王世貞『〓州山人題跋』や、董其昌の随想を後人が集めた『画禅室随筆』は、後世に多くの読者をえた。一方、金石学は低迷で、都穆の『金薤琳琅』、趙〓『石墨〓華』ほかの著述があるものの、考証の面では疎漏のそしりをまぬがれない。
 明代の書
 以下、明代の書を便宜上、前期(洪武〜天順 一三六八〜一四六四)・中期(成化〜嘉靖 一四六五〜一五六六)・後期(隆慶〜崇禎 一五六七〜一六四四)に分けて通覧する。
 前期
 明初に書名が高かった宋克・宋〓・宋広(“三宋”という)は、いずれも一方では趙孟〓を水脈として王法を遵守し、一方では康里〓〓・楊維驍フ野趣清新の書風を継承している。宋克は沈度・沈粲兄弟(“二沈”という)に書法を授けたことで、その風は二沈の郷里である松江で流行し、いわゆる松江派(雲間派・華亭派ともいう)の隆盛に影響をあたえた。ちなみに松江府(上海市松江県)は、元では趙孟〓・楊維驕E倪〓らが寄寓し、文人主義を昂揚した土地柄である。
 一方、朝廷では、洪武帝が能書家を選抜して、重要文書の清書や書籍の書写に当らせた。三宋の一人宋〓や、のちに永楽帝時代の第一人者と称えられた解縉もその一人で、永楽帝期には、数百人の能書家が集まっていたといわれる。かれらの多くは、中書舎人の官に就いた人たちと、翰林院に所属した人たちで、前期の書人のほとんどが包括されている。なかでも沈度は、永楽帝のとき翰林院に招かれ、帝より「わが朝の王羲之」と絶賛された。当時は官僚受難の時代でしたので、だれもが上意に迎合してかれの風をまね、かれの楷書の書風が定形化し、“館閣体”とよばれた。
 なお前期には、館閣体のほか、章草や章草のタッチをとり入れた連綿の草書が流行したが、総じて元代の古典主義を観念的に継承した繊弱な書風で、現在ではほとんど顧みられない。
 中期
 明中期の政局は、内外ともに憂慮すべき問題をかかえていたが、まずまず太平の時代で、経済の発展にともない、文房清玩の趣味生活も洗練され、書の鑑蔵も盛んになった。書が元代の余風から脱却して、明独自の風趣をそなえるようになったのもこの時期である。
 松江では張弼が狂草で名声を博したが、かれを最後に書壇の主流は蘇州府(蘇州市)に移った。蘇州は元代では杭州とともに江南文人主義の一大拠点となっていた。しかし、元末には張士誠が蘇州に拠って、朱元璋に最後まで抵抗したため、明代初期には厳しい弾圧が加えられた。その後しだいに回復し、中期には内外商品の大集散地、絹織物の生産と染色加工の中心地として、中国第一の商工業都市になった。この繁栄に支えられて、明代を代表する文人が蘇州に輩出し、文雅な社交界が形成されたのである。かれらは通常“呉派”(呉中派・蘇州派ともいいます)とよばれる。その多くは官途に執着せず、一介の市民として都会での文墨生活を享受した人たちで、その処世は、前代に例のない新しい生活様式であるが、官界生活に背を向けたレジスタンス精神は、元末の江南文人主義を受け継ぐものでもあった。
 中期の蘇州の書は、元代以来の古典主義を踏まえて、伝統を遵守しているが、学所の対象は拡大した。その傾向は、中期のはじめに活躍した沈周の黄庭堅風、呉寛の蘇軾風に象徴され、二人の書は、後期に流行する北宋調の先駆けとなった。
