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日暮到達倫敦, 宿住 Bloomsbury 的 Mabledon Hotel、有早飯淋浴。
情報紙 Time Out 上找英国人飾 Rameau 的歌劇 Platee 開演於皇家歌劇場,尋找 Covent Garden 的歌劇場。可惜全面改装中。覚得北風吹初次的冷風漂、徘徊 Soho 的夜路。溢出公共酒[口巴]的道路上把玻璃杯或有水罐酒勁儿繼續大叨叨的倫敦人。
走大約10分鐘的大英博物館,因爲 Cartier 的宝石特別展覧警備厳重?開設時間已經過了而不開始。
于是 向徒歩約15分的 National Gallery。終日National Gallery。藏品顆粒正在疏忽。
晩上去昨天錯過的地方、王立歌劇臨時上演的 Barbican Theatre,看了英国歌劇 The Turn of The Screw。開頭青年 Ian Bostridge 唱温柔頭声的 resitative 是的確英国的。可是以後心理劇,只最後的催眠曲以外其他還未記。
10月5日(日)
首先去V&A。
中国、日本、朝鮮的展覧是微乱的感覺。繼續漏气的大大廳突然発現、仰視只的羅馬戰勝紀念圓柱或西班牙 Monceraeto 教会的教堂正面等。是Fake的大屋子。巨大的表面 喝立体與搓站起来,有某種異樣的感染力。復制關于、二略黒社的復制與 外 的標点思考(想法)蟋蟀們れ稻田。
中央2楼樂器的展出。C.P.E.Bach所謂相識的創作者Barthold Fritz (1697-1766)的kuraヴィ代碼(1751)。
襲撃白昼、女性ヴォ一个ru與薩克管・鋼琴的三重奏听同時美術館的食堂拿后面、惜筒、急大英国博物館往。
希臘的壺畫的数量多的。
游覧客人的擁擠的夸耀っぽ佐野中央、照明 下了圖書館被大開的rin死蕨類植物的福音書。
夜間、郊外有足球的殿堂Wembley Stadium的鄰成果稻田Wembley Arena 往。女子短發deィ緑豆的音樂会Time Out Of Mind。
8時从的2組的 場節目在……中一半大約的觀覧席但是、9時女子短發deィ緑豆好容易登場時候在……中密密麻林超滿員腹足類炉缸。孩子从成人到寛客人層次。Like a rolling stone, Don't think twice it's all right. 等的熟識的呉哥繼續 Love sick, Rainy day women 截止。11時過終了。
まずV&Aに行く。
中国、日本、朝鮮の展示はごたまぜの感じ。続く吹き抜けの大ホールに突然、見上げるばかりのローマの戦勝記念柱やスペイン、の教会ファサードなどがあらわれる。Fakeの部屋。巨大な表面 のみが立体となって立ち上がり、ある種異様な迫力がある。コピーについて、二玄社の複製と別 な点で考えさせられた。
中2階に楽器の展示。C.P.E.Bachとは知り合いの制作者Barthold Fritz (1697-1766)のクラヴィコード(1751)。
おそい昼を、女性ヴォーカルとサックス・ピアノのトリオを聴きながら美術館の食堂でとった後、惜しみつつ、いそぎ大英博物館へ。
ギリシャの壷絵の数々。
観光客の雑踏のほこりっぽさの中、照明を落とした図書館に開かれたリンデスファーンの福音書。
夜、郊外にあるサッカーの殿堂Wembley Stadiumの隣にできたWembley Arena へ。ボブディランのコンサートTime Out Of Mind。
8時からの2組の前座には半分ほどの客席だったが、9時ボブディランがやっと登場する頃にはびっしり超満員になる。子供から大人まで広い客層。Like a rolling stone, Don't think twice it's all right. などのお馴染みのアンコールに続き Love sick, Rainy day women で閉め。11時過ぎに終わる。
10月6日(月)
パリへ。暖かい。★★★Hotel Royal Saint-Michel。
さっそくわざわざそのために近くに泊まった、クリュニーの修道院へ。
夜エッフェル塔近くSuffren 通り、ポンピドーセンターの客員研究員として7月から来ているT 一家の住まいを訪問、夕食。パリでは久しぶりという雷雨。
10月7日(火)
火曜はルーブルが休みなのでオルセーへ。
ガルニエ設計のオペラ座を半分に割って、天地奥行き共に深い内部の構造をみせた精巧な模型と、透明な床を踏んで俯瞰できるオペラ座周囲の街並の模型がおもしろい。
終日オルセー。
閉館後、ルネサンスの木の梁を残した風情の★★★Hotel de L'Odeon へ宿を替える。
夜、オペラ座、ペレアスとメリザンド、11時終演。能のようなシンプルな演出。
10月8日(水)
道の途中、ドラクロアの静かなアトリエに寄った後、終日ルーブル。始めに法隆寺百済観音の特別 展示を見る。ドラクロワもすごいけれど「自由の女神」と交換とは。
大規模なルーブル改装計画の最中で、展示を移動したり全面的に閉鎖している所があり、開いているはずの北方絵画、18世紀以前のフランス絵画の部屋も今日は閉まっている。
帰りにSaint-Germain des Pres 教会で、モーツアルトのレクイエム。80人ぐらいの合唱、大編成にしたため音を塊にしてしまい残念。始めに2曲やった弦楽付のP. Husser のパンフルートソロ、アンダンテがしみる。
10月9日(木)