 沈周・呉寛の後輩に、明を代表する祝允明・文徴明(挿図F)が現われて、蘇州書壇の名声が一段と高まった。祝允明は魏晋風の古風な小皆と黄庭堅の筆意をとり入れた狂草で、文徴明は王羲之の典型を追求した小楷と行書、また黄庭堅風の大字の行楷で、それぞれ人気を博したが、とくに文徴明は絵も沈周を継いで蘇州画派の様式を完成した巨匠で、蘇州芸苑の頂点に位置した。その歿後も、子の文彭・文嘉や門人の活躍で、文氏一派の勢力は保たれたが、その多くは文徴明の亜流にすぎない。文・祝のほかでは、とくに王寵が虞世南・顔真卿を学んで独自の風を打ち出したことと、文徴明の弟子陳淳が文の影響を脱して奔放な筆致を誇ったことが有名です。ただしおおむねかれらの書は、洗練された趣味と知性による平明な境地に留まって、作者の境涯を強烈に打ち出す書はまれである。
 なお、蘇州以外では、顔法と篆書の用筆によって、独特の様式をそなえた李東陽と、蘇州への対抗意識が強かった浙江の豊坊が出たことが、注目される。また、中期の末から後期にかけて、文彭・何震・蘇宣が出て、篆刻が書画に並ぶ芸術に進展した。
 後期
 蘇州書壇の大勢が文徴明の亜流に陥った明の後期、松江から董其昌が現われ、書壇の主流はふたたび松江に移った。しかし、董其昌と相前後して、徐渭・張瑞図・黄道周・倪元〓・王鐸・傅山らが各地から現われ、因襲的な手法を払拭する独創の様式を打ちたてるなど、この時期の書壇は、たいへんダイナミックな様相を呈した。
 中期の書はおおむね主知的で、奔放な筆致のうちにも理知の働きが感じられるが、後期に入ると、法に拘泥せず情念に任せた真率の表現が支配的になった。その兆候は、後期のはじめを飾る徐渭の書(挿図H)にもっとも顕著に現われている。徐渭は米〓と蘇軾を好んだが、その表現は情念の爆発を感じさせる剛放さで狂気を帯びる作さえある。
 明後期の書壇画壇の最高峰に君臨した董其昌は、書画の実作のほか理論にも卓越して、後世にまでも絶大な影響力をもった。かれは、趙孟〓を形式主義として痛烈に批判し、天真爛漫の境地を理想とする「熟の後の生(習熟した後、習気を一掃して、純真無垢の心境を書に反映させる)」の実現のために、率意を主張し、革新的精神の興隆に影響を及ぼした。北宋の蘇軾・黄庭堅・米〓らの書を習う風は、後期に入ることから急速に広まったが、なかでも米〓に私淑する人が数多く出た。董其昌もその一人で、董の革新的理論も米〓の理論に近い面がある。
 明末清初
 明末の動乱期――一六世紀末から一七世紀中葉――には、歳月に比して、優れた書人が多く、しかもこれまでにない新しい書風が興起し、一時代を画した。張瑞図・黄道周・倪元〓・王鐸・傅山らに代表される長条幅の連綿書がそれである。その前兆を・景鳳の雄渾な筆致の連綿や、徐渭の情念に直結した真率の表現にうかがうこともできますが、・や徐の書に比べてみるとき、かれらの連綿書には、犯しがたい堂々の威厳や不屈の気象がそなわっている。それを国家存亡の危機に瀕した緊迫感の反映とみることは、図式的にすぎるとしても、まったく無縁とは思われないのである。



 清時代
 清が南明政権を完全に倒し、康熙帝が即位するまでには、半世紀におよぶ激動の歴史があった。女真(ジュルチン)族の一首長・弩尓哈(ヌルハ)斉(チ)が一族を統一して、一六一六年に汗(ハン)の位につき国号を後金と称した。つぎの皇(ホン)太(タイ)極(ジ)(太宗)はさらに勢力を拡大し、一六三六年に元の伝国璽を入手したことで、国号を大清と改め皇帝の位に即き、女真の名も満州とした。
 太宗は父が布いた軍制(八旗)は継承し、文官の制度は中国的に整えた。第三代順治帝(一六四三−六一年在位)は、李自成軍を駆逐し、北平(北京)に遷都した。がなお、南明政権の掃討に腐心させられた。治世の間は、漢人の懐柔策をとり、また科挙を復活して知識人を登用し、一方租税を軽減するなど民衆の宣撫をはかった。
 第四代・康熙帝(一六六一−一七二二年在位)は、中国史上、唐・太宗に比肩される名君である。六〇年におよぶ在位の間に、対外面では版図をひろげ、内政面では儒教の説く聖天子を目指して学問を積み、政務に精励した。朱子学を官学と定め、科挙試により漢人を積極的に登用した。ただし、反満思想を抱く知識人には“文字の獄”とよばれる厳酷な言論統制をとった。その一方では、人材を起用して『康熙字典』『佩文韻府』『佩文斎書画譜』、それに一万巻もの『古今図書集成』を編纂させ、不満のはけ口をはかった。
 第五代・雍正帝(一七二二−三五年在位)の短かい治世ではあるが、酷薄な独裁者として君臨し文字の獄を一層強めた。この漢人知識人への圧迫は、かれらを筆禍の懼れのない考証学へと志向させたのである。
 第六代・乾隆帝(一七三五−九六在位)期は、清代ではもっとも平和で安定した時期であった。かれは聡明なうえ、幅広い教養をそなえた。その上、父祖の蓄積した財政によって、文化面にも惜しみなく力を注いだ。こと文物の収集は、その範囲と質量において空前絶後であって、およそ一〇〇万点はあったと推定される。内府所蔵の書画を整理させた『石渠宝笈』『秘殿珠林』の著録、法書の名跡を選んだ『三希堂帖』の集帖、青銅器の図譜に釈文を付した『西清古鑑』、古硯の図譜『西清硯譜』を刊行した。その一方で、厳しい言論統制は続けられていた。全国の蔵書家に書籍を献上させ、数千人の学者を動員し『四庫全書』七八七三一巻の叢書を集大成させたのも、一面では清の支配に不利な書籍は、禁書廃絶する意図もあった。
 しかし、乾隆帝の晩年は、官僚の綱紀が乱れ、経済政策の矛盾から農民階層に反乱が起こるなど、大清帝国にも暗い影がきざしはじめた。
 第七代・嘉慶帝(一七九六−一八二〇在位)は、乾隆帝の譲位で即位した。が、その翌年には白蓮教の乱が起こった。一八〇四年には平定したものの、天理教徒の反抗や、河南の海寇があいつぎ、国家権力の弱体が露呈し、清の衰退期に入ったのである。
 第八代・道光帝(一八三〇−五〇在位)、第九代咸豊帝(一八五〇−六一在位)、第一〇代・同治帝(一八六一−七四在位)期は、まさに激動の時代であった。一六世紀初頭ごろから、イギリスが貿易で入超がつづくことから、アヘンの輸出で不均衡の解消をたくらみ、アヘンの吸飲者が増えると同時に、銀貨が大量に流出した。林則徐が厳禁施策を断行した結果、一八三九年にアヘン戦争が起った。が、清は敗れて南京条約を結ばされ、帝国主義侵略を惹起する。咸豊帝の即位の年には、キリスト教徒の反政府運動の指導者、洪秀全のもとで農民も蜂起し、ついに太平天国の乱となった。以後十数年におよぶ動乱で、清朝の基盤はゆるがされた。ことに湖北や江南の地の被害は甚大で、悲惨な境遇に追いやられた文人らも数多く出た。八旗軍は弱体化し、曾国藩の私兵と外国の義勇軍の助力で、やっと鎮圧したものの、戦乱の最中に起ったアロー号事変の解決に、イギリス・フランスと天津条約を結ばされ、一八六〇年には、あらためて北京条約を強制され、そのうえアメリカ・ロシア・ドイツにも同じ条約を締約させられたことから、この後の清は半植民地化へと凋落していった。同治帝はわずか六歳で即位し、生母の西太后によるいわゆる垂簾政治のうちに短かい一生を終えた。