モンパルナス経由Banlieuでヴェルサイユへ。
プチトリアノン、グラントリアノン。都市の中で絵画や美術品ばかりを見ている脳に、ディズニーランドのような田舎屋が楽しい。
Hotel de L'Odeon は今日以降予約がいっぱいなので、紹介された近くの★★★Hotel de Fleurie へ移る。
夜 Chatelet の劇場で、Semyon Bychkov の指揮するパルジファル。最後の浄化された場面 を期待したが、2幕目Waltraud Meier のKundry の叫びがおどろおどろしい迫力、なんとも。
10月10日(金)
T 宅でおちあい、モンパルナス経由Grandes Lignes でシャルトルへ。
列車から見えるイルドフランスの秋の田舎の中間色の緑はやわらかく、日本の自然をも思わせる。柿の実さえもなっているようにみえる。
シャルトルの教会は、まだ観光客が少ない。昼のオルガン演奏。
遅い昼食はワインと山盛りのムール貝。カレー味の下味がおつまみによい。
再び教会に戻り光線の変化を視る。
夜いったんT 邸へ戻り、シャンゼリゼ裏のHotel Vernet の★★レストラン、Les Elysees へ。ブルゴーニュの赤1992 に貝柱の前菜、鳩とファアグラの皿。はちきれるような新鮮な素材と重厚な味わい。
10月11日(土)
午前中、モロー美術館へ。それから今日まで閉まっていたオランジェリー美術館へ。 歩いてさらに20分ほど行列しグランパレの評判の特別展、ジョルジュ・ド・ラトゥール展。
残った時間、再びルーブルへ。今度は北方絵画を見たが、ワトーなど18世紀フランス絵画はとうとう閉まっていた。
夜再びオペラガルニエへ。ヌレエフの振り付けたバレエ、白鳥の湖。華やかな舞台は、肉体の修練を花火のように閃かせて消えていく。Wolfgang,/Rothbart 役のミック・ジャガーに似た男性ダンサーWilfried Romoliが存在感ある。王子役はなんとジャンプを連続してこけていた。歌舞伎のような中心を引き立てるシステム。オペラ座、歌舞伎座と近く感じた。
10月12日(日)
ホテルのチェックアウトをすませ、ノートルダム寺院へ。昼のミサが始まっており、2時間ほど参列する。合間に歌われるオルガン付女性ボーカルソロの詩篇89が、やわらかく恍惚として美しい。少年合唱を加えたウイリアム・バードのミサ曲も、天から降ってくるように中空に漂う。
教会内の売店で、ノートルダムの聖歌隊も加わりA Sei Voceが唱うジョスカン・デ・プレのミサHerculesのCDを選ぶと、
ジョスカンは最高ね私も大好き、と店のおばさんが応えてくる。
鐘楼に昇れば、先ほどミサで隣同士握手をした、天使のようにかわいらしい女の子とまたあう。
ノートルダム地下のローマの遺跡。
サンシャペルヘ。夕刻発の帰国の便へ。
成田着。
ヨーロッパ!
日本に戻ってすぐに、再び雑事と日本的な人間関係の中に取り込まれる日々。
短い間だったけれど、今回感じたことは日本との違いよりむしろ、歴史の転換の中で目に見えない所で共通 する何か。それを個人的には、沈黙の音楽とでも呼べるだろうか。
行列をつくって視た、闇を照らす画家ジョルジュ・ド・ラトゥールの絵画はもちろん、通 りすぎ観てきた数千の美術品にも、朝の地下鉄で聴いたアコーディオンで弾くバッハのフーガにも、音やイメージの具体的なものを通 して現われださざるをえない、共通する何か。
ウィーンにいて活躍する古楽ヴァイオリン奏者、ヒロ・クロサキは、楽器はもとより弓・弦にいたるまでオリジナルを尊重した演奏の後、次のように感想を述べる。
また日本在住の古楽演奏の第一人者、有田正弘はクラヴィコードにふれ次のように話す。
クラヴィコードは、日本ではまだほとんど知られていないし、欧米でもそれに等しいんだけれど、この世の中で最も音量 の小さな楽器の一つは、それにもかかわらず、その表現能力の幅にはすさまじいものがある。この前、あるところでぼくがイタリア料理を作り、クラヴィコードを弾くという、仲のいい仲間だけの集まりで、フルーティストなのにクラヴィコードを弾いたんだけれど、ぼく自信がいつも感じるのは、あのクラヴィコードの 無音に近い弱音 の中で表現していくということは、まず自分自身がその音をどれだけ深く感じることができるかという問題と、聴衆の側にまわったとき、その小さな音の中に表現を聴くという姿勢そのものが、何がなんでも聞こえてきちゃうという音量 ではないから、そこに精神的に集中して入り込んでいく。そのときの、ふだんは聴き逃していたかもしれないような微妙なニュアンスを、つい全部嗅ぎとってしまう。そこで深く心の中に入り込む。そういうものが非常に面 白いと思うのね。
"Inner Dynamics"の考え、クラヴィコードの「無音に近い弱音」とそこから見えてくるもの。ヨーロッパの厚い伝統を受け止め、新しい展開を模索する二人の音楽家から出てきた体験は、ともに極めて共通 しているのではないだろか。
沈黙の音楽とでも究極に言えるこのことは、アジア圏の一員である日本人だから出てきた考えかもしれない。
そしてガット弦のストラディバァリウスやクラヴィコードを、そのまま東アジア圏の楽器の王者である琴(中国の古琴、七弦琴)に置き換えれば、それは遥か古代から最も大切にしてきたイデアであることに気がつく。
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