 第一一代・光緒帝(一八七四−一九〇八在位)は、同治帝に皇子がなかったことから西太后の強権で醇親王の第二子から、わずか四歳で即位させられた。彼女の独断は、さらに宣統帝(一九〇八−一二在位)を三歳で即位させた。
 光緒帝の時代は、ロシア・フランス・イギリス・日本に領土を割かれてゆく中で、狂信的集団の義和団事変が起った。西太后一派は義和団を後押しした結果、一九〇〇年に日本など八箇国と開戦して惨敗し、列国に駐兵権を許し、かつ膨大賠償金を払わされた。さらに光緒帝・西太后があいついで崩じ、袁世凱らの軍閥が抗争して混乱する中で、一孫文らの中国同盟会の勢力で辛亥革命が起き、翌一九一二年に民主制による中華民国が成立し、宣統帝は退位した。清は太祖から一二代、二九九年で滅亡し、また秦始皇帝以来二一〇〇年間も続いた皇帝政治の幕も閉じた。
 実事求是
 清は漢人との協力で政治を行うのを基本方針とし、重要な長官のポストも、満人と漢人とを一人ずつ置くかたちをとった。しかし、漢人の反清思想をもっとも恐れた。そこで前述のように、康煕・雍正・乾隆の三代では、厳しい言論統制が布かれ、しばしば筆禍事件(文字の獄)が起き、漢人の知識人が重罪に処せられた。このため、学術は筆禍を被る心配の少ない考証学(経学・史学等のテキストに綿密な原典批判を行う)に向うようになった。
 明末に端を発した考証学は、右の事情に加え、康熙帝や乾隆帝の学術奨励によって加速的に進展し、乾隆から次の嘉慶にかけて“乾嘉の学”とよぶ全盛期を迎えるにいったのである。こうして清では、確実な証拠を収集し、主観を排して客観的に真実をとらえようとするいわゆる“実事求是”の学究精神が旺盛になった。実事求是の精神は書学にも反映され、客観的視点によって、〓刻をくり返すたびに原蹟の姿が失われてゆく法帖の限界を強く自覚し、原蹟が備えていた本来の書法を初唐の碑に求め、さらに遡って漢碑にうかがおうとする態度に変化した。碑への関心が高まった要因の一つは、この点にある。
 金石学
 金石学は、金文や石刻の文字を研究対象にする学問で、考証学と表裏一体である。文字学はもとより、経書や歴史、地理の考証に缺かせない分野である。金石学の萌芽は北宋に遡るが、清初から一段と活発になり、以来、長足の進歩をとげた。山野に埋もれていた金石がつぎつぎに発見され、世の中に紹介されるにつれて、書人の金石への関心も自然に高まり、碑や金文を学書の対象とするようになっていった。
 清朝金石学のパイオニアとされるのが、明の遺民顧炎武である。その後、銅器目録・図録・文字・考証等に細分化して、研究はいっそう精密になり、著述も無数に著された。例えば、金文研究では、阮元の『積古斎鐘鼎彝器款識』が、本格的な研究の端緒を開いた。また、文字学に新風を吹き込んだ呉大澂の『説文古籀補』、羅振玉が収集した資料をもとに器形や書体を研究した王国維の業績、王の学問を継いだ容庚の『金文篇』などは、ことに著名である。
 一方、石刻研究の著名な著述に、緻密な鑑別と考証を駆使して書学に裨益することの多かった翁方綱の『両漢金石記』ほか多数の著作、考証の模範とされた銭大マの『潜研堂金石文跋尾』、孫星衍・〓〓の共著で全国規模の現存石刻目録『寰宇訪碑録』、一五〇〇種を超える金石文の原文を載せ、諸家の考証を附した王昶の労作『金石萃編』、石刻に関する最初の概論を試みた葉昌熾の『語石』などがある。このほか、〓〓の『金石文字弁異』、顧藹吉の『隷弁』、羅振〓の『碑別字』などの字典は、今日でも書学者に広く利用されている工具書である。
 また金石学が研究対象とする範囲も、時代が下るにつれ貨幣・古鏡・璽印・封泥・瓦〓、さらには甲骨文や簡牘などにまで拡大し、それぞれの分野で輝かしい成果をあげた。このような金石学の発展が、たえず書学に新しい文字資料を提供し、書の多様化を推し進めた。
 書人と書学
 以下には康熙〜雍正、乾隆〜嘉慶、道光〜宣統、辛亥革命後の四期に分けて、書人と書学の動向を概観する。
 康熙・雍正期
 康熙帝は『康熙字典』『古今図書集成』をはじめ、多くの文化事業に漢人の学者を当らせるなど、漢文化の発揚に熱心であった。その康熙帝の好みにかなった書人は、沈〓である。かれは明末の董其昌の筆法を継ぐ直系でもあったので、康熙帝の治世には董の風が流行し、理論面でも董の影響をうけ、その風潮は次の雍正や乾隆のころにまで尾を引いた。この期の査昇・姜宸英・張照らの書は、唐の顔真卿や北宋の蘇軾・米〓らの書風を加味する加減に違いはあっても、董の書を根底にする点では一致している。
 科挙試における官吏登用試験では、書の技能も問われたので、董風は朝廷を中心に広く流行したが、その一方で、傳山・王鐸らに代表される浪漫的で豪放な連綿の行草が、最後の花を咲かせていた。しかしそのころ、一部には注目すべき新しい動向も生まれていたのである。それは鄭〓と朱彜尊の隷書である。二人は、漢碑に注目した先覚者で、明人の隷書とは大きな隔たりがあり、漢隷を直接習う風気を醸成したのである。
 なお、書学に関するこの時期の著作では、歴代の理論・評論や伝記などを集成した康熙帝勅撰の『佩文斎書画譜』が、帖学の学問的基盤を築いた意味でとくに重要である。理論では、楊賓の『大瓢偶筆』や王〓の『論書〓語』など、見るべきものも多いが、なかでも王〓は、董風の流行を悪習と批判し、初唐の碑に古法を求めるべきことを唱えた先覚者の一人であるほか、考証学を駆使した碑帖研究の功労者でもあった。また、明の後期から形式が整ってくる書画録(収蔵品や過眼した書画を仔細に記した類)にも、孫承沢の『庚子銷夏記』、卞永誉の『式古堂書画彙考』ほか、重要なものが多く著されている。
 乾隆・嘉慶期
 乾隆帝は文化事業に熱心であったが、芸術にはことのほか心を寄せた人であった。書は王羲之書法継承の最右翼であった元の趙孟〓を尊尚し、王羲之を中心とする古法への復帰の風気を醸した。また、前にも触れたが、『淳化閣帖』の定本をめざして改編した『欽定重刻淳化閣帖』の刻や、内府所蔵の書画を詳細に記録した『石渠宝笈』をつくらせるなど、帖学面で多大に寄与した。
 乾隆帝の治世は、厳しい言論統制下にあったが、次の嘉慶帝期には筆禍事件が影をひそめたものの、考証学は長足の進歩をとげ、書人の間には金石学に刺激されて、碑碣の書を習う風気が高まった。とくに隷書にはケ石如・伊秉綬・陳鴻寿らの名家が続出する。
 なかでもケ石如の出現によって、清代の篆・隷の表現が一変したといってよいだろう。かれはまた楷書でも六朝の碑に注目した先覚者で、のちの碑学派の興隆を予感させる作品を残し、実際にも六朝の碑を尊尚した理論家保世臣に、決定的な感化を及ぼした。
 一方、民間に収蔵する墨跡を〓勒上石する風潮は、明代にひきつづき盛んであった。清初の梁清標『秋碧堂帖』をはじめ、呉栄光『〓清館帖』ほか数多いが、裴景福『壮陶閣帖』といった集帖の前後を飾る巨観もある。こうした法帖中心に書を学ぶ人たちを、後世、帖派とよぶ。しかし、法帖を中心に習う人たちにも、唐代の碑を兼ねて習ったり、さらに漢代の碑に古法の源泉をうかがおうとする考えが定着するようになる。唐碑の中ではことに欧陽詢の書が、王羲之書法を受け継ぎ隷書の遺意を伝えるとして尊尚された。翁方綱や成親王の書は、この風潮を代表する。また、董其昌を習いながらも亜流に陥らず、独自の作風を開拓した人たちも現われた。劉〓はその第一人者で、かれの書は清代の帖学が到達した一つの極地といえよう。
 ところで、揚子江(長江)と大運河が交差する揚州の地は、この時期、塩業の中心地として一段と栄え、いわゆる塩商の中から富豪が現われた。かれらは文化的生活を享楽し、学者文人のパトロンにもなったことから、多くの書画家が揚州に寄寓した。揚州八怪とよばれる画人たちはその代表格で、書では八怪のうちとくに金農(挿図F)と鄭燮が、金石趣味と孤高の精神に根ざす斬新な様式を創始したが、かれらの豊かな創造性は、富裕の経済力を背景にした揚州社会の趣向を反映するものでもあった。
 なお乾隆中期から嘉慶期にかけては篆刻が飛躍的に進展した時代でもあった。その最初の頂点は、この時期に浙江省杭州で活躍した西〓八家(丁敬・黄易・蒋仁・奚岡・陳豫鍾・陳鴻寿・趙之〓・銭松)と安徽省のケ石如である。その後、近代にいたるまで数多くの名家が現われ、篆刻が盛行した。
 道光〜宣統
 前述の如く激動の時期だけに、前代のような文化事業はみられないが、書は金石学の成果を基礎に、学書の対象がいよいよ拡大して、表現がいっそう多様になった。しかし、光緒以降は、やや頽廃的とも映る耽美的傾向の書も出現する。
 道光期には、欧陽詢の碑を尊尚する風潮が尾を引く一方で、以後の書の方向を決する新しい気運が盛りあがりつつあった。北碑の書に対する覚醒がそれである。北碑とは、南北朝時代の北朝の石刻を指す。従来、北碑は異狄の書として卑しまれ、書学の対象になることは皆無であったが、この時期になってにわかに脚光を浴びたのである。
 この革命的動向の起爆剤になったのが、嘉慶・道光期の学術の中心人物阮元が著した二篇の革新的論文、「南北書派論」「北碑南帖論」である。この両論は表裏一体の内容で一口にいえば、北宋以来絶対視してきた、王羲之を中心とする“法帖”がいかに古法を失ったものであるかを指摘して斥け、一方、夷狄の書として顧りみられなかった北朝の碑碣にこそ、むしろ書の本質をなす遒勁美をそなえている、と唱導したものである。この論に啓発された書人は数多く、その後における清代書法の脈流を変えた画期的な内容である。
 阮元と同じころ、包世臣は実作者の立場から北碑に深い関心をよせていた。かれは法帖や碑版を広く習い、執拗に追求してきた自分の筆法の源流を、六朝(魏晋南北朝)の碑、とくに北碑に見出そうとしたのである。北碑を重んじた点では阮元の立論と同じであるが、王羲之や孫過庭を尊尚もし、南朝の碑を重んじてもいる。ともかく包世臣が厳格に追及して案出した“逆入平出”の運筆法などの実践理論を、かれは『芸舟双楫』に収めた。かれの理論は、門下生の呉煕戴に受け継がれたばかりでなく、趙之謙の出現する素地となるなど、後世に与えた影響力は多大であった。
 阮元と包世臣が唱えた北碑尊尚論は、そののち何紹基(挿図H)や楊守敬、また南朝の碑を詳しく踏査した莫友芝らによって、南北両派に交流がなかったとした阮元の学説に是正が加えられ、北碑に重点を置きながらも、南朝の碑を含む六朝碑尊尚路線として深められ、清末には康有為が『広芸舟双楫』を著して、理論の大要を集約するのである。
 唐碑尊尚にかわるこのような新しい考えの人たちが現われた道光ごろから、北碑を習う人たちを碑学派とよび、法帖中心のひとたちを帖学派とよんで対照するようになり、咸豊・同治のころには碑学派が大勢を占め、だれもが北碑を口にするようになった。趙之謙や張裕サの書は、こうした碑学派を代表するものであるが、碑学と帖学とを両立する立場の人もいる。翁同〓のようにもっぱら法帖を習いながら、北碑や漢碑にも手を染める人や、何紹基のように碑帖を車の両輪のように兼ね習う人など、実際の学書はさまざまでした。しかも、碑を学んでえたものを行草書に応用するなど、表現の範囲もこの時期に拡大した。
 このような風気は篆書にも反映して、金文や〈石鼓文〉あるいは古印などの風を取入れて新しい書風を生むようになった。金文を取り入れた呉大澂、〈石鼓文〉に意を注いだ楊沂孫や、さらに工夫を加えた呉昌碩らの篆書は、その好例です。
 なお清末には、これまで目にすることのなかった甲骨文や簡牘・残紙の発見があいついだ。甲骨文は光緒二五年(一八九九)に偶然発見され、王懿栄・劉鶚による収集が始まり、その一部が四年後に『鉄雲蔵亀』として刊行された。木簡・残紙の方は、まず光緒二七年にスタインがニヤ遺跡から晋代のものを、ヘディンが楼蘭から魏・晋のものを発見し、スタインはさらに三三年に敦煌から約七百点の漢代の簡牘(敦煌漢簡)と、四世紀後半以降の膨大な量の写経や古文書(敦煌文献)を発見した。日本の大谷探検隊も宣統元年(一九〇九)に、有名な東晋の〈李柏尺牘稿〉ほかを楼蘭で発見している。
 辛亥革命後
 辛亥革命によって、共和政体の中華民国が成立したものの、その結果は軍閥袁世凱の独裁を生み、さらに軍閥と結びついた列強による半植民地化がいっそう深刻になった。その後、五四運動による反帝国主義闘争や日本に対する統一戦線などによって、国民党と共産党との合作が実現したこともあったが、結局、合作は破綻して一九四六年から全面的な内戦に突入し、ついに国民党が台湾に渡り、中華人民共和国が成立した。この混乱の約四〇年間に、文芸は大衆化が進んだが、書は甲骨文や簡牘の書を取り入れる人が現われたほかに、目新しい変化はなく低迷した。
 しかし、学術の面では活気があり、甲骨文の研究では、羅振玉が『殷虚書契』を公刊したほか、文字の解読を試みて『殷商貞卜文字考』さらに『殷虚書契考釈』を著し、学界を刺激しました。その後、甲骨文の書風に着目して殷代を五期に分けた董作賓の論文をはじめ、多くの研究成果が生まれました。簡牘では、スタイン発見の簡牘の写真を、羅振玉が亡命先の日本で『流沙墜簡』と題して刊行し、一九二七〜三四年には、ヘディンを団長に中国人学者が参加した西北科学考察団による学術調査が行われて、居延で約一万点の漢代の簡牘(居延漢簡)が発見された。また墓誌銘への関心も、清末に洛陽の〓山地区から多量に北魏宗室のものが出土したことで高まり、于右任や張〓らが墓誌原石の収集に情熱を傾けた。



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 西林昭一 中国書道簡史         2008.2.11写 

